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裏帳簿を整理した掃除メイド、女嫌いな公爵に溺愛されるまで。

作者: 藤井
掲載日:2026/02/02

 人生にターニングポイントがあるのならば、今、この瞬間だろう。


 大きくマル秘、裏帳簿と古代語で書いてある、見るからに怪しい表紙の本が掃除メイドのナタリーの目に飛び込んできた。


 ナタリーはハチミツ色の目を丸くして、本能のまま、ノートに手を伸ばした。


(見たい! でもこれは明らかに見てはいけないものだわ)


 中を見たい衝動をぐっとこらえたのは、ナタリー・ジョナサン。肩まである茶色のくせ毛の髪がくるくるとしていて、パッチリした瞳が印象的な、掃除を専門とするメイドである。ナタリーはただの掃除メイドではない。書類整理と分類に関しては右に出る者はいない。


 そんなナタリーの本日の業務は、公爵家の屋敷の大掃除である。屋敷が広いため、他にも掃除屋から派遣された臨時の掃除メイドがいるけれど、ナタリーが担当することとなった部屋は、この屋敷の主の執務室だった。高く積みあがった書類や本で埋め尽くされた部屋はこの上なく掃除がしにくそうで、掃除を依頼したのも頷ける。


 他人から見れば整理整頓なんてされてないけれど、こういう風に散らかしている主は、何がどこに置いてあるのか本人は把握していることが多い。他人が触ることで、全く物の居場所が把握できなくなり、これまでに怒りだした人は一人や二人ではない。そんな経験をしているナタリーは、誰が見てもわかるように、書類の仕分けを行うプロである。走り書きがしてある紙切れから重要書類まで、一つ一つ手に取り、瞬時にすべてを振り分けていく。


「ふー、さすが公爵ね。すごい量だわ」


 たくさんの書類の仕分けが終わり、ナタリーが次に手を付けたのは大量にある本だ。これでもかと高く積みあがった本を、分類しながら設置してある本棚に収めていく。この屋敷の主は余程の本好きらしく、壁一面大きな本棚には物語から実用書まで様々なジャンルの本が並んでいる。


「あ、さっきの怪しい裏帳簿、まさかシリーズ展開しているなんて思わなかったわ」


先ほどナタリーが見つけたマル秘・裏帳簿はどうやらシリーズ一七冊目だったようで、マル秘と書かれた一六冊が本棚一番下に乱雑に置かれていた。番号も裏も表もバラバラに置かれていた裏帳簿シリーズを番号順に並べて、一歩下がって本棚を確認する。


(我ながら美しい並びだわ)


 一七冊目のマル秘と書いてある裏帳簿はまだ新しく、使用中のものだろうと推測できる。


(これは今使っているようね。一七冊目は重要書類の一番上に乗せよう)


 マル秘と書かれたその文字を、じっと見ていたナタリーは、あることに気づいた。


「すごく綺麗な字だわ」


 字には性格が出るなんて話を聞いたことがあるけれど、それが本当ならこの字を書いた人はとても美しい人なのだろうと思った。


 複雑な模様にしか見えないこの文字は、古代語だ。古代語の研究は年々進んでいるけれど、その複雑さに学ぼうとする人がとても少ない。ナタリーは書類整理の仕事をしている内に、目にする機会が増え、少しずつ理解できるようになった。ここ最近は、複雑すぎる文字を読み解いていくことに快感を覚えて、空いた時間があれば古代語で書かれた本を読んでいる。唯一持っているその一冊は、以前掃除に行った先で処分すると聞いてもらった物だった。ナタリーは、その古代語の本を擦り切れそうなほど読み込んで、何度も練習している。古代語オタクと言っても過言ではないかもしれないとナタリーは自負している。


(古代語で書かれた物ならば裏帳簿でも読んでみたいけれど、中を見るのはさすがにいけないわ)


 ブンブンと首を振り、中を見たいと言う誘惑に打ち勝ったナタリーが、名残惜しそうに表紙の一七という数字を撫でた時だ。


「この部屋の掃除はいいと言っておいたのだが」


 耳に響く低い声でそう呟いて、執務室に入ってきた背の高い男は、この屋敷の主であるアーサー・クレメンズ。深い海のような青の瞳がナタリーの手にしている裏帳簿に向いている。ナタリーはその視線に気づいて、慌てて裏帳簿を重要書類の一番上に乗せた。


