第九楽章
メモを見つめ、電話のボタンに指を置く。
しかし、なかなかボタンを押すことが出来ない。
でも、ここで止まっていても駄目だ……
メモの番号を再度確認し、ボタンを一個ずつ確認しながら押していく。
そして通話ボタンを思い切って押して、受話器を耳に当てた。
電子音が部屋に鳴り響く。
『はい、城崎です。』
三回コールが鳴ると一輪の声で電話に出た。
結構速く出てきたのでびっくりした。
「あの、俺……俐桜だけど……」
少し声、小さかったかな? 聞こえたかな? そんな不安を抱いたが、電話の向こうで一輪が狼狽えているのがわかった。
『えっ……なんで? なんで俐桜君が私の携帯知ってるの?』
一輪はものすごくびっくりしながら、俺に質問してきた。まぁ、確かにそうだな。
「先生に聞いたんだ。それより、電話したのは……その……今日の事を謝りたくて……」
語尾が濁り、だんだん声が小さくなっていくのがわかった。しかし、一輪もわかってくれた様だ。
一輪は少し間をおいてから、聞いてきた。
『なんで俐桜君が謝るの? 悪いのは私なのに……これじゃ、俐桜君が悪いみたいじゃない……』
そう言って、涙声の一輪の声が電話から聞こえてきた。
泣いてるのか? なんで? 悪いのは俺なのに……
「いや、悪いのは俺なんだ……俺は……」
『違う! 悪いのは私なんだもん! 俐桜君も気持ちも知らずに、私、自分勝手な事ばっかり言って……だから、俐桜君、謝らないで!』
俺の言葉を切って、一輪はそう言った。
謝らないでと言われても……俺も謝りたいんだが……
それに、俺の気持ち? 俺自身が自分の気持ちをわかってないんだから、わかるはずがないんだ。
むしろ、不安定な俺の気持ちを理解しようとしてくれてるだけで嬉しい。理解なんて難しい事かもしれない。でも、一輪ならわかってくれる様な気がする。
俺自身が、俺の感情をコントロール出来ない。自分がどう思っているのかわからない。
でも、今日のことで唯一気が付いた気持ちがある。それは、きっと叶える事は難しい、いや、出来ない事だと思う。
「わかった、じゃぁ今日は謝らない。でも、これだけは言わせてくれ。今日の事は俺の八つ当たりなんだ。だから、一輪は悪くないんだ。」
『八つ当たり? そんなことない。私の自分勝手な言動で俐桜君を傷つけたことは事実なんだから。』
一輪はそう言って、少し鼻をすすった。
俺を傷つけたって……そんなに気に負うことじゃないのに……
『俐桜君。』
一輪が俺の名前を呼んだ。
「なに?」
『来年の春に、お花見しよう。俐桜の名前に入ってる、桜を。近くの桜の木を二人で見に行くの。私、頑張ってお弁当作って持って行くから。だから、来年の春にはたくさんたくさん話せるために、頑張ろうよ。』
来年の春。お花見。頑張ろう。
その言葉に俺は泣きそうになった。そんなこと言ってくれる人、今までいなかった。来年なんかに治るわけないと思われ、約束なんか無意味だと……
こんな約束されたの。初めてだ。
『俐桜君、今日、毎日が辛いって言ってたじゃない? 私はそんな時、なにか楽しみなことを想像して、それを目標にして、夢に向けて頑張るの。俐桜君にとって、お花見が楽しみになるかは分からないけど、私になにか出来ることなんかこれぐらいしかないから。ねっ。』
一輪が電話先で笑ったような気がした。
小さい頃、毎年家族でお花見していた。お団子を食べたり、お寿司を食べたり、お父さんと叔父さんと遊んだり楽しかった。
あの日が、戻ってくる。いや、それ以上の楽しみがあるかもしれない。
「わかった。約束だ。それまでに俺はこの病気を治す。だから、その時は一緒に花見に行こう。だから……」
『だから?』
―ヒトリにしないで……
なんて、言えないよな。
「いや、何でもない。とりあえず約束な。……そう言えば、なんで今日はそんなに俺を呼び出したかったんだ? 何かあった?」
普段、わがままを言うことのない、っというより、自分のやりたいことを我慢して暮らしてきた一輪は自分のやりたいことを言って欲しくても言ってくれないぐらいなのに。
今日は何かあったのか? 今日だけしか駄目っていうイベントだったら、申し訳ない……
『えっ……いやぁ~その……別に……何でもない! じゃぁ、バイバーイ。また明日ね!』
そう言葉を濁して一輪は電話を切ってしまった。
不審に思いながらも電話を切る。そして、一輪の言葉の最後“また明日ね”っと言う言葉を聞いて俺は嬉しくなった。
電話を終わってからどっと疲れが出てきた。ベットに倒れて大きくため息をついた。
とりあえず、謝ることが出来た。でも、なんだか謝り切れてない……
俺が外出出来るようになったら、今度はちゃんと謝ろう。それにしても、今日は何かあったのかな?
