第一楽章
病気で部屋から出ることを許されない少年、俐桜。俐桜は窓から見える坂道や、代わりばえしない毎日の暮らしに飽き飽きしていた。唯一の楽しみは少しの変化をカメラに収める、それだけだった。
しかし、ある日坂道の桜の木の下に誰かが立っていた…
自分の部屋の一番左の窓から見えるこの坂道、この坂道に今日は誰かがいた。
春には桜並木、夏は蝉の鳴き声が木霊する緑の坂、秋は橙色と朱色に色付く紅の坂、冬には積もった雪に残った足跡を記録する坂。
視覚的には見ていて、とてもおもしろい坂道だ。毎日同じ人が同じ時間に通り、違う人が初めて通るのも見える。間違え探しのようで、正解のないクイズのような坂道は、田園風景の中に同化しつつ空と山の境目を残しながら静かに時間を流れていく。
穏やかな雰囲気の中、慌ただしく歩いていく人を見ていると初めは楽しかった。しかし自分はこの坂道をもう5年も見続けているからか、そんなことはもう思わなくなってしまった。思わしてくれるような出来事がこの5年のうちに一回もなかった。きっとこれからも起きることはないのだろう。
窓から見えるものはすべて、どんな物もどんな人もどんな風景も、もうすべて飽きてしまった。単に飽きたのではない、こうすることしかできない自分に嫌気がさしたのかもしれない。
その日、その日に何かが起きる訳でもないし、だからといって昨日と全く同じでもない。その中途半端差が余計に俺の興味を薄れさせる。
部屋に小さく流れているクラシックも、もう覚えるほど聞いている。これもすべて毎回同じ音、同じテンポの音楽だから飽きてしまったが、後ろで小さく流れているこの聞き慣れたクラシックがとても心地よいっと言うのもあるが、何故か毎日起動スイッチを押してしまう。
窓際にあるベッドに座ってここから見える唯一不規則な動きをする雲の流れを見ている。膝の上に乗せた手の中にはちょっと古いカメラが収められていた。これは、変化する物を変化しない紙に焼き付ける機械。それを持って毎日この窓からあの坂を見下ろし、おもしろい物や変わった事があれば記録する、これが俺の日課であり趣味であり、俺ができる行動の中で一番楽しいことだ。
ベッドにもたれ掛かりながらカメラを手にし、いつもと変わらない窓の外の風景を眺める。山の向こうに浮いている雲、おもしろい形をしているがどうもシャッターを切る気になれない。
今日は日差しが暖かいから窓を開けたのだが、風はまだ冬が残っていたようで今は少し寒い。
しかし、窓を閉める為にベッドから立ち上がり、窓を閉める元気も気力もなかった。
今日の空を眺めるのも飽きたことだし、そろそろ布団に入ろうかと思ったとき、部屋の襖が開いた。入ってきたのが誰かと知っていながら襖の方に顔だけ向けるとそこには予想通り母親が立っていた。
「俐桜、そんな薄着で起きてたらまた風引いちゃうわよ。ほら、速く布団に入って。」
母親は、手に持ったお盆を机に置き、ベッドに座っている俺の元まで歩いてきた。
母親はこうやって俺の事を気に掛けてくれる。でもその気を掛けてくれるのが正直うっとうしい。この年になるとだれにでもある思春期っというものだろう。
でも、俺はこの人に迷惑をかけ続けているから、何も言えないし、じっと彼女の言うことを聞くことしかできない。またそんな自分にも嫌気がした。布団に入りながら母親に渡された固体の粒を水で流し込み、服の袖で口を拭う。母親は俺の渡したコップを受け取り少し微笑みながら俺の横に座り、布団の上にだらんと乗せている俺の手を握った。
母親はよくこうやって俺の手をよく握る。俺はこの手には何度も助けられ、救われたことがある。
「じゃぁ、俐桜もうすぐ先生が来るからちゃんと寝てるのよ。」
母親はそう言って手を離し、お盆を持って部屋から出て行った。もうすぐ四時になる、この時間帯は学校から帰ってくる生徒が田んぼの向こう側で賑わう。その声を羨ましいと思いながらカメラに手を伸ばす。少しぐらい良いよね。
体を起こし、カメラを手に窓まで歩きカメラを構える。レンズには田んぼの中に楽しそうに話す生徒が写しだされ、シャッターをきる。
