第八楽章
気分が悪い。
体調が優れない。
薬を飲んでからだいぶ経つ。
いつもなら薬が効いてきて、楽になってくるはずなのに……
薬が効かなくなるほど、病気が進行しているのか? もう、死んじゃうのかな?
吐きそうで、体が痛くて、泣きそうだ……
こんな生活を続けてもう五年近く経ってるのに、もう慣れたはずなのに……慣れているのに、何でこんなに辛いんだ?
ベッドにもたれ掛かり、ボーと部屋を眺める。
和室に不自然なベッド、ステレオとCDコンボ、小さな勉強机。見慣れてこの部屋を何度も眺めてきた。
この部屋は俺の牢屋だ。
この部屋から、俺は出ることが出来ない。この鳥籠から出ることの出来ない鳥の俺。俺はこの部屋の窓からただ空を見上げることしか出来ない。
自由の空を飛べない、羽をもがれ、首輪をされた鳥。
外の空気が吸いたいと思い、ベッドから立ち上がり窓から外を眺める。
ふと、机の上に置いてあるカメラを目に入る。
そう言えば、最近カメラを手にすることが少なくなった。
昔はカメラしか依存するものがなかった。だが、一輪と会ってからカメラ以外の楽しみが増えた。久しぶりにカメラに何かを収めよう。
窓の近くに椅子を置いて外を眺める。
日が傾き、田園風景を照らしている。そんな風景を何回も見てきた。この風景を見ると、少しだけ心が落ち着いた。
その時、ふと田園風景を見ると一輪が数人の女の子が楽しげに歩いているのが見えた。みんな、あんな友達がいるのが普通。
でも、俺にはいない。それが悔しかった。
鶯がいたけど、前回会ったとき鶯にも友達がいた。
そんな楽しげに笑う一輪と友人に向けてピントを合わせる。
そして“カシャ”という音を出してカメラのシャッターを切った。
一輪も……俺を置いていくのかな?
「俐桜君~こんにちわ~」
少しして一輪が来た。
いつも通りの笑顔。いつも通りの笑い声。
でも、その笑顔って俺だけじゃないんだろ?
「おう……」
口を開くと吐き気がするため短く返事をしといた。一輪はいつも通り家の塀に座り俺へと話しかける。
俺はカメラを机に置き、窓に肘をついて一輪を見る。
「俐桜君、体の調子どう?」
一輪は首を傾げながら俺に聞いてきた。
その一つ一つの仕草が可愛らしい。そんな彼女に心配してくれるのは嬉しかった。
「大丈夫だよ。」
短く返事をすると、一輪は小さく微笑み、楽しそうに歌い始めた。今日はフルートを持ってないようだ。久しぶりに一輪の歌を聞いて心が落ち着く。
歌を歌い終わり、少ししてから一輪は俺のことを見つめた。
「俐桜君、今日少しだけ降りてこれない?」
いきなりの一輪の申し出。
嬉しかった。一輪の方から言ってきてくれるとは思ってなかった。でも……
「ごめん……俺、降りれないんだ。」
俺も降りたい。また一輪と近くで話したい。近くに行きたい。なのに、俺はこの部屋から出れない。出れないだけじゃない、俺に自由は無い。
「そうなの…? 少しだけでもダメ?」
一輪は顔の前で手を合わせて頼んできた。一輪がこんなに言ってきたことない。今日、なにかあるのか?
「駄目なんだ。」
分かってよ。俺だって降りたい。分かってくれよ。出れない自分が嫌い、ムカつく。頼むからこれ以上、俺を誘惑しないでくれ……
「でも……」
そう言う一輪に一瞬ムカついた俺がいた。
「俺だって降りたいよ! でも、こんな体じゃ無理なんだよ! 俺の気持ちも知らずに勝手なこと言うなよ!」
こんな事言うつもりじゃなかった。でも、俺の中で何かが切れた。
下を向いて叫ぶ。口が止まらない。もう、自分の感情をコントロール出来ない。
「俺もこんな病気じゃなかったら、みんなと一緒に学校行ってるし、たくさん遊んで勉強して普通に暮らしてるよ!
でも……俺にはそんな普通の事すらまともに出来ないんだ。友達だっていない、いつ治るか分からない……この病気のせいでずっとこうやってんだ!
俺はここに座って5年間、ずっと1人なんだよ! こんな苦しい、つまらない生活ずっとしてんだ。降りたいに決まってるだろ!」
こんな大きな声出したの久しぶりだからか、言い終わった頃には息が上がっていた。
言ってから、俺は何を言ってるのだろうと思い、前を向く。前を向くと目の前が霞んで見えた。
泣いてる?
俺は泣いてるのか?