****
「っで、変な感じに終わったと……」
健康診査をしてもらいながら先生はそう言った。ベットに寝ころびながら先生に昨日のことを説明した。っていうより、先生はしつこく聞いてきたから仕方なしに答えただけなんだけど。
「っで、仲直り出来たのに何でそんなブスッてしてるの? 何かあったの?」
別にブスッてしてる訳じゃない。俺だって、怒っている訳じゃない……単に気になることがあるだけだ。
「別に……ブスッてしてないよ……」
「いや、ブスッてしてるよ。君は機嫌が悪い時もの凄く眉間に皺が寄るんだよ。今日は一段と皺が濃い。」
先生に言われて手で自分の眉間に触れる。俺って、そんなに分かりやすいかな……
「速く俺の病気……治んないかなぁって……」
小さな声で言ってみた。今の気持ちを正直に話した。
先生は俺の言葉を聞いてびっくりしていた。そして、すぐ少し笑った。
「俐桜君も変わったね。はい、チクッてするよ。」
注射を射しながら先生は俺にそう言った。腕に小さな鋭い痛みが走った。この痛みにはもう慣れた。
「変わった? どこが?」
注射する先生を見上げて聞いてみる。俺、変わったかな? あまり見に覚えがない。
「変わったよ。前までは病気なんか治りっこないって顔してた。治ったところでどうしようって顔をね。それが今では、病気は治るって希望を持ってる。これは大きな変化だよ。」
先生は注射の針を俺の腕から抜いて、脱脂綿で針の後のところを拭きながらそう言った。
確かに、そうかもしれない。治らないって思ってたし、治ったってすることはないって思ってた。それが、今は治るのを信じてる。
「それも、一輪ちゃんの影響なのかな? 恋は人を変えるって本当だね。」
先生は注射器を消毒して鞄へとしまった。俺は注射で射されたとこをさすりながら、体を起こした。そして、先生の言葉が引っかかった。
「はぁ? 恋…?」
「そう、恋。」
先生は当たり前のように言い返してきた。カルテを書き込みながら俺の脈を取った。
「これって、恋なの?」
心のある疑問をそのまま先生に聞いてみた。先生はまた少し驚いて俺をみた。
「そうだねぇ……俺から見たらそうだと思うよ。俐桜君はそう思わないの?」
考えたことがなかった。今まではずっと憧れだけだった。
その憧れが、今はどうなってるんだ?
「分からない……恋したことも、興味を持ったこともないから。」
ずっと病院にいたから、する事なんかなかった。それに興味もなかった。小説とかを読んで軽く触れることがあっても、どうも思わなかった。
「そうかぁ~じゃぁ、今から言うことに正直に答えてね。一輪ちゃんともっと一緒にいたいって思う? もっと彼女のことを知りたいって思う? 彼女を守りたいって思う?」
先生は俺の手を持ってそう聞いてきた。
一緒にいたい? そりゃ、いつも一輪が帰るとき寂しいけど。
知りたい? 一輪が何が好きで、何が嫌いか、何をしたいかなんか、俺は知らない。
守りたい? こんな弱い俺が守れるなら、一輪を守りたい。親がいない悲しみから俺が救ってやりたい。
俺が考えて一回深く頷くと、先生はにっこりとした。
「そう思うってことは、それは恋だよ。俐桜君は一輪ちゃんが好きなんだよ。」
面と向かって言われると、恥ずかしかった。顔が赤くなるのが分かった。
俺が一輪が好き? 俺が…?