「申し訳ございません。こちらの部屋の掃除も依頼に含まれておりましたので、整理させていただきました」


 そう言ったナタリーの前に、アーサーは長い足ですぐたどり着いた。そして、ナタリーが整頓した場所を見渡して眉を寄せている。


「これは君が?」

「はい。ご説明いたします。申請されるときに使用する書類はこちら、請求書関係はこちらの箱、仕入れ関係はこちらの箱、その他、諸々書類は重要度で仕訳けております。一枚も破棄しておりませんのでご安心ください。さらに書類担当掃除メイドは、お客様の一切の情報を他言いたしません」


 下げた頭を上げてサッと仕訳け方について説明したナタリーは、目の前の男を観察しながら噂の公爵様の話を思い出していた。燃えるような赤い髪にスッと通った鼻筋、切れ長の瞳、長い手足。非の打ち所がないとは正にこの人のことだろう。一つ問題があるとすれば、不機嫌ですと言わんばかりのこの雰囲気だけれど、それはきっと女嫌いで有名なアーサーの目の前に女であるナタリーがいるせいだろう。


 どうやら機嫌がよろしくないアーサーを前にナタリーは愛想笑いを浮かべた。


(触らぬ神に祟りなし。必要最低限のことを伝えて早く退出しよう)


「残りは、こちらの本だけになりますが、全て本棚には入り切りませんので、追加の棚を購入されるか、本を選別した方がよろしいかと思います。整理、清掃は完了しております」


 返事を聞く前に、ナタリーは無駄のない動きで、扉までの最短距離を進みササっと一礼。そして、迅速かつ的確にドアノブに手を伸ばした。そうしてナタリーが最後まで気を抜かず、背中に緊張感を漂わせたまま、ドアノブに手をかけた瞬間だ。


「待て」


 ドアノブに手を伸ばした姿勢のまま固まったナタリーは、何か不手際があったのだろうかと振り返った。


「何か不備などござましたか?」

「……いや」


 それならなぜ呼び止めたのだろうかと不思議そうなナタリーは首を傾げているけれど、呼び止めたアーサーは無言だ。


 妙な空気のまま見つめ合うこと数秒。

 ナタリーのごくりとつばを飲み込む音がやけに響いて聞こえる。


「……行っていい」

「はい! それでは失礼いたしました」


 退出の許可が出て声を弾ませるナタリーを、驚いた顔で見るアーサー。驚いた顔さえも洗練されているアーサーの美貌を目に焼き付けてからナタリーは一礼し退出する。



 その夜こと。


 整理された部屋はやはり気持ちがいいもので、アーサーは仕事に精を出した。

 アーサーは他人に自分の物を触られるなんて不快でしかないと今日まで思っていた。特に若い女なんて、アーサーを見れば頬を染めたり、やたらと近づいてきたり、あからさまに媚を売ったり、ストーカーのようにつき纏われたこともある。これまでの経験上、女性には嫌な思い出しかないので、嫌悪感すら抱いていた。けれど、見事なまでに仕分けされた書類に昼間会った掃除メイドを思わず呼び止めていた。


 大量にある請求書の束は日付順に並んでいて、きちんと仕分けがしてあることがわかる。さらには仕入れ先ごとに分かりやすいようにまとめてあり、文句のつけようがない。


「あのメイド、見ない顔だな」


 できたら書類の整理係をまたやってもらいたいと思うほどで、アーサーは執事を呼び出した。


「お呼びでしょうか?」

「ああ、この部屋を掃除していたメイドのことだが」


 アーサーが話しきるより先に、執事は声をあげた。


「またでございますか? あのメイドもやはりアーサー様に色目を使ったのでしょう。臨時の掃除メイドですので、もうこの屋敷に来ることはありませんのでご安心ください」


 色目も何も、アーサーを見ても頬を染めることもなく、下手な愛想笑いを浮かべていた。間違いでなければ、色目を使うどころか早く帰りたそうだった。


「いや、そうじゃなくてだな」


 珍しく、歯切れの悪い主に、執事の男は眉を寄せた。


「そうじゃないのならどうされたのですか?」

「……あのメイドは臨時なのか?」

「はい、掃除専門のメイドを派遣する掃除屋に依頼しました。掃除専門というだけあって、普段手が届かないような場所まで綺麗にしてくれると評判で、あのメイドは書類整理が得意とのことでした」