手で頬を触ると手は涙で濡れた。なんで俺は泣いてるんだ。手の甲で涙を拭い、前を見る。
目の前には悲しい顔をした一輪がいた。
言い過ぎた……そう思ったのだが、謝れなかった。素直に謝ればいいのに、俺の中にある何かが邪魔をして謝れない。
「今日は……帰ってくれ。」
そう言うのが精一杯だった。これ以上何も言えない。こんな突き放すような言葉しか言えない。
「ごめんなさい……私……ただ……」
一輪は何度も何度も謝りながら涙を流していた。
謝らなきゃと思った。でも、俺は何にも言えなかった。そんな一輪を無視して窓を閉めた。
なんで素直になれないんだろう……。
窓を閉めてベッドに倒れ込む。うつ伏せになりながら横を向くと目から自然と涙が伝った。
なんで泣いてるんだ。自分で言って悲しくなったのか? 自分では分かってるのに……
自分はこの箱から出れないのに……
改めて自分の状況を理解して、辛くなったのか?
外で飛んでる鳥が羨ましい。
少しして襖の向こう側から母親の声が聞こえた。
返事はしなかった。
母親は俺が返事をしない時は部屋に入って来ない。
こんな顔で母親に会ったら何があったのかと心配する。一輪の存在が知られる。それは嫌だった。
それから、しばらくボーとしてると次第に涙も止まった。うつ伏せのまま何となく、部屋を眺めている。
すると、またしても母親の声が聞こえた。
「俐桜、鶯君が遊びに来てくれたけど起きてる?」
鶯? なんでまたもこんな時に……。まぁ、追い返すわけにもいかないし、来たんだからしょうがないか……
「うん。大丈夫。」
短く返事をすると鶯が部屋に入ってきた。
俺はうつ伏せのまま顔をベッドに伏せた。
「よぉ、遊びに来たぜ。」
「お前、タイミング悪過ぎ。」
顔をベッドに埋めてそう言う。
制服姿の鶯はベッドから少し離れた畳にドカッと座った。
体格がいい鶯がこの部屋に入ると一気に圧迫感が感じられる。背も高くてがっしりしている鶯を横目に俺はため息をついた。
「そりゃ~悪かったな。それより、城崎とケンカしたんだって?」
鶯の発言にびっくりした。城崎とは一輪の名字だ。たった今の事をなんでこいつが知ってるんだ?
「なんで知ってんだ?」
俺は上半身を起こし、鶯に聞いてる。鶯は胡座をかき、後ろに手を着き話した。
「さっきここに来る時に坂の下で城崎が泣いてたんだよ。『私、俐桜君に酷い事言っちゃった』って。ずっと泣いてたんだよ。何があったんだ?」
違う……。悪いのは俺なんだ。一輪は何も悪くない。俺が単に八つ当たりしただけなのに……なのに、なんで一輪が泣くんだよ。何も悪くないのに……
「俺、一輪に八つ当たりしたんだ。病気が治らない不安とイライラを一輪にぶつけたんだ……悪いって思ってるのに、謝れなかった……」
また声が震えてきた。頬が濡れる。涙が止まらない。ベッドに顔を押し付け必死に涙を抑える。涙が溢れて止まらない。止めたいのに、止まらない。
俺は一輪になんて事を言っちゃったんだ……
あんな事言うつもりなかった。治らない自分の弱さに苛立ったんだ。治ると信じて暮らしてきたのに、治らないと心のどこかで思っていた。
涙が止まらない。もう、取り戻しようがない……
「そうか。次謝ればいいじゃん。次は素直にごめんって謝ればいいんだよ。」
鶯は嗚咽する俺の頭を撫でた。
ベッドに顔を埋めて泣く。そんな俺を鶯は優しく宥めてくれた。
「次……来てくれるか……わからない。」
あんな事言っちゃって……もう俺の所に来てくれる事はない……
そりゃ、そうだろ。俺は一輪を傷つけた。
一輪はこんな惨めな俺を救い出してくれた。希望のない俺に優しくしてくれた一輪を俺は傷つけてしまった。
「大丈夫だって。城崎、ここに毎日来てたんだろ? 人間ってそんな簡単に習慣を変えられる事は出来ないって。」
鶯はそう言って泣いている俺を励ます。
そうだろうか……一輪にとって、俺と会うことなんてどうでも良いこと何じゃないか? 会って嬉しかったのは俺だけ何じゃないか?
「それに、城崎も悪いって思ってるなら、謝りに来るだろ。その時に城崎が謝るより早くに誤れば良いんだよ。」
鶯はそう言ってニカッと笑った。
本当に一輪は来てくれるだろうか……もう、俺なんかに会いたくないんじゃないか? 自分のこのひねくれた性格が嫌になる。
「お前、何に怯えてるんだ?」
鶯は俺を見て聞いてきた。
はっ? 俺が怯えてる?
