第七楽章
バーベキューの片付けをしていると、俐桜が川の奥へ進んで行くのが視界に入った。
(あんな奥まで行ったら危ない……)
だが、直ぐに遊馬が俐桜に話かけた。
まぁ、遊馬がいるしこのコンロを片付けたら俐桜のところへ行こう。
まだ、時間はあるし川の深い場所はまだ俐桜一人では行けない。
コンロの足を取り外し、車に詰め込む途中。コンロの先に俐桜の姿が見えた。
それは俐桜が川の中へと落ちていく姿だった。
「俐桜!?」
コンロを放り投げ、川へと入り無我夢中に進む。
しかし、水の中は非常に歩きにくくなかなか前に進まない。とりあえず俐桜を助けなければ。
やっとのことで、先程俐桜が消えた場所まで着いた。
俐桜、どこ行ったんだ……
遊馬も網で何度も水の中を掻き回すが一向に俐桜は姿を現さない。
「俐桜!? 俐桜、どこだぁ!? 返事をしろぉ!?」
俐桜が……俐桜が消えた。俺の息子が消えてしまった。
名前を叫ぶ度、視界が揺らぐ。俐桜、出てきてくれ。いなくならないでくれ……俐桜。
水の中へどんどん入っていくが、一向に俐桜は見つからない。
「兄貴! ごめん、俺がちゃんと見てやらんかったから……ほんまにごめん! とりあえず、川下を捜そう!」
遊馬は少し目に涙を溜ながらも必死に探していた。
そうか、流れに沿って探せば良いんだ。
「桜! 川に沿って俐桜を探してくれ!」
岸で座り込んで泣いていた桜に叫ぶと桜は俺を見て頷いた。すぐに立ち上がり、川を凝視しながら川に沿って歩く。
泣いている隙はない。俐桜の命がかかっているんだ。
「俐桜! 聞こえたら返事しろ! 俐桜!」
もう、服が濡れようが構わない。川に飛び込み綺麗に着水。
潜水で川を探すが俐桜の姿は見えない。息が続く限り潜り続け俐桜を探す。息が苦しくなり息継ぎをして、また潜る。
川の流れに沿って流されていくと何かが見えた。
人の足。青白く、血色の悪い死体のような足が岩の影から見えた。
俐桜だ。グレーのタンクトップが岩に引っかかり水面に浮かばずに沈んでいた。真っ青な顔に半分開いた口、力なく浮力に逆らわない四肢。
すぐさま泳いで俐桜を抱き、水面に上がる。
「俐桜! ……目…開けろ……俐桜!」
息が切れる。
単に潜って酸素が足りないのではない。恐怖から心臓が張り裂けそうで息が続かない。
口に手を当てると息をしていなかった。
まずい、非常にまずい。速く水を吐き出させないと脳に酸素がいかなくなり、取り返しのつかないことになってしまう。
「遊馬! 桜! タオルだ……タオル用意……してくれ!」
真っ青な顔をした俐桜を抱きながら岸へと向かう。
岸に着くと遊馬と桜が車に乗っけていたマットとバスタオルを岸に敷いた。
遊馬に俐桜を渡し俺は息を整える。髪から水滴が滴り落ち小石の色を変える。手足に力が入らない。俐桜の物凄く冷たい体の感覚がまだ腕に残っていた。
「俐桜! 息をしろ、吐き出せ! 俐桜!」
遊馬がマットの上に俐桜を寝かせ胸部を強く押す。小さな俐桜の体が押される度に大きく揺れる。
俺は息が整ったので、俐桜に人工呼吸を施す。桜は涙を流しながら俐桜の冷たい手をさする。
このまま息をしなかったら、俐桜が死んでしまう。死? そんなことを考えるな。俐桜はまだ生きている、まだ助かる余地はある。
頼む、息をしてくれ……水を吐き出せ! 頼む!
