十三.ひといち倍
(注:シモネタ内容を含みます)
「ちょっとお母さんの手伝いをしてくる。あは、あは、あははははは……」
菜月が乾いた笑いを響かせながら、席を立って台所の方に行ってしまった。
リビングに残ったのは、菜月のお父さんと俺だけだ。
すると、菜月のお父さんが小声で俺に話しかけてきた。
「真ちゃん、真ちゃん。ゴム紐の原理のことだけど、さっき真ちゃんが言っていたことはちょっと違うんじゃないかな」
えっ、違うって?
どの部分が?
「さっき、『腕の振りをカウントしてる』って言ったよね。あくまでもこれは開発者としての私の想像なんだが、違う部分の揺れをカウントしている可能性が高い」
違う部分って?
腕の振りをカウントしていたんじゃなかったのか?
もしそうだとすると、俺が一生懸命腕を振ってもカウント数が伸びなかったのには納得がいく。
でも原理については、確か『ゴム紐の近くで揺れる振り子』と菜月のじいちゃんが言っていたような気もするけど……。
「元来コイルというものは、輪の中の磁場の変化に反応しやすい。だから腕をいくら振っても、それは輪の外側だからあまり効果はないんだよ。まあ、このコイルは感度がいいから、輪の外側で腕を振っても多少の電波は発生すると思うけど」
ということは、輪の内側にある振り子ってことか?
それは何だ?
パンツのゴム紐の中で振り子のようにブラブラと揺れているものは……。
「……!」
まさか。
そ、それは、男にしかない、ア、アレか?
顔を上げると、菜月のお父さんは満足そうな表情で相槌を打っている。
「どうやら真相に思い当たったような顔をしてるね。そうだよ、男の人のアレの揺れをカウントしている可能性が高い。まあ、私は話を聞いただけだから、実際にそうなのかはゴム紐やシステムを見てみないと分からないが」
でも待てよ。
菜月のパンツの件はどうなるんだ?
菜月にアレは無いけどちゃんと電波は発信してたぜ。
俺は菜月のお父さんに疑問をぶつけてみる。
「でもおじさん。腕を振っただけでも電波が発信することを、俺は確認しているんですけど」
菜月のパンツで――とは、さすがに言えなかった。
「だからさっきも言ったように、腕を振っても電波は発信する。でもそれは非常に弱いんだ。きっと、アレが揺れる時に発生する電波の数十分の一くらいしか出力が無いんじゃないかな。サッカー部で使っているシステム、えっと何て言ったっけ、ブラブラシステム?」
「ブリブアシステムです」
「そうそう、そのブリブアシステムでは、サッカーコートの端からでも電波は届くんだろ? ということは、アレが揺れる時の電波は軽く百メートルは届いていることになる。一方、腕の振りで生じる電波は、せいぜい数メートルしか届かないんじゃないかな」
そうか、菜月のパンツセンサーが三メートル離れると感知しなくなるのはそういうことだったのか。
ブリブアは試合を通じてちゃんと記録が取れているのに、パンツセンサーだけやたらと受信限界が短いなんて、なんか不思議だとは思っていたんだよ。
「じゃあ、アレが沢山揺れるようにすればいいんですね」
「理論的にはそういうことになる」
亮のカウント数が多いのは、アレが沢山揺れてるからってことなのか。
あいつ小っちぇからな。アレもプルプルって感じで揺れてるんじゃねえの。
でも俺のカウント数が少ないのはどういうことだ?
俺のは揺れにくいってことか?
「真ちゃん、なんかニタニタしてるけど変なこと考えてるだろ。まあ、男としてのおじさんの経験から言うと、エネルギー充填二十パーセントくらいが一番いいんじゃないか?」
おいおい、菜月のお父さんってこんな人だったっけ?
まあ、あのじいちゃんの息子なんだから実態はそうかもしれないな。
「そうですね。百パーセントにしちゃうと揺れませんからね」
幼馴染のお父さん相手に、話をどこまでシモネタに振っていいのか分からなかったが、一応男同士の会話として相槌を打ってみた。
「あははは。そうだな」
ん? 好感触?