 一人納得して、頷くアーサー。


「また掃除の依頼をするのか?」

「問題ないようであれば年に一度、掃除メイドに屋敷の掃除の依頼をすればよいかと」

「……そうか」


 あのメイドがまた掃除をしてくれたら自分の仕事が捗るだろうと一瞬頭を過ったけれど、女嫌いのアーサーは結局掃除メイドにまた来てもらおうとは思わなかったのだ。


 そんな話をしている時、アーサーは重要書類の一番上に、マル秘裏帳簿が置いてあることに気づいた。


「……偶然か? いや、まさかな。しかし」

「どうかされましたか?」


 執事に問いかけに、アーサーはマル秘裏帳簿と書かれたノートを手に考え込む。


「これはなんと書いてあるかわかるか?」

「……いいえ、わかりません」

「そうだよな」

「古代語というのはわかりますが、複雑な模様のようで、私には理解できません。申し訳ございません」

「いや、いいんだ」


 わからないのが当たり前なのだ。なぜなればこれは古代語で書かれた文字だから。

 裏帳簿が、重要書類に分別されていると言うことは、古代語を理解しているということになる。けれど、古代語を学ぶ者は世界中でも一握りしかおらず、古代語に詳しい者は見知った顔ばかりなのだ。定期的に開かれる古代語愛好会では、お互いの意見を発表し知識の擦り合わせをしている。そうやって謎解きのような言葉を少しずつ解明しているのだ。メンバーはもう何年も変わることはなく、いつも同じ顔触れなのだから。


「ふむ、偶然か……」


 掃除メイドに古代語が読めるわけがないという先入観から、偶然だと思ったアーサー。

 執事を退出させて、執務に励む。

 重要書類に分類されている物の中でも最重要案件から片付けようと、書類の山に手を伸ばし、もくもくと仕事をこなしていれば、いつの間にか窓の外は明るくなっていた。


「朝か」


 書類が整理されていて、仕事がしやすかったこともあり、長時間執務に没頭していたアーサーは、疲れた目元を指でほぐした。そして大きく伸びをした瞬間、机の上に置いていた公爵家の紋章印が転げ落ちた。

 アーサーが床に落ちた紋章印を拾うために、しゃがみこむ。


 その時、本棚の一番下、普段なら目に入らないその場所にアーサーの視線が釘付けになった。


 マル秘裏帳簿と書いたノートが番号順にきっちりと並んでいることに気づいたのだ。アーサーは自分の性格をよく理解している。そのうえで、自分がノートを番号順に並べることはあり得ないと確信できる。


「十六まで、偶然並べられる確率はどのぐらいある? フハハハ」


 心底愉快だと言わんばかりの顔で自問自答したのは一瞬、そこからの行動は早かった。

 


 空が明るくなってきた、まだ早いこの時間。


 掃除メイド、ナタリーの一日が始まろうとしていた。


 町にある小さな家の一室、ナタリーは鏡の前に座り、ただでさえくせ毛でまとまりにくい髪に寝ぐせまでついたボサボサな髪を慣れた手つきで結んでいる。


「よし、今日も張り切って頑張るわよ」


 鏡の中の自分の顔を見て、笑顔を作ってみる。

自分では精一杯にこりと笑ってみても、あまり笑えていない。愛想がないのだと自分でも自覚しているから、少しでも印象を良くしようとは思っているけれど、どうも表情筋がうまく動かない。


 一人暮らしのナタリーの部屋は、綺麗とは言えなかった。掃除が仕事でも、家が綺麗とは限らない。ただ、部屋の一角、古代語の本の置いてある机だけは、整理整頓されていた。ナタリーがこれまでに書き留めた古代語についての紙は、きっちりと揃えて置いてある。乱雑に物が置いてある部屋の中で、妙に綺麗な机だけが浮いていた。


 ナタリーは、古代語で書かれた紙を広げて、昨日買っておいたパンの上にたっぷりベリーのジャムを塗って大きな口を開けて食べている。古代語を眺めているだけに見えるナタリーの頭の中では謎解きのようにいくつもの解読パターンが思い浮かんでいる。そうして古代語に思いを馳せながら朝食を食べ終えたナタリーは、今日の仕事の確認をしに職場へと出勤する。


「おはようございます」

「おはよう、ナタリー。今日は嬉しいニュースがあるよ」


 掃除屋の主の小さいおじいさんは、掃除メイドに仕事先を旋回してくれる。昔は世界を旅しながら商人をやっていたそうで、なかなかのやり手だったらしく交渉上手で、給金のいい仕事を持ってきてくれるのだ。