何度目かに俐桜が小さく咳き込み始めた。
これをきっかけに遊馬の胸部圧迫を強めると、激しく咳き込み水を吐き出した。
全ての水を吐き出し自然に呼吸出来るようになった俐桜を見て俺たち三人は安堵の息を漏らした。良かった……
桜はもう一枚のタオルで俐桜を丁寧に包み体温が下がらないようした。少しすると顔色も戻り、静かに呼吸を繰り返していた。良かった、これならもう大丈夫だろう。
ずぶ濡れで重たいTシャツを脱ぎ水を絞る。安堵で一気に疲れた。とりあえず俐桜が無事で良かった。
しかし、目を覚まさない限り完全に安心とは言い切れない。目を覚ましてくれればという願いを込めて俐桜の頭を優しく撫でた。濡れた髪が頬にくっつき、ひたひたと静かに雫をタオルへと落とす。
「ほんま良かったわ。兄貴、ほんまにごめんな。俺がちゅんと見とったら……」
遊馬は深く頭を下げて謝った。別に遊馬が悪いわけではない。俺も桜も遊馬を責めるつもりはない。
「いいよ。とりあえず、俐桜が助かってよかった。」
桜は安堵で涙を流し、俐桜を抱き締めていた。そんなに抱き締めたら俐桜が苦しいだろ……
「うっ……」
桜の暖かさのおかげか俐桜声が漏れた。俺と遊馬は桜の腕の中の俐桜を覗き込むと瞼を薄く開いた。虚ろな目で俺を見つめた。俐桜は何かを伝えようと口をパクパクと動かしていた。
「なんだ? 何が言いたいんだ?」
遊馬が俐桜に耳を傾け聞き取ろうとしていた。小さい声で何かに耐えるように訴える。やっぱりどこか怪我でもしたのか?
「くっ……苦しい……母さん……」
桜によって俐桜の首が締められてはいた為、息がしにくかったらしい。そりゃそうだ。
「あっ! ごめんなさい! 俐桜大丈夫?」
大丈夫な訳ないだろ……ただでさえ酸素が足りてないに余計にダメにしてどうするんだ……
「俐桜大丈夫か? どこか怪我してへんか? 痛いとことか、変なとこないか?」
遊馬は俐桜の顔色を窺いながら聞いていた。俐桜は桜に寄りかかってた体を自らで立ち確認している。見たところ、怪我はないようだ。
「大丈夫だよ。お父さん、お母さん、叔父さん……ごめんなさい……」
俐桜は下を向いて謝った。濡れた髪から水滴が落ちた。そんな素直な俐桜を俺は優しく頭を撫でた。
その後、俐桜は変わらずに元気だった。どうやら、元気になったようだ。
川には入らず遊馬のカメラで遊ぶ。
どうやら遊馬が持ってきたカメラが気に入ったらしく、先程からいたるところを撮りまくった。
そう言えば、親父がカメラのやり方をまだ幼い俐桜に教えていたな。
川の辺に立ち、写真を撮るが俐桜の手には大きいカメラ。シャッターを押す前に手がブレて上手く撮れない。満足いかない俐桜は顔を歪めながら、ため息をつく。そして、俺の方へ駆け寄ってきて。
「お父さん、お父さんが撮ってみてよ。」
俐桜は小さな手に包まれたカメラを手渡してきた。俐桜に渡されたカメラを構え、川を写す。
「父さんも、あまり上手じゃないぞ……」
そして、ゆっくりとシャッターを押した。
シャッター音が川に響き渡り、遠くで野鳥が飛び去った。
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「この写真は、そのとき父さんが撮った写真なんだ。」
俐桜君はそう言って写真立てを握りしめた。その後、写真立てを机の上に置き、伏せた。
「その写真を何でお母さんにバレたくないの?」
俺は単純に聞いてみた。別に思い出の写真ならバレても良いのでは?
そう言うと、俐桜君は少し恥ずかしそうな顔をして俺を見た。
「この写真、父さんに渡さないで、持っていること内緒なんだ。父さんの写真があまりに綺麗だったから……黙って貰ったんだ。」
なるほど、写真が好きだからこそやってしまった事だな。
父親の写真が綺麗で、黙ってパクってしまったと。
それは言えないかもね。
「でも、その日から人生が狂ったって?」
「その日を堺に俺の人生が悪い方向へと向かっていったんだ。」
俐桜君が言うに、その後から父親の仕事が忙しくなり、滅多に帰ってこなくなった。
俐桜君は体調を崩しがちになり、病気が発覚した。
約二年間の入院生活の間、父親は一回もお見舞いに来なかった。それがきっかけで俐桜君は今まで好きだった父親が嫌いになった。
初めの方はクラスの子が良くお見舞いに来てくれていたがだんだん誰も来なくなる。
そして、叔父さんの事故死。それ以降俐桜君は半分鬱の様な状態になってしまった。
ずっとそばにいたのは母親のみ。そんな周りがどんどん離れていくのは辛かっただろう。
「そうか、これが最後の思い出なんだね。」
「まぁ、そう言うこと。もし俺の病気が完治しても、もうこの時には戻れない。だから、辛くなったらこの写真を見てあの時の事を思い出すんだ。女々しいかもしれないけど……俺これで何度も救われたんだ。」