俺だって五年前にはあの生徒たちみたいに元気に走っていたのに……クラシックが心地よく流れていてちょうどいい子守唄になり眠たくなってきた。だんだん瞼が重くなり思考が停止する。
苦しい、しんどい、力が出ないし体中が痛い……吐いても吐いても楽にならない、頭がクラクラする。体が燃えるように熱い、でも寒気がする……助けて、もう嫌だ辛いよ。
ベッドの上で泣きながら耐えるのは幼い俺にとってはとてもしんどく辛い事だった。熱や吐き気と闘い、頭痛で意識が朦朧とする中俺はずっと耐えてきた。薬の副作用がきついのは聞いていたけど、ここまできついとは思わなかった……治療が始まる前も辛かったけど、こんなに辛いなら治療をしない方がよかったかもしれない……そう思うこともたくさんあった。
でも、この薬を射たなきゃ病気の進行を遅らせる事はできない。進行が進み急性転化したらこれ以上の苦しみを味わいながら死んでしまう。それは嫌だ、まだ死にたくない。
「俐桜、大丈夫? お母さんはここにいるから。辛いだろうけど頑張って。」
母親の声がする。苦しみ、吐き続ける俺の横で手を握って座っている。
握っている手は冷たく、気持ちよかった。母さんはいつまでも握り続けてくれている。
母さんは泣き続け必死で苦しみに耐える俺をずっと“大丈夫”と言ってくれていた。
嬉しかった、苦しみが消える訳でもないのに、誰かが側に居てくれるのがとても嬉しかった。
吐き気と闘い、頭痛で狂ったように頭を枕にぶつける。辛い、痛い、しんどい、母さん助けて………声に出すことも出来ず、心の中でも叫び続けた。
静かに目を開くと、クラシックのCDが終わってしまっていた。体を起こし目を擦りながらCDコンボのスイッチを入れる。
窓からはオレンジ色の夕陽が部屋に射し込み目に痛いほどに眩しかった。
その時、小さく流れるクラシックに紛れて何かCDとは違う音が混じっていた。覚えるほど聞いたCDだ、違う音が入っていたら分かる。
その音はCDよりも綺麗で透き通った音だった。俺の家の周りには家はない、だから隣の家の音と言うことはあり得ない。
でも、聞こえる。目を瞑りその音に集中するとそれは誰かの歌声だと言うことが分かった。ゆっくり立ち上がり唯一の外の状況が見られる窓に歩み寄る。外を見ると肌寒い風が部屋を抜け、緑の芽を出す桜の木の葉が揺れる。その木の根元に一人、誰かが立っていた。
桜色の季節が終わり、新芽が出始める若い桜の木が揺れる。その木の葉に紛れて揺れる黒い綺麗な髪のすらっとした少女が木の下に立っていた。
季節外れの秋の歌を歌っていた少女の声はとても透き通った綺麗な声だった。つい聞き入ってしまうほど、その声に心打たれた。夕焼けの燃えるような赤をバックに移るその影は今まで撮ってきたどんな夕焼けよりも綺麗で絵になっていた。そのチャンスを修めようとカメラを手に持ち構え、ピントを合わせる。
カメラの望遠機能でズームすると彼女の横顔が見えた。その横顔がとても楽しそうで可愛かった。歌を歌い終わると少女はそのまま何もなかった様に坂を降って行った。
少女の姿が遠くに消えていき部屋に流れるクラシックだけが俺の頭に響いていた。ボーとしていてふと気がついた。
「シャッター切るの忘れてた……」
カメラを手に持ったままゆっくりベッドに座る。シャッターを切り忘れるなんて、カメラマンになるにはまだまだだな……
でも、あの少女はなんだったんだろう、そんなことを考えながらベッドから体を半分体を落とし、うつ伏せになり目を閉じる。
頭の中に彼女の歌をもう一度流すとまた顔が熱くなり、鼓動が速くなるのが分かった。明日もいるかな……
どれくらいボーとしていただろうか、頭が停止している時にいきなり襖の開く音が部屋に響いた。
その音にびっくりして頭から床にダイブしてした。頭を抱え涙目になりながら痛みを耐えているとすと目の前に手が伸びてきた。
「俐桜君、大丈夫? 見事に頭から落ちたね。」
と少し笑いながら先生が俺を立たせてくれた。
先生と言っても学校の先生ではなく、医者のことだ。この先生はまだ若いが腕は良いらしく母親が頼んで去年から俺のところに来た。
診察が終わり服を着直し大きくアクビをする。