なんだか菜月のお父さんが身近に感じた瞬間だった。
「でも、菜月を見て百パーセントにするなよ」
一つ釘を刺されたけど。
「ちょっと考えてみたんですけど、サッカーのプレイ中にアレを人より多く揺らすなんてできそうにありませんね」
俺は最初、ブリブアシステムの原理は腕の振りだと思っていた。そしてそれなら、頑張ればズルができると思っていた。
が、実際やってみると無理だった。腕を人より振ってサッカーをするなんて至難の業だ。第一プレイ自体が壊れてしまう。かと言って、ボールが無いところで腕を振っても、なんだかそれは傍目におかしな行為としか映らないだろう。
だから、サッカーのプレイ中にアレを人より多く揺らすことなんて、とてもできそうにない。
「そうだろうね。だからじいちゃんは、君達の部のサッカーパンツにあのゴム紐を付けたんだと思うよ。たとえ原理がバレたとしても、ズルできそうに無いからね。そういうところは意外と堅い人だった。『ひといち倍』頑張れというのが、じいちゃんの口癖だったしな……」
――ひといち倍頑張れ。
俺もよく言われたなあ。
じいちゃんに会う度に言われていたような気がする。
「でも、人一倍頑張れって言われても、人より頑張らなくちゃトップになれないのは当たり前じゃないですか。じいちゃんには申し訳ないけど、俺は当然のこととして話半分で聞いてましたよ」
ゴメン、じいちゃん。今のうちに謝っておこう。
俺はじいちゃんの方に向かってそっと手を合わせた。
「真ちゃん、何か勘違いしていないか? じいちゃんの言っていた『ひといち倍』って、人一倍じゃないんだよ」
えっ、どういうこと?
人一倍が人一倍じゃないって? 同じじゃん。
「あははははは、まだ分かってないって顔をしてるな。じいちゃんの言う『ひといち倍』とは、一・一倍という意味なんだ。一・一と書いて一・一倍。人と比べるのではなくて、昨日の自分よりも今日は一割くらい多めに頑張ってみよう、ってことなんだよ」
なぬ、一・一倍で『ひといち倍』だと!?
そんなの聞いてるだけじゃわかんねえよ。
ちゃんと解説してくれなきゃ、じいちゃん……。
「そんなこと初めて知りました。じいちゃんも、ちゃんと言ってくれればいいのに」
「あれ? 君達が小学生だった頃、じいちゃんが君達に意味を説明しているのを何度も聞いたけどな」
「ええっ、そうでしたっけ?」
「あの頃の君達にとっては難しすぎたんだな。まあ君達があまりにも聞かないものだから、じいちゃんもそのうちに言うのをやめたみたいだけど」
そんなことがあったのか。全く覚えてないぜ。
「いといち倍――じいちゃんにしてはいい言葉だった。まるで、満身創痍で地球に戻ってきたはやぶさのようだ」
はやぶさ?
地球に戻ってきたって、どこかの星から石を取ってきたというあの探査機のことか。
「じいちゃんの言葉とはやぶさって、何か関係あるんですか?」
「真ちゃん、はやぶさの話は知ってるよね。小惑星から地球に戻るまで三年以上もかかったという」
俺もテレビで見たことがある。なんでも小惑星に着陸した後で通信が途絶え、一時期行方不明になったらしい。それがやっとのことで見つかって、生きのこったエンジンの燃料を節約して使ってなんとか地球に戻ってきた。その放送を見た俺も、「お帰り」と言いたくなるくらいに感動したのを覚えている。
「何故、はやぶさの帰還が人々を感動させたのか、わかるかい?」
「さあ。奇跡のようだったからじゃないんですか?」
「そうだよ。絶体絶命のピンチから、はやぶさは一人で帰ってきた。それが人々の感動を呼んだ」
でもそれのどこが、じいちゃんの言葉と関係あるんだろう?
「その帰還を可能にしたのは、はやぶさの特殊なエンジンなんだ。イオンエンジンという名前のね。それは、ぶわっと勢いよく噴射するエンジンじゃないんだよ。少しずつ少しずつの積み重ねで頑張るエンジンなんだ。まるで、じいちゃんが言う『ひといち倍』のように」
へえぇ、宇宙を飛ぶエンジンって言うからすごいものを想像していたけど、菜月のお父さんの話によるとそうでもなさそうだ。まあ、技術者の目から見ればの話なのかもしれないけど。
俺もはやぶさのように一・一倍頑張れは、ブリブアシステムのカウント数も他の部員並になるんだろうか?
ん? 一・一倍頑張れば……?
まてよ、もしかして!?
むはははは、そうか、そうだったのか!
「おじさん、ありがとうございます。カウント数を上げるヒントが見つかりました!」
俺が急に大きな声を出したものだから、はやぶさの話にうっとりしていた菜月のお父さんはビックリした表情で俺を見た。
「あ、ああ、そうか、それはよかった」
――見てろよ、ジジイ。あんたの最後の策略を見抜いてやるからな。
俺はじいちゃんの棺の方を向くと、静かな闘志を燃やしながらゆっくりと手を合わせた。