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背・幸福論

作者: 麦原
掲載日:2026/04/22




 木漏れ日の差す道を歩いていった。今日は暖かい気温で目覚めた。枝垂れた桜の匂い、澄んだ紅茶。春を感じたのは何十年ぶりだろう。


 思えば、結婚してから、季節なんて関係なかったかもしれない。秋が来た、春が来たなんて亭主に言うことはなく、もう年が明けますね、と季節に触れても、亭主はああ、と返すのみだった。そういう無愛想なところは婚姻前から嫌いだったけれど、お見合いしたのだから仕方ないことだった。


 孫が結婚してからは、いよいよ「役目を終えた」と思った。亭主はどうか分からなかったけれど、私はどうも自分の本能的な部分が満了した気がした。立派に育った孫は、大学卒業後に官僚になった。同じ大学の女性を娶ったらしく、とても誇らしく思っていたのに、ここ数年は喜びの湧き上がる量が少なかった。


 私の感情の源泉は、もう干上がってしまったのだろうか。そう思っていたのに、亭主が亡くなり、未亡人になってから、みるみる活力が戻っていった。自由なのである。亭主を愛していたことは間違いないし、いい夫でいてくれたと思う。しかししがらみがあたことも事実だった。私は久しぶりに紅茶を淹れると、下手くそになっていて、美味しいものではない。しかしまた練習する手間暇でさえ愛しいと思えた。


 今日は何をしようか。何を夕食にしようか。ワクワクする気持ちでスーパーに向かった。ワクワクする。ワクワクするですって! 人間は本棚のようだと思う。覚えのない言葉が出てくる時、本棚の上段から言葉が落ちてくる感じがする。使いにくい言葉は、取りづらい棚に置いておく。私にとってのワクワクという語彙は、とうに上段に置かれ、埃を被っていた。


 スーパーの生鮮食品コーナーに到着すると、ホッケが安く売られていた。今日はホッケにしよう。酒蒸しにしたら美味しいのかしら。どれ試してやろうと、購入することにした。すると、隣にいた老夫婦がサンマを取っていった。


「塩焼きにしてくれ」


「はい、はい」


「大根おろし」


「はい、もちろん」


 と婦人は亭主の好みのまま、今日の夕食の食材を集めている。不満だろう。可哀想に。そういう気持ちが浮かんだ。私も同じようなことをしていた。しかし、私自身、その時不満に思ったことがないことに気づくと、何故だろうと考えた。


 不満だろう。可哀想に。先ほどはそう思ったのに、しかし、やはり、婦人は別に不満そうではない。


 カートを押しながら思い返すと、私もそうであり、何故不満に思うはずの状態を不満に思えなかったのか、わかった気がした。私が本棚から取り出す言葉には、ワクワク、などの語彙に斜線が引かれていたからだ。


 私はこれからずっと亭主と一緒にいるために、亭主の短所や諍いの種となる自分の特徴を、どうにかして封じ込めていた。亭主の短所にさえ目を瞑れば、亭主はいい夫に思えるから。つまり、私が今まで愛情だと思っていたものは、単なる諦念だったということなのかしら。


 カートをレジに到着させ、お金を払うと、なんだか急に孫に会いたくなった。寂しくなったのだ。急激に背骨が曲がった気がする。ホッケを酒蒸しする試みでさえ、単に面倒だと思った。


 若い夫婦が、袋詰めする台で喧嘩をしていた。今日の夕飯は何にするかで揉めていた。そんな些細なところで喧嘩せずに、どちらかが折れたらいい。そう思っていた。しかし聞いていると、お互いの折衷案を見つけたらしい。多分、今日私はホッケも酒蒸しも作らない。




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