「熱がまた上がってくるだろうから、今日はさっさと寝てよ。じゃぁ俺は帰るけど、お薬忘れないように。」
先生はそう言って立ち上がり頷く俺の頭を撫でた。
俺はこの先生は好きだ。なぜなら、俺の想像する父親のように優しく、俺の頭を撫でてくれるからだ。
だから俺はこの先生になってから診察を逃げ出さなくなり、苦しい治療にも耐えてきた。
それに引き替え、本当の父親は家柄ばっかり気にして俺や母親のことなんか何にも考えていない堅物野郎だ。一人息子である俺がこんなんだからひどくがっかりしていたが、正直俺にしたらざまあみろだ。
「俐桜君、どうかしたの? さっきみたいに俐桜君がぼーとするなんて珍しい……なんか悩みがあるなら相談にのるよ。」
先生はそう言って隣に座り俺の顔を覗いた。先生なら話しても大丈夫と思い、恐る恐る先生に話すことにした。
「さっき、この窓の下の桜の木の下に一人女の子が歌ってたんです。その子の歌がすごく綺麗だなーて思って……」
そう言っていると顔がまたどんどん熱くなって、鼓動が速くなってくる。そんな俺を見て先生は優しく、少し寂しそうな目をして俺の頭を撫でてくれた。
「俐桜君はその子のことが気になるんだね……なら、じっとしてちゃ駄目だよ。もしかしたら明日も来るかもしれないし、その子に話しかけてみたら?」
「無理だよ! だって知らない奴に話しかけたって……」
俺はこの家から、いやこの部屋から出られないような奴だし、話すにしても、何を話せばいいか分からない……それに俺が話しかけたりしたらあの子もきっと迷惑だ。
さっきだって、この部屋からあの子の歌を聴くだけで、何もできなかった。話しかけようとした、話したい、仲良くなりたい。でもどうしても声が出ない、話しかける勇気がない。
「俐桜君、人はいついなくなるか分からないんだ……だから一日一日後悔の無いように生きなきゃいけないんだよ。いつ愛しい人がいなくなるか誰にも分からないんだから……」
先生はそう言って悲しい笑顔を俺に向けた。医者の先生は毎日生と死を前にして仕事をしているんだ、いきなり患者がいなくなる悲しさも知っている。
でも、愛しい人って? 先生に聞こうとしたその時、先生の携帯電話の着信音が部屋に鳴り響いた。
先生はにこっと笑って電話に出た。その後医療器具の入った鞄を持って大きく伸びをした。
「ごめん、病院に戻らなきゃいけなくなっちゃった。明日にでもその子に話しかけるんだよ。また今度その子の話聞かせてね。」
そう言って先生は部屋を出て行ってしまった。扉が閉まる音が静かな部屋に響きわたり、また一人になってしまった。
ベッドに寝ころんでカメラの中に入っているデータを見ながら彼女の笑顔を思い出した。あの透き通った声、綺麗な黒髪。何度思い直しても可愛く綺麗な女性だった。“愛しい人”。先生が言ったあの言葉が耳に残った。愛しい人ってなんだろう、どんな人の事を言うんだろう。
そんな事を思いながらデータを見ていたら部屋の襖が開き母親が入ってきた。その音に少しびっくりして母親の方に顔を向けた。
「あら、どうしたの? そんな驚いて……」
今日はいろんなことにびっくりして、普段なら驚かない襖の音にも驚いてしまった。今日はどうかしている。
“別に”と言ってカメラをベッドに置き体を起こす。ベッドにもたれ掛かりゆっくり息を吐き出し心を落ち着かせる。母親は俺の横に座り俺の手を握り小さくため息をついた。
俺の手を握っている母親の小さく細い手は小刻みに震えていた。顔を覗くと母親の目は定まらず何かに怯えるようだった。
「あのね俐桜、さっき先生と話したの。そしたらね、進行が進んでるから、少し薬の量を増やすって……でも、そうしたらまた俐桜が苦しんでしまう……私はこれ以上もう、苦しむあなたを見ていられないの……」
そう言うと肩を震わせて静かに声を殺して泣いていた。
握られた手の震えがこっちにまで伝わって来た。握られた手を握り返し、母さんの小さな背中にもたれ掛かって頬を背中につけると母さんの匂いがした。小さい頃、よくこうやって甘えた時に嗅いだ匂いだ。中学になってからどうも母親とは距離を置きがちだったから、こうやって甘えるのは久しぶりだ。