好きってなんだ? 恋って何? そう分かってしまうと、これから一輪と接しにくいじゃんか……
「まぁ、俐桜君の初恋はなかなか順調みたいだね。上手く行くかもよ。」
先生はニヤニヤしながら、真っ赤の顔した俺をみた。俺は三角座りをして、足の間に顔を挟んで顔を隠した。
「なんでそんなの分かるんだよ。それに、一輪が俺のことどう思ってるかなんて分かんないじゃんか……」
一輪は単にお友達としか思ってないかもないじゃないか。俺の片想いかもしれない。
「いやいや、君たちを見てたら分かるよ。」
先生はそう言ってニヤニヤ笑った。なんだよ……
俺達を見てたら分かるって、何で? そんなに俺達分かりやすいのかな?
「よいしょ、っと……じゃぁ俺は帰るね。来週は病院で検査するから、入院とまでは行かないと思うから。」
先生はそう言って先生はそう言って、俺の部屋を出て行った。
先生が出て行った後の部屋は静まり返っていた。また検査か……
そのまま、ベッドに仰向けに倒れて天井を仰ぐ。いつになったら、治るのかな……?
****
本を読んでいると、病室に看護婦さんが入ってきた。看護婦さんの手には替えの点滴を持っていた。俺の腕に着いている点滴を見ると残り少なくなっていた。手には点滴の傷跡が惨たらしく残っている。
「俐桜君、今日の調子はどう?」
俺は頭に被っているニット帽を深く被り直して静かに頷いた。黙々と点滴を替え、目的を達したら病室を出て行った。
俺はまた本を読み始めた。点滴を刺した腕が痛んだ。
視線を本から窓へと向ける。桜の木から風で花弁が舞い散っていた。
「俐桜~飴ちゃん買ってきた……俐桜! どうしたの?」
お母さんはが病室に入ってきた。ベッドの横にあった本の山を病室に投げ捨て、点滴の針を無理矢理抜いて血を流し、泣いている俺を見たお母さんは俺の背中をさする。そんなお母さんの手を払って泣き続ける。
桜なんか嫌いだ……毎年桜を見る度に、胸が苦しくなる。
俐桜。桜のように綺麗に咲いて、皆に褒められるようにという気持ちを込めて、両親がつけた名前。
今は桜のように散っていく。散っていく桜の花弁が俺。このまま春が過ぎればみんな忘れていく。
そんな桜を見る度に、俺を嘲笑ってるみたいで……むかつくし、情けない……
「俐桜……どうしたの? 大丈夫?」
俺の手を握って訪ねる。母さんに俺の気持ちなんて分からない。こんな気持ち誰にも分からない。
今日は入学式。
今年で俺は中学になる。
みんな、中学に上がって新しい環境になってわくわくしているなか、俺はこの病室で今までと一緒。
変わらない毎日をこの病室で過ごさなければならないこの苦痛が、分かるわけない。
ニット帽を取ると髪の毛が生えかけの坊主とはげの間みたいな頭。
腕には惨たらしい点滴の痕。
骨髄移植の拒絶反応の傷痕。
何で、俺は綺麗に咲き続けれないんだろう……
****
遠くに聞こえるフルートの音。
うっすらと広がる視界は曇っていた。
(また昔の夢を見たのか……)
まつげに溜まった涙を指で拭い、体を起こす。あのまま寝てしまったみたいだ。まだ頭が目覚め切れてないまま聞こえる音色に耳を傾ける。
一輪の音色だ。
この曲、何だっけ?