「嬉しいニュースですか?」

「今日の仕事は王宮の図書館だよ」

「え? 本当ですか?」


 あまりの嬉しさに前のめりになるナタリーに、小さく頷いた掃除屋の主。


「指名で本の整理の仕事の依頼、午後一時から開始だよ」

「はい! かしこまりました」


 自他共に認める愛想がないナタリー、いろんな仕事をしてみたけれど最終的にたどり着いたのが掃除の仕事だったのだ。掃除の仕事は必要以上に人と喋らなくていいし、きちんと自分の担当の場所さえ綺麗にすればいい。書類を分類することがいつしか得意になり、愛想のないナタリーにはピッタリだった。


 掃除屋の主は、余計なことを喋らず黙々と仕事をするナタリーを気に入ってくれて、給金がいい仕事を優先的に回してくれているようになり、仕事には困らない。


(王立図書館に行けるなんて、本当に嬉しい)


 王立図書館には、膨大な数の本がある。ナタリーの大好きな古代語の本ももちろんある。けれど王立図書館には誰もが入れるわけではない。一般庶民だと、年に一回の図書館の開放日だけしか中に入れないのだ。そもそも本は高価で、希少価値の高い古代語の本となれば桁が違って買いたくても買えないから、年に一回の開放日をナタリーはものすごく楽しみにしている。だから今日は、開放日以外に図書館に入れるだけでも、舞い上がってしまいそうなほどに嬉しい。


 足取りの軽いナタリーは、大好きな王立図書館へと向けて歩き出した。


 依頼の時間にはまだ早いけれど、図書館の外観をみるだけで幸せな気分になれそうで、ナタリーは図書館の前で座って待つことにした。


(外観も相変わらず素晴らしいわ)


 王立というだけあって、建物の構造も他の建物とは一味違う。

 ナタリーが図書館に見惚れている時。


 王宮の一室に、アーサーがいた。

 アーサーの目の前にいるのは、座り心地の良さそうな椅子に腰かけて面白そうに赤い瞳を輝かせる男。この国の第一王子だ。古代語愛好会のメンバーである。


「それで、君の家の本が順番通りに並んでいたから、その子は古代語が読めるってことなのかい?」

「恐らく」

「最初から順番通りに並んでいたのではないの?」

「いいえ、それはないかと」

「では偶然、順番通りに並べたということは?」

「そう言われると、何とも言えませんが……」

「ふむ、まあ試してみる価値はあるか」

「本日、本の整理の依頼を出してきましたので、確かめようと思います。私にお任せください」

「アーサーにまかせていいの?」

「はい」

「へえ。女嫌いなアーサーがね。報告楽しみにしているよ」

 

 一礼して退出したアーサーは、迷いなく足が図書館へ向かう。


 そのころナタリーは、図書館の中へと入り、本の匂いを胸いっぱいに吸い込み、年に一度しか来ることのできない図書館に入室できた喜びに浸っていた。


 (やっぱりここは最高よ)


 右を見ても左を見ても、本で埋め尽くされている。

 壁一面に本が上から下までぎっしり詰まっている。

 頬を上気させて幸せいっぱいだと言わんばかりのナタリーに様子を見ていた図書館司書の初老の男性は、優しく微笑んでいた。


「ほっほっほっ、お嬢さん本がお好きなようですな」

「あ、失礼いたしました。私、掃除メイドの、ナタリー・ジョナサンと申します。本日はよろしくお願いします」


 慌てて一礼するナタリー。

 図書館司書は白い手袋を手渡し、ナタリーを奥の方に案内する。


「こちらこそ、よろしく頼みます」

「はい。何なりとお申し付けください」

「ここにある本を、種類別に振り分け、あるべきところに収めていただきたいのです」

「はい」

「各ジャンルごとに棚が決まっていますので、まずは棚の説明から始めましょう」

「前回の開放日から変わっていなければ、どこにどんな本があるかわかります」


 その言葉に、瞬きを繰り返す図書館司書は、感心するように頷いた。


「なるほど、ナタリーさんは本の配置を覚えているのですね?」

「はい、把握しています」

「それは素晴らしいです」


 案内された先には、本がこれでもと積みあがっていた。

 それは、ナタリーの背を超えるほどで、図書館の端っこにある小部屋を埋め尽くしていた。


「本の裏に数字が書いてあるものは、数字と同じ棚へ。それ以外は、まだ振り分け作業ができていませんので、中を確認し数字を割り振って収納していただけますか?」

「私が、本の中を確認してよろしいのですか?」

「ええ、もちろんです。中を見てもわからない物は、箱を用意していますので、入れてください」

「かしこまりました」


 キラキラと輝く瞳は、嬉しくてたまらないと言わんばかりで、本に囲まれてナタリーはいつも愛想がないとは思えぬ笑顔だ。


(一年に一度の開放日、一文字でも多く文字を読むために自然と覚えた本棚の配置が役に立ちそう)