「別に、何にも怯えてないけど……」
「いや、怯えてる。」
鶯は俺の言葉を切って、そう言いきった。いつもの笑った顔ではなく、真剣な顔で俺に言う。
「お前は、置いて行かれるのが怖いんだろ? 病気が治る治らないのが怖いんじゃない。治った後、一人になるのが怖いんだ。治って学校に行って、友達が出来ないとか、勉強に着いてけないとか。そんな不安でいっぱいなんだ。みんなが当たり前に出来ることが出来なくて、置いて行かれて一人になるのが怖いんだ。だから、普通に生活している城崎が羨ましくて、今回喧嘩したんだろ?」
鶯はそう言って首を傾げた。
鶯の言ってることは当たってる。
俺は怖かったんだ。小学校の頃はみんなとたくさん遊んだり、授業を受けたり、先生に悪戯したり、野球をしたり……友達がたくさんいた。友達とたくさん遊んだ。
なのに病気になって、だんだん一人でいる時間が増えた。そして、一人でいることに慣れてしまった。慣れたら慣れたで良いんだ。これからも一人で生きていくだけだから。そして、だんだんみんなと遊んだことを忘れていった。
しかし、一輪に会ってからは誰かが近くにいるという暖かさを知ってしまった。一度その味を知ってしまうと、もう元には戻れない。
「そうかもしれない……」
俺は仰向けになって天井を見上げた。
明日……一輪は来てくれるだろうか……
「鶯君、晩御飯うちで食べていって頂戴。いつも二人で寂しいのよ。ね、俐桜。」
一階のリビングでゲームをしている俺と鶯に母親が声をかける。
俺たちはキャラクターを操作しながら画面から目を離さずに母親の話を聞いた。
別に寂しい訳じゃないけど……まぁ、そう言うことにしとこう。
コントローラーのボタンの音が部屋に響く。カチャカチャと指でボタンを連打。
「いや、おばちゃんにそんな迷惑はかけれないよ。」
鶯は一瞬母親を見てそう言った。俺はそんな鶯にお構いなしにゲームを進める。
よく考えてみれば、ゲームするのなんて久しぶりだな。操作方法忘れてる。全然操作できない。
「迷惑なんかじゃないわよ。こっちこそ迷惑じゃなかったら食べていって頂戴。」
鶯君は完全に母親の方をみて考えていた。今のうちに一気に敵倒しとこ~そろそろ操作方法も思い出してきたし、今なら行ける。
「食ってけよ。今日、兄弟いないんだろ? よっしゃ、ボスいただき。」
「確かに、そうだけど……じゃぁ、ご馳走になろうかな~って、お前いつの間にそんなに倒したんだよ!」
俺はゲームをしながら鶯君にそう言った。鶯君は少し考えてからそう言った。そして、また白熱とゲームに戻っていった。
鶯の家は両親が共働きで弟と妹の面倒を見ている。普段は夕飯もこいつが作っているらしい。だが、今日は兄弟二人がキャンプに行っていていないらしい。こいつもこいつで苦労しているみたいだ。だから、俺なんかと一緒にいるのかもしれない。
「うめぇ! おばちゃんの飯久しぶりだなぁ~おばちゃんの料理旨いよなぁ~」
鶯は母さんの料理を食いながらにこやかに笑った。俺も静かに箸を進める。旨いかどうかは知らないけど、病人食に慣れてしまっていた俺にとって母さんの料理は旨い。
鶯の食いっぷりを見て母さんは喜んでいるようだ。それにしても、良く食うな……
飯も食い終わり、鶯も帰ってから部屋に戻る。
何も考えず、CDコンポのスイッチを入れた。
スピーカーから聞こえる歌をベッドに寝ころびながら聞く。オーケストラを聞き、カメラの映像を見直す。
写っているのは、見慣れた自然の風景ばかり。軽く流しながら見て指でボタンを連打。そんな中、指が止まった。
自然風景の中に一輪の笑顔の写真があった。
綺麗で楽しげな一輪の笑顔。
そんな写真を見ると、後悔と自分の情けなさで涙が出てきた。
CDコンポから流れるカノン。その音楽をフルートで奏でる一輪の姿が浮かぶ。
謝りたい…
そう思い、良い案が思い浮かんだ。
そうだ!
すぐに一階に降りて電話へと走る。電話帳の番号を引き出し受話器を耳に押し当てる。出てくれるかな?
『はいはい~こちら孔野です。俐桜君、どうしたの?』
眠そうな先生の声が聞こえてきた。
「あっ、先生……一輪のメールアドレス知ってたよね? ってことは電話番号も知ってるよね?」
『ん? 知ってるよ。』
「その……教えてくれないかな……」
小さな声でそう伝えると、先生は何か感じ取ったのかすぐに教えてくれた。
『今度報告よろしくね。』
そう言って電話は切れた。
先生……話分かってるのかな? まぁ、いいや。電話の子機を掴んで部屋に戻る。
部屋の襖を閉め、つっかえ棒をする。途中で母さんが入ってきたら台無しだ。
よし……いざ!