ベッドから重たい体を起こして、窓へと足を進める。
窓を大きく開き、塀の上で吹いている一輪を見る。
「俐桜君。なかなか出てこないから先吹いてたよぉ~あっ……ごめんね、寝てた?」
一輪はそう言って申しわけなさそうに聞いてきた。
「まぁね。でも、良い目覚ましになったよ。」
俺は少し笑ってみせると一輪は俺の倍ぐらいの笑顔で笑った。
それは恋だよ。
先生の言葉が頭でこだまする。そして、少しずつ顔が火照ってくるのが分かった。
俺はそんな火照った顔を隠すためヴァイオリンを取りに一度部屋へ戻った。
ヴァイオリンのケースを取り出し、窓へと戻る。一輪はいつも通りそこに座っていた。
「今日は何を弾こうか?」
俺が訪ねると、一輪は少し微笑み、塀の上に立った。
「今日は俐桜君に聞いてほしいの。私の一番得意で好きな曲。聞いてくれる?」
一輪はフルートを持ってそう言った。
一輪の好きな曲か。何の曲か興味もあるし、今日はヴァイオリンを弾ける体力もないのが現実だ。
「もちろん。聞くよ。吹いてよ。」
俺が少し微笑みかけて答えると、一輪はぱぁ~と笑顔になって大きく頷いた。
フルートを構えて吹き始める。
一輪が吹いた曲は有名な「別れの曲」だった。
一輪の別れの曲はとても落ち着いていて、綺麗な透き通った音色だった。CDで聞いたどの別れの曲よりも綺麗で、気持ちがこもっていた。
数分、一輪は吹き続け、時期曲が終わった。
俺は小さく拍手をして、吹き終わった一輪を見つめる。
「ブラボー。良かったよ。別れの曲か、俺も好きだよ。」
「そう? ありがとう。別れの曲は昔、子守歌としと聴いていた曲なの。だから、小さい頃からこの曲が大好きで……この曲を吹きたくてフルートをやり始めたの。」
別れの曲が子守歌か。
なんだか、ちょっと悲しい感じがした。
「そうか。じゃぁ、俺もなにか一曲弾けるように練習するよ。なにかリクエストある?」
俺は特定の好きな曲もないし、弾きたい曲もない。だが、一輪がこんな素晴らしい演奏をしてくれたんだ。俺もなにかお返ししなければ。
一輪はう~んと少し考えて、ふと浮かんだのか俺を見た。
「じゃぁ、春が良い!」
ヴィヴァルディの「四季」より「春」のことかな? また難しい曲を選んでくれたな……あれはオーケストラだから主旋律が色々な楽器が演奏する。それをヴァイオリンだけで弾くのは難しい。
「うぅ~ん、主旋律だけで良い? なら頑張ってみるよ。」
俺はそう一輪に返事をすると一輪は首を縦に何回も振って頷いた。
確かCDに入ってたな。今日から練習するか。
いつも通り一輪が帰り、静かな部屋に一人。
窓を閉めて、ベッドに寝転ぶ。
ぼーっと天井を見つめていると、頭に鋭い痛みが走った。
しかし、その痛みもすぐに治まった。薬が効いてる間にこんな頭痛がしたのは、初めてだ。さっきの薬の副作用に頭痛なんてないはず。何だったんだ?
頭痛が気になったが、あまり気にし過ぎるのも身体に悪い。気にせずCDコンポの電源をつけ、ヴィヴァルディの春を流す。さぁ、主旋律だけの楽譜を作るか。
CDコンポから流れる春の主旋律を探し部屋にある小さなピアノ鍵盤で音の確認。ここらへんは絶対音感で良かったと思う。
少し出来るとヴァイオリンで弾いてみる。完璧にコピーしただけでは面白くない。ちょっとポップ調にしてみたり、とアレンジを加える。
その時、家の呼び鈴が鳴った。今母親はいない。家には俺一人だけ。
俺はヴァイオリンを置いてカーディガンを羽織り、一階に降りて玄関へ向かった。