 積んである本を手に取り、数字毎に仕分けしていく。そして数字が書いていない本は全てジャンルがバラバラだ。けれどもナタリーはサッと中を確認して瞬時に仕分けしていく。その集中力と、仕事の的確さに司書の男性は舌を巻いた。


 生き生きと瞳を輝かせて仕事に取り組むナタリーは、仕事に没頭した。

 司書の男性が退出してアーサーが入ってきたことすら気づかないまま、時間が過ぎていく。


「こんなに古代語の本がたくさん。夢のようだわ」


 一般の言語の本に混ざって古代語の本がどんどん出てきて、ナタリーは本の世界に吸い込まれていく。だから、真剣に本と向き合っていたナタリーは、外が暗くなっていることすら気づかなかったのだ。


「……い、おい、お前だ。おい、聞いているのか……ナタリー・ジョナサン!」


 突然名前を呼ばれナタリーの肩がびくりと跳ねた。


「……え? あ、はい」

「何度か声をかけたのだが」


 呆れるようにそう言ったアーサーを見て、ナタリーは目を丸くして驚いていた。


「……公爵様?」


 目の前にいたのは昨日の勤務先である公爵家で会った、女嫌いで有名なアーサー・クレメンズ。あまりの美貌に、忘れたくても忘れられない男である。ただの臨時の掃除メイドのナタリーとは住む世界が違うため、一生会うことはないだろうと思っていただけに、ナタリーはただただ驚いていた。


「もう夕暮れだぞ」


 アーサーの指さす先の窓の外を確認した、ナタリーは慌てて立ち上がった。


「た、大変」


 時間がいつまでと言われなかったけれど、本の整理はまだ部屋の四分の一も終わっていなかった。キョロキョロと司書のおじいさんを探すナタリーにアーサーは言った。


「分類するのは、今持っている本までにするんだ」

「え?」

「図書館の鍵は俺が預かっている」


 そう言って、手のひらの上の鍵を見せるアーサーに、ナタリーは今持っている本を分類できない箱の中にそっと入れた。目を細めたアーサーは今ナタリーが入れた本を手に取る。


「これはなぜ分類できなかったんだ?」


 アーサーが今手にしている本は、古代語で書かれた神話だった。


「物語として扱うか、世界の起源や秩序を説明しているため歴史書として扱うべきか判断できませんでした」

「ほう、君にはこの内容がわかるのか?」

「ええ。全部ではありませんが、おおよそは」


 アーサーは息を吸い込んだまま言葉を失い、ゆっくりと笑みが滲んでいく。抑えきれない興奮で、頬が紅潮していく。そして、アーサーは長身の身体をゆっくりと折り、ナタリーと視線を合わせた。


「ナタリー・ジョナサン」

「はい?」

「古代語は好きか?」


 言われた言葉を理解した瞬間、ナタリーは迷いなく大きく頷いた。


「大好きです」

「ほう、俺もだ」

「え?」

「大好きなどと言う言葉では足りぬ。俺は古代語を愛している」

 

 その瞬間、ナタリーは瞬きすら忘れたように固まった。


「愛していると言う俺の言葉が信じられぬか?」


 喉が震えて言葉が出てこないナタリーだが、ようやく絞り出すように言葉がでた。


「……う、嘘でしょう」


(古代語オタク歴八年、一生誰にもわかってもらえない古代語の魅力を語り合えるかもしれない人がこの世に存在しているの? 古代語を愛している人が私の他にいるなんて、信じられない)


「まさか、これは夢?」


 などと、アーサー本人の前で呟くナタリーに、アーサーは胸ポケットから一枚のメモ用紙を取り出して、万年筆でサラサラと文字を書いていく。


「暗くなる前に今日は帰れ。明日ここに来い」


 ナタリーが受け取った紙には、古代語でこう書かれていた。


 ”猫の手書房に夕暮れ時”