「大丈夫だよ母さん。俺は耐えるよ、絶対治るって母さん言ってくれたじゃん。心配してくれてありがとう。」
そう言って静かに目を閉じ、現実を見つめ直す。
副作用の苦しみには慣れたとはいえ、これ以上薬の量が増えたら精神状態を維持できる自信がない。今の量で肉体的にも限界に近い。
しかし、進行が進んでいるのは事実、薬に頼らなければ俺は生きていけない。薬もそう安いものではないし、母親にも迷惑がかかる。
夜中に苦しむ俺をいつも横で支えてくれ、看病してくれる母親の体力もギリギリだ。
「無理しなくていいのよ、辛かったら辛いって言ってね。あなた自分からは何も言わないからお母さん心配で……でも、俐桜が頑張るって言うんなら私も頑張るわ。」
母親は俺の方を向き微笑みかけそう言って、静かに立ち上がった。俺が苦しくっても何も言わないのはあんたが心配性だからだよ。それに、俺が泣き言言ってたってこの病気が治るわけでもないし……
「そろそろ夕御飯の用意してくるわね。」
そう言うと母親は早々と部屋から出て行った。カメラを手にして夕日が沈む山をフィルムに焼き付けた。
雲が揺れ動く中カメラを空に向けると綺麗な青空が映った。あの子は今日も来て歌ってくれるだろうか。
そう思いながらクラシックを聴く。その時、窓の外から聞こえた声は昨日のあの子の声だった。
(来た、今日こそ話しかける……)
窓に向かいゆっくりと歩くと昨日と同じ桜の木の下にあの少女が立っていた。昨日と同じく季節外れの歌を歌いながら楽しそうに歌っている。
歌を聞いていると、楽しそうに歌っているのになぜか悲しそうな歌声だった。
どうしてこんな悲しい歌声で歌っているんだ? 昨日はこんな事感じなかったのに……
「おっ! おい……」
少女に向かって大きな声でそう言うと少女は俺の方に振り返り、少し顔を赤く染めて走り去ろうとした。
「あっ、待てよ! 話がしたいんだ……」
俺がそう言うと少女はゆっくり俺を見て首を傾げた。やっぱり迷惑だったかな……
「怒らないの? 私の歌、五月蠅いって……」
少女は俺と話をしてくれるらしく、ゆっくり俺の家の塀によじ登り少し近づいた。これじゃロミオとジュリエットの逆バージョンになってしまう……まぁ今はそんなことどうでもいいか。
「怒らないよ。だから、少し聞いても良い? なんでこんな所で歌ってるの?」
少女は怒らないと聞いたら、満面の笑みを浮かべ一度大きく頷いた。塀に座って、足を交互にバタバタさせながら話し出した。
「私、最近こっちの祖母の家に越してきたの。前までは都会だったから歌を歌ってたら五月蠅いって言われて……で、こっちだったら田舎だし、大丈夫かなって思ったら祖母が五月蝿いって言うの。それで、外で歌おうといい場所を探してたらここは人通りも少なくていいかなって~ごめんね、五月蝿かったら場所移動するから……」
少女はそう言って塀に座って足を交互に揺らしながらゆっくり悲しげな顔で微笑んだ。
「そんなことない! 俺は、五月蝿いなんか思ってないよ。寧ろ、つまらないクラシックよりお前の歌の方が面白いよ。」
窓から身を乗り出してそう言うと、彼女は少し驚いてから大きな声で笑い出した。そんな彼女を見ながら何故笑われているのか、自分が言った言葉を思い返してみた。
「ごめんなさいね、あまりにも必死に言うから……でも、ありがとう。また明日も来ていいかしら。」
少女は首を傾げながら俺に問う。お礼を言われ、明日の約束をする。昔に戻ったみたいだ。なんだか、とても嬉しい。
「あぁ、いいよ。でも、もうすぐ夏なんだから夏らしい歌を歌ってよ。」
俺のリクエストを聞いてはにかみながら頷くと、塀から飛び降りて昨日と同じく、何事も無かったかのように坂を降っていく。彼女の姿を見ながら大切な事を聞き忘れていたことに気がつき大声で叫ぶ。
「ねぇ! 俺は俐桜っていうんだ! お前の名前聞いてない!」
久々に出した大声はとても気持ちよかった。彼女は俺の声に気がつき、こっちを振り返りながら口元に手をそえ、
「私の名前は、一輪よ~バイバイ、俐桜君!」
そう言って一輪は大きく手を振ってからまた坂を下って行った。
ダメダメな文章を読んでいただきありがとうございます!第二部もお楽しみに~