第五楽章
頭がぐらぐらして痛い。身体中が熱く、重い。息がしにくく、息が浅くなる。
視界がぼやけてまるで水の中にいるみたいだ。自然に涙が出てくる。俺って格好悪い……
必死に息をする俺に母親と先生が心配そうに見ている。
俺ってこんなに身体弱ってたんだ……ちょっと外に出ただけでこんなに弱ってしまうなんて……この体、もう駄目なのかな?
二の腕に小さな痛みが走る。この痛みは慣れた、注射を射した時の痛みだ。
「解熱剤を射れました。時期熱もひいてくるはずです。そしたら静かに眠れるはずです。」
先生が俺の頭を撫でながら母親に言った。母親は俺の手を握り、さすってくれた。握りしめた手を握り返す、その手がゆっくりと落ちていく。
浅い息を何度も繰り返すうちに意識が朦朧とし始めた。先生と母親の会話が聞こえなくなり、世界が真っ暗になった。光の射さない暗闇に1人。心細く、寂しい。
****
「俐桜君、大丈夫? 顔色悪いよ……」
帰っている途中一輪に言われた。もうすぐ家に着くという時に体の調子が悪くなってきた。
頭痛と耳鳴りが酷くなり、視界が歪む。一輪がまっすぐ見えない……
一輪には“大丈夫”と笑顔で返すと一輪は疑うような顔をしながら前を向いて携帯を何やら操作した。
こんな所で倒れたら一輪に迷惑がかかる。せめて家までは……
畑の通りを抜け、あとこの坂を登れば家に着く。坂道に入る前に差し掛かった時、足から力が抜けた。
「俐桜君!大丈夫? 俐桜君!?」
膝を着いて壁にもたれ掛かる俺を一輪が支えてくれた。一輪は助けを求めようと周りをキョロキョロ見ている。
息が出来ない……息をすることに必死だった。
そんな俺を一輪は助けようと何度も俺に呼びかけるが、息苦しく、ろくに返事も出来なくなった。
さすがにやばいと思ったのか一輪は携帯を取り出した。何処かに電話でもするのか? 電話なんかされたら……
俺は一輪の手を押さえて止めさせる。
「一輪……病院に…電話は……ダメだ…大丈夫……だから…時期…治まる…から…」
胸を押さえつけ、息切れ状態で一輪に伝えると一輪は涙目になりながら俺の背中をさすってくれた。
でも、本格的にやばくなってきたかも……息が苦しい……心臓が破裂しそうだ。視界が霞む……
そんな時、坂道の入り口に一台の車が止まった。
「俐桜君!? やっぱりここにいたんだね……寄り道しちゃ駄目って言ったのに……」
声のする方に目をやると白衣姿の先生が車から下りてきた。先生…なんでこんなところに……
「一輪ちゃんだよね? 知らせてくれてありがとう。俐桜君、一輪ちゃんに感謝だね。」
「どう……いうこと?」
先生は四つん這いになっている俺を壁にもたれ掛かるように地面に座らせ脈を確認する。
先生の手がとても冷たくて気持ちよかった。
「一輪ちゃんが僕に俐桜君の調子が悪いってメールをくれたんだ。だいぶ脈が速いな……家に帰ろう。体が弱っているんだ。」
先生は俺を抱きかかえて車に乗せて寝かせた。座席に寝ただけで自然に瞼が閉じていく。視界が歪んでいく。さっき一輪が携帯をいじってたのは先生にメールをしてたんだ……
「先生……俐桜君、大丈夫ですか? ごめんなさい、私……俐桜君ごめんね……本当に、ごめんなさい……」
一輪は座席に横たわる俺を見て泣きながら何度も謝っていた。
なんで一輪が謝るんだよ……一輪はなにもしてない。悪いのは寄り道をした俺だ。
本当に、俺は格好悪いよ……
「一輪ちゃん、大丈夫だよ。俐桜君は僕が治すから。今日はとりあえずお帰り。」
先生は一輪の頭を撫でながら優しく笑いかけた。一輪は静かに頷きゆっくり帰って行った。
俺、まだお礼言ってないのに……
行かないで……
****
薄く瞼を開くと薄暗い部屋の天井が見えた。