 その美しい文字に見入っている間に、アーサーの気配は遠ざかっていた。気づけば図書室の小部屋にはナタリーだけになっていた。


「……夢、みたい」


 紙を持つ手が震えている。

 たった一行のその文章に心が躍る。


 その日は、どうやって家に帰ってきたのか、記憶になかった。

 ただただ、そわそわして、ワクワクして、ふわふわした気持ちを抱えたまま、夜が更けていった。


 翌日、都合がいいことに仕事は休みだった。

 朝から落ち着かずに何度もメモを見ては、ほうと感嘆の息を漏らした。


 そして、夕暮れ時。


 王都の大通りから一本外れた細い路地で、“猫の手書房”の看板を見上げるナタリーの姿があった。


(ここだわ)


 猫の肉球をあしらった可愛い扉の取っ手の装飾をじっと見つめ、心の準備をする。

 指先に扉が触れた瞬間、期待がふわりと膨らんだ。


「こんにちは」


 そっと扉を押して入室したナタリーは、ふわりと香る紙とインクの匂いに頬を緩めた。


「す、すごい!」


 壁一面に積みあがる本。床から天井までの高さのある大きな本棚には本がぎっしりと並び、入りきらない本が通路に無造作に積んである。ナタリーはそっと扉を閉めて、人一人ギリギリ通れる通路を進んだ。


(こんなに古代語の本がたくさん……本当に夢みたいな空間だわ)


 思わず触りたくなる指さきをぎゅっと握った。

 その時。


「気に入ったか?」


 店の奥から聞こえてくる低い声は、アーサーの声だった。薄暗い棚の陰から現れたのは、昨日と同じ青い瞳。


「……公爵様?」

「来たな。ナタリー・ジョナサン」


 名前を呼ばれただけなのに、心臓が跳ねる。


「昨日の続きだ。古代語を語り合おう」


 その言葉にナタリーの表情が一気に明るくなる。頬は紅潮して、瞳が輝いている。


「ぜひ!」


 その瞬間、アーサーの口元が緩んだ。


「さっそくだが、この本を見てほしい」


 本に囲まれて小さなソファに腰かけたアーサーは、隣のスペースをポンポンと叩いた。


「座ってくれ」

「失礼します」


 言われたとおりに隣に腰かけて、アーサーの膝の上にある本を覗きこむナタリー。


(うわあ、この書体は初めて見るわ。目に焼き付けたい)


 未知の古代語に胸が高鳴る。嬉しくてたまらず、頬が緩むのがとめられない。


「読めるか?」


 アーサーの低い声が耳元で響く。近すぎる距離も、古代語の前では全く気にならないナタリーは、食い入るように本を見つめる。


「……全部ではありませんが、いくつかは」


 そっと、指で文字を指差すナタリーは、記憶を頼りに読みあげる。


「……契約、対価、代償……だと思います」


 アーサーの瞳がわずかに見開かれた。


「素晴らしい。君はやはり読めるのだな」


 その声には、驚きと喜びが混ざっていた。


「はい、でも、正しいかはわかりません」

「いや、正しい。正解だ」


 その言葉に、ナタリーの瞳が一層輝く。

 嬉しさと緊張が入り混じり、心臓がドキドキとうるさかった。


「古代語はどこで学んだのだ?」

「独学です」

「なんと! 独学でここまで理解できるのか?」


 驚いたアーサーだが、なるほどと、大きく頷いてパタンと本を閉じた。


「頼みたいことがある?」

「頼みたいこと?」


 顔を上げた瞬間、アーサーの青い瞳と、ナタリーのハチミツ色の瞳が交差する。


「私の、いや、公爵家の古代語文書の整理を君に任せたい」

「え?」


 ナタリーの声が裏返った。


「そ、そんな大役私には……!」

「君にしかできない」


 迷いのない声にナタリーの胸が震える。


「私は君と過ごす時間が、心地よいと感じている」

「わ、私なんかで本当によろしいのでしょうか? その、お役に立たないようでしたら放り出していただければと思いま」


 ナタリーが言い終える前に、アーサーはフッと笑って言った。


「君を手放す気はない」


 ナタリーの頬が、一気に熱を帯びた。


 猫の手書房の静かな空気の中で、二人の距離が急速に縮まっていく。


お読みいただきありがとうございました。二人の出会いのお話を短編にしてみました。

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― 新着の感想 ―
セリフだけ抜き出せば普通に恋愛ものなのに中身がまるで甘くないというのが良いですね…!でも世界で自分しか読めないかもしれない言語の良さを語り合えたらそりゃたまらんでしょうなぁ…
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