俐桜君はそう言ってベッドに寝そべり天井を見上げた。
女々しい事なんてない、希望があるのは病人とってはとても良いことだ。
もう戻れないものを思い続けるのは、人間には誰だってある。
俺は胸にかけられた薄汚れたプレートのペンダントを握りしめた。俐桜君はそんな俺を見て疑問に思ったのか寝転がったまま首を傾げた。
「前から思ってたんだけど、先生がいつも首からかけてるそのペンダント……どうしたの? だいぶ汚れてるけど。大切な物?」
俺の手を見ながら俐桜君は聞いてきた。
「あぁ、これかい? これは俺の大切だった人から貰ったものなんだ。」
先生はそう言ってペンダントを服の中にしまって軽く胸を叩いた。
“大切だった人”。
この言葉が突っかかった。なんで過去形なんだ? 先生は別れた彼女を引きするような性格じゃない。それに、今まで正確に付き合った事は無いと言っていた。
「だった、って……どういうこと?」
正直に聞いてみた。今日は俺もいろいろと話した。世の中等価交換、先生も何か話してくれないと不公平だ。
先生は少し考えて、俺の目を見た。その目はとても悲しげだった。
「まぁ、俐桜君も話してくれたし……俐桜君には話そうかな。俺、子どもの頃、肺ガンで入院してたんだ。」
肺ガン? 先生が、小さい頃に病気になってたなんて……ガンなんて、そんな……
「俺は手術を拒んでたんだ。正直俺は親もいなかったし、何処に行けばいいか分からなかったから。でも、そんな俺の考えを変えてくれた人がいたんだ。」
先生が手術を拒んでいた。今医者になって手術を進める側の先生が拒んでるなんて。それに、俺に手術を勧めたのも先生だ。俺の一回目の手術は骨髄が合わずに失敗。そして、俺が珍しい血液型だったという事もあって、手術出来る回数が限られる。それの上限を決めたのも先生だ。
「彼女はとても笑顔が綺麗で、明るくて天真爛漫で、とても病気をしている様な子じゃなかった。でも、彼女は末期の胃ガンで、俺以上に病状は悪かったんだ。その彼女は、俺に手術を受けるように言って、そのまま息を引き取ったんだ。」
息を……引き取った。死んじゃったのかよ……そんな子が……
笑顔が綺麗な女の子。そう言われたとき、一輪の笑顔が一瞬頭の中に浮かんだ。
って……何で一輪が出てくるんだよ!
「この通り手術は無事成功、生きてるよ。このペンダントはその彼女が死ぬ直前に貰った物なんだ。」
つまり、彼女の形見。
先生はそう言って、ゆっくりベッドの後ろ手を着いてもう一度ペンダントを服から出した。
汚れたプレートのペンダントを首から取り外し、ゆっくり俺に投げた。
俺はそのペンダントを受け取り、見てみる。プレートには何か文字が掘ってあった。掘ってある文字は読めない。
「俺は彼女みたいな人を出さないために、医者になったんだ。まだ新米だけど、この仕事に誇りを持っている。でも、やっぱりどんなに精を尽くしても命を助けることが出来ないときがあるんだ。その時は、ものすごく辛い。俺がいる意味が分からなくなる。そんな時、俺もこのペンダントを見て励まされるんだ。俐桜君と一緒だね。」
先生はベッドに寝転がり、顔だけを俺に向けて笑った。
先生と俺は一緒の状況にある。
先生と初めて会ったとき、俺に言った言葉が頭に甦った。
『君が、俐桜君だね? よく……頑張ったね。』
小学5年生の時、担当医の先生が変わった。
前の先生の時は、診察も治療も辛かったから逃げ出したり抵抗したりしてきた。
しかし、この先生に代わってから徐々に受けるようになっていった。
今まではずっと“頑張れ”としか言われなかった。こんなに頑張っているのに、これ以上何を頑張れと言うのだ……俺は今までずっと頑張ってきたのに……なにが、頑張れだ……
そう思っていた俺にとって、先生の言葉はとても嬉しかった。
分かってくれた。俺の苦しみを分かってくれると思った。
だって、この人俺と同じ目をしていた。俺と同じ、希望を持ちながらも絶望を感じている目だ。
「あっ、この話、内緒だよ。こんな話他の人にしたことないんだからな。おっと、そろそろ病院に戻らなきゃ。じゃぁ、また来るけど絶対に外に出ちゃ駄目だよ!」
そう言って俺の手のペンダントを取って、首にかけて立ち上がった。立ち上がって荷物を持ち笑って部屋から出て行った。
そんなこと言われなくたって、今日は出て行かないよ……
もうすぐ……
「俐桜君! 遊びましょう!」
ほら、来た。
今回は先生が誰かが分かりましたね!
「空虚少年」を読んでいただいた方はおわかりになったでしょう!
先生、結構好きです!
次回で、一気に動きがあります。
お楽しみに~
では、Have a nice day!