首だけを横に向け窓の外を見ると外は真っ暗だった。
闇に包まれた部屋。夏だというのに、とても冷たく寒い空気が部屋に充満していた。じっと見つめていると、次第に目が闇に慣れていく。
重い上半身を起こし、頭を掻く。酷く汗をかいたらしく寝間着がべちょべちょだった。
薬のお陰か頭痛も耳鳴りも治まっていた。いつもの吐き気もしない。
なのに、胸の内のどこかに大きな穴があるみたいだ。
今のうちに何か食べておこうと重たい体を無理矢理動かして部屋から出る。
一階のリビングに着くと電気がついていた。
「あら、俐桜。起きたの? 何か食べれる?」
リビングには父親と母親がいた。
母親は予想がついていたが父親がいるとは思ってなかった……
いつも自分の部屋に籠もっている父親がリビングで母親と話している。
俺は父親が嫌いだ。母親には悪いが無視して冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し一気に飲み干す。
「俐桜。」
ミネラルウォーターが空になったぐらいに父親に名前を呼ばれた。俺の名前を呼ぶのは何年ぶりだろう……俺の名前は父親が付けたらしいが、その名前を呼ばれる回数は非常に少ない。
「なに?」
ペットボトルの蓋を閉めて口を拭いながら返事をする。しかし、目は合わせない。
「熱があるならさっさと寝ろ。」
素っ気ない言葉。
俺は父親を睨みつけてからペットボトルを握り潰してゴミ箱に捨て、リビングから出る。
母親が俺の名前を呼ぶのが分かったが、無視して階段を駆け上がる。
何を言い出すかと思ったら、そんなことか……あんな父親と一緒に居たくない。子供を仕事の道具としか見てない、あんな父親なんかに……
部屋に戻り、勢いよく扉を閉め扉にもたれ掛かる。階段を駆け上がった為か、父親にムカつい為か呼吸が乱れた。ベッドに座りCDコンポのスイッチを入れ、苛立つ気持ちを静めるためにクラシックに聴き入る。
あの親父は俺の存在をどうとも感じてないのだろう。俺が死のうと生きようと、関係ないんだろう。最低だ……
何曲か聴くとカノンが流れ出した。カノンは一輪と始めて一緒に演奏した曲。
カノンは聞き飽きていたし、なんだかありきたりな感じてでいつも飛ばしていた。
しかし、一輪と演奏してからはカノンを聴くと落ち着く。一輪のフルートと俺のヴァイオリンのハーモニーを思い出すだけで自然に笑みが出てくる。
体を起こし机に開いているG線上のアリアの楽譜を見つめる。何度も聴いたこの曲を一輪とどう演奏するか、楽しみだった。
机の横に置いてあるヴァイオリンケースの蓋を開ける。この二・三日手入れをしていなかったから少し心配だったが大丈夫だった。
少し指で弦を弾いてみる。弦が振動し俺の耳に心地良い音が響き渡る。乾いた空気が潤った感じがした。反響音が消え、余韻に浸る。
今日は一輪に悪いことをしてしまった……俺が悪いのに、一輪は自分を責めてた。まだちゃんとお礼も言ってないのに……もう俺の事嫌いになったんじゃないか?
明日……一輪は来てくれるかな?
そんな不安に襲われ、自然と視界が歪んだ。ベッドに倒れ込み、静かに流れる雫がベッドに浸みる。
薄れゆく意識の中、車から見た一輪の姿は寂しげに帰る後ろ姿。
もう、俺の所に来てくれないんじゃないのか? こんな弱い俺を嫌いになったんじゃないか?
そう思われるのが嫌で、必死に自分の中で否定した。否定して否定し続けて、気が付いた。
俺は一輪に何かしてやれてるのか?
俺は一輪に救われた。一輪と会ったから、毎日が楽しくなった。
でも、俺は一輪に何もしてない。ただ毎日話して、演奏しただけ……
一輪にとって、俺は何なんだろう……?
