とある医師による回想
幼い頃から頭の回転が速かったらしく、周囲の物事は理屈で説明されれば大抵理解できた。ただ、そのせいか私にはどうにも自他の感情というものに疎く、人間同士では揉め事にも捲き込まれる。高校生にもなれば、こちらを放っておいてくれる人間も多くはなったが、諍いはゼロにはならない。そんな時に出会ったのが高坂という男で、にこにこ笑いながら人の悪意を煙に巻く手腕には恐れ入った。
気付くと隣にいて、いつもこちらに絡んでくる輩を手玉に取る様子は見ていて飽きない。一度、何故自分と一緒にいるのかと聞いたら、利害の一致と言われた。教師に頼まれたのもあるが、自分は実家である精神科のクリニックを継ぐ予定なので、人間観察にちょうどいい、と。それを言われて拍子抜けした後、『各務の隣は楽だしな』と付け足された時には何を言っているのかとも思ったが、成る程彼の周りには彼を頼りにする人間が多かった。
偶然なのか必然なのか、高坂とは進学する大学も学部も同じだった。やることの多い医学部でまた絡まれて時間を浪費するのも嫌だったので、私は高坂の性格を真似ることに決めた。私の変わり様を見た高坂は、特に文句を言うでもなく『前の方が、俺としては面白かった』と溢す。人間観察をするなら尤もな台詞かもしれないが、こいつも大概変な奴だ。
そんな変な奴だったから、インカレサークルで出会った彼女と突如結婚すると言い出した時も、呆れはしたが驚きはしなかった。相手は他大の年上の女で同じ医大生だというから、家柄や肩書き目当てではないだろう。何やら、彼女が卒業と同時に結婚させられそうになったので、早めに入籍することにしたとか。まぁ、合理的に考えればそれもありだろう。結婚相手は卒業後、神経内科医として総合病院に勤めていると聞いた。
そんな噂の結婚相手と初めて会ったのは、それから5年が経ってからだった。その頃私は医師免許を取得し、手外科医として母校の大学病院に勤めていた。当時、手外科の疾患である神経障害やリウマチの治療法として免疫療法の研究をしていた私の元に彼女はやって来た。聞けば、娘に全身性エリテマトーデスという疾患が見つかり、治療が必要だという。利害が一致している相手との共同研究の申し出を断る理由などなく、私は彼女と高坂、そして高坂の娘も時折捲き込んで研究を進めていった。
事件が起こったのは、研究の成果もあり高坂の娘ー彌生の病が完治したすぐ後だ。これからデータをまとめ論文の執筆にとりかかるが、その前に高坂が知人に『よければ使ってくれ』と娘の完治を祝して貸してもらった別荘が長野にあるという。今にして思えばもっと怪しめば良かった話ではあるが、その時は高坂も私も達成感でいっぱいでそこまで疑念の余地はなかった。
大きな物音が隣の部屋から聞こえたのは、私が持参した仕事を終えて一息付いた時だった。隣にいるのは高坂一家のはずだ。まず、可能性としては彌生の体調の変化だ。その結論に至った私はすぐさま隣の部屋へと歩を進める。
扉を開いて、まず飛び込んできたのは血の臭いだった。いくら手術で慣れているとはいえ、こんなところに似つかわしくはないだろう。異質さに内心舌打ちしながら目を凝らすと、そこには血の海に倒れている高坂夫妻と過呼吸を起こしている彌生、そして反撃を食らったのか顔を押さえて踞っている男だった。余談だが、高坂は中高の六年間、ボクシングを習っていた。絶命する前に、彼は抵抗したのだろう。そう結論づけると、私はすぐさま彌生を抱え部屋を出る。その途中、男に右腕を刺されたが、すぐさまそれは振り切った。
過呼吸発作は、体内の二酸化炭素濃度が低下することで起こる。私は腕の中の彼女の背中を擦り落ちつかせながら、呼吸が安定したのを確認すると、防寒着を身に付け屋敷を出た。
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「私達の車のエンジンは壊されていましたので、私は彌生ちゃんを抱えて庭の茂みに隠れ 高坂達を殺した奴らが屋敷からいなくなるのを待ちました。いくら雪が止んでいたとはいえ、民家がある場所までは歩いて三時間はかかります。それでも、屋敷の電話は壊され、携帯電話は圏外。私は彼女を抱えて歩くしかなかった。ようやく民家まで辿り着いた時、私の右腕は壊死していました」
私の夫となる予定の人物は、そこまで一気に告げると目を伏せる。
警察官僚である私の父に協力を仰ぐ条件に、偽装でよいから婚約者になってくれと言ったのは私だった。それが、いざ彼が船上で行われた学会から帰ってくると、今度は契約結婚を申し込まれる。事情を問い質せば、子どもを引き取りたいらしい。友人の子どもにそこまでする事情があるのかと聞くと、彼は友人夫妻とその娘である彼女との過去を打ち明けてきた。
「保護された後の彼女が、よりにもよってその事件の糸を引いていた男に利用されていた。彼女を引き取り、安全を確保してやりたいというこの感情は、私の贖罪であり自己満足でしかありません。本来なら、こんなことに君を巻き込んでしまってよいのかも分からない」
自他の感情にどこまでも鈍感なこの男は、彌生の成人後は婚姻関係は好きにしたらいいし、なんなら金銭的な保証もする。事務的な手続きが面倒なら自分が婿に入るとまで言い出した。
「先生って、案外馬鹿だったんですね」
私がそう結論づけると、彼はようやく顔を挙げる。
「でもって友達思いだし、ちゃんと優しいと思いますよ。人間、口では何とでも言えますけど、行動は嘘つかないじゃないですか。先生は不器用なだけだと思います」
私の話に目を瞬かせる彼の姿が何だか新鮮で、私は彼に笑いかける。
「了解です。この水無月 司、不肖ではありますが各務先生の妻として、彌生ちゃんのことも丸ごと含めて居心地のいい家を作ります。一緒に頑張りましょうね、先生」
呆けたような夫に左手を差し出すと、彼はようやく表情を変えた。
「ええ。宜しくお願いします」
安堵したような笑みを浮かべる彼に満足しながら、私は左手を握り返してきた彼と手を繋ぐ。そうして、私達を待つ父の元へと歩き出した。
終