****
歩調に合わせ靴音が廊下に響く。欠伸を噛み殺し、乱れた髪をガリガリ掻く。
カルテを見ながら次の診察まで少しの休みを過ごす為に自分の部屋へ足を運ぶ。
廊下ですれ違う患者さんに笑いかけながら、窓の外を見ると太陽が真上から少しずつ傾き始めていた。
最近だんだん日が短くなってきた。もう夏が終わろうとしてる。下がってきた折り曲げた白衣の袖を上げ直し廊下を歩く。
そんな時、後ろポケットに入れている携帯が震えた。
珍しく携帯が鳴った為びっくりした。普段携帯など滅多に使わない、と言うより連絡が来ても忙しくて取ることが出来ないのが現実。今日はタイミングが良く、取れた。
誰からだ? 大学の奴の合コンとかの誘いか? しつこく誘ってくる奴いるからな……
携帯の液晶画面を見ると“一輪ちゃん”と書いてあった。
一輪ちゃん? まぁ、また珍しい人からのメールだな。
メールを開くと、文章に目が離せず、背中に冷や汗をかいた。
『俐桜の様子がおかしいんです。顔色が悪くて、何だか苦しそうです。今俐桜君の家に向かってますので、来てください。』
一輪ちゃんからのメールを見てからすぐにカルテをナースステーションへ投げ捨て、ちょっと出てくるとだけ伝え、背中の罵声を無視して病院を出た。白衣のままなのに気が付いたが無視して車を走らせる。
あんなに寄り道しちゃ駄目って言ったのに……薬の力で一時的にマシになっているだけで、まだ体は完全に治ってない。早くしないと、手遅れになる。
必死に車を走らせ、道に歩いている人を見る。俐桜君どんな服着てたっけ? 確か、青色のジャンバーだったけ? 青色、青色……
探していると、田んぼの中を歩く二人の子供が目に入った。
きっとあれだ。青じゃなかった、ベージュだった……少し自分の記憶力に落ち込んだ。
ゆっくりなペースで歩いている二人の進行方向から俐桜君の家の坂の前に着く。車を先回りさせる為、回り道だが引き返す。頼むから間に合ってくれ……
坂の前に着き、曲がり角を曲がると俐桜君が壁に手をかけながら苦しんでいるのを見つけた。
その横には周りをキョロキョロしながら俐桜君を支える一輪ちゃんがいた。
「俐桜君!? やっぱりここにいたんだね……寄り道しちゃ駄目って言ったのに……」
そう言いながら車を降りる。一輪ちゃんは俺を見て涙目になりながら俐桜君に知らせる。
俐桜君は俺の姿を見てびっくりしたように薄く開かれていた目を見開いた。
「一輪ちゃんだよね? 知らせてくれてありがとう。俐桜君、一輪ちゃんに感謝だね。」
うずくまるような姿勢の俐桜君を壁にもたれ掛からせ、脈をとる。
まだ、大丈夫みたいだ。もうちょっと遅かったら手遅れになるんだからね……
「どう……いうこと?」
俐桜君は苦しそうに息を荒げながら俺に聞いてくる。目は虚ろになり、完全に体を壁に預けて座っている。このままだと、ヤバいな……
「一輪ちゃんが僕に俐桜君の調子が悪いってメールをくれたんだ。だいぶ脈が速いな……家に帰ろう。体が弱ってるんだ。」
壁にもたれ掛かってぐったりしている俐桜君を車に乗せようと抱きかかえる。ちょっと力を込めたが俐桜君は思いの外軽く簡単に持ち上がった。こんなに痩せているのか……もうちょっと太らせなきゃ。
目は開いているが、なんにも映さない目をして苦しむ俐桜君を車の後部座席に寝かせる。寝かせると自然に目を薄く閉じていく。
「先生……俐桜君、大丈夫ですか? ごめんなさい、私……俐桜君、ごめんね……本当に、ごめんなさい……」
一輪ちゃんの目には薄く涙を浮かべながら何度も謝っていた。何度も、何度も謝るうちに頬に涙が伝った。
俐桜君の体調が悪くなったのは自分のせいだと思っているんだ……
本当に良い子だな。だからこそ、今まで何にでも無関心だった俐桜君の心を動かすことが出来たんだろう。
「一輪ちゃん、大丈夫だよ。俐桜君は僕が治すから。今日はとりあえずお帰り。」
そう言って俺は一輪ちゃんの頭を撫でる。一輪ちゃんは小さく頷き、指で涙を拭いながら帰って行った。一輪ちゃんは賢い子だよ。今の状況をちゃんと理解している。つくづく彼女には感謝だ。
帰って行く一輪ちゃんを見送り、車の後部座席の俐桜君に目をやる蹲りながら涙を流していた。呼吸困難寸前の状態で嗚咽しながら涙を止めどなく流している。今までずっと会いたがっていた一輪ちゃんとやっと会えたというのに、自分の体のせいで一輪ちゃんを泣かしてしまった……自分を責めているのか……
「俐桜君……大丈夫? 悔しかったのか?」
車の外から俐桜君の様子を窺うとゆっくり頷いた。途中から呼吸が不規則になりだした。先程まで薄く開かれていた目の焦点が合わなくなっている。
様子がおかしい……慌てて俐桜君の脈をとると先ほどより速くなっていた。このままじゃ駄目だ……
「俐桜君、落ち着いて……とりあえず落ち着いて。」
落ち着かせなきゃ、このままじゃ俐桜君の体が保たない。
直ぐさま運転席に座り、車を発進させる。俐桜君の家の横に乱暴に車を止め、俐桜君を抱きかかえて車から降ろす。抱きかかえた時、すでに俐桜君はほぼ意識がなくなっている状況だった。
インターホンを押すがなかなか人は出て来なかった。
少しして静かに扉が開いた。