迷子の彼は
気が付くと、俺は見知らぬ廊下にいた。どうしてこんなところにいるんだっけ、と思い出そうとするが記憶があやふやだ。白い廊下には襖が並んでいる。見覚えがあるような、ないような場所である。あたりを見回すが誰もいない。一体どうなっているんだろうと狐につままれたような感覚に陥りながら、俺はとりあえず廊下を進んでみることにした。
襖が並ぶ廊下は、案外すぐ終わりを迎えた。突き当りも襖の部屋である。突き当りの部屋からはなにやら話し声が聞こえていたが、内容が聞き取れるほどではない。声をかけてみるべきか逡巡して、俺は立ち止まる。これが知り合いだったらいいが、赤の他人だったら……。「すみません、ここはどこで、俺はどうしてここにいるんでしょうか?」なんて、不審者もいいところだ。最悪、問答無用でつまみ出されてもおかしくない。せめて話している人物が誰かくらいわからないだろうかとそっと襖に近づくが、離れた場所で話しているのか、声はよく聞こえなかった。迷った末、俺はいったん廊下を引き返してみることにした。
並んだ襖を眺める。無機質な白い廊下に木枠の温かみがなんとなく浮いて見える。この中は和室なんだろうな、とはなんとなく思うものの、どこなのかはさっぱりわからない。先ほどと同様、廊下は唐突に途切れ、広い空間に出た。目の前は自動ドアだ。外はすでに日が暮れたのか真っ暗である。
これで外に出られる。そうすればここがどこかも自ずとわかるだろう。自分がどこにいるかわからないなんて、ずいぶん酔っぱらってでもいたのだろう。だが、ここがどこであれ、場所さえわかればどうやってでも帰れる。真夜中だろうがタクシーを拾えばいい。
安堵して自動ドアをくぐろうとした俺は、ドアの反射に移った背後の光景に目を見開いた。
** * * * * *
「それではまずは、湯灌ですね。まずお湯を用意していただきたいのですが――」
葬儀会社のスタッフの説明を聞きながら、私は母の顔を盗み見る。
祖父が死んだ。
突然の出来事だった。八十九歳と平均寿命からすればそんなところなのかもしれない。でも、ほんの一週間前まで元気だったのに。一緒に買い物に出かけて、もう子供じゃないのにたくさんお菓子を買ってくれようとする祖父を母は必死に止めていたっけ。
それなのに、どうしてこんな突然。
強張った母の表情に、余計なことを考えている場合じゃないと思いなおす。
「お母さん、私お湯作ってくるよ」
スタッフの男性から桶を受け取ると、言われた手順でお湯の温度を確認していく。準備を進める間にもスタッフからは説明が続いているようで、かすかに頷く母の後ろ姿が見えていた。
小さくため息をつく。
そんな元気な祖父だったのに、出先で事故に巻き込まれるなんて。
予想もしていなかった事態に、母も私も頭が追い付かなかった。祖母は数年前に他界しているので、ずっと祖父の面倒を見ていたのは実の娘である母だった。祖母に次いで祖父の介護もと大変な思いをずっとしてきたのだ。
それなのに――。
ループしかける思考に差し込まれた水の音に、私ははっとする。桶からは危うくお湯が溢れそうになっていた。また余計なことを考えてしまっていた。しっかりしろ、自分、と気合を入れなおして桶を抱える。あと三十分もすれば父も葬儀場に到着する予定だった。遠方での出張で、どうしても遅れると申し訳なさそうに言っていた電話口の声が耳に蘇る。それにかぶさるように聞こえるスタッフの声に、必死で意識を向けた。
** * * * * *
そこにあったのは、立派な祭壇だった。白と緑を基調とした花や植物で飾られた祭壇。その脇には篭盛が見える。
ここは葬儀場か。
ぞっとして、思わずあたりを見回した。まだ棺桶はない。ということは、まだ葬儀まで時間があるはずだ。一体誰の葬式に迷い込んじまったんだ、と仰ぎ見た祭壇に、見たことのある顔が映っていた。
見覚えのない写真だった。
じいちゃんの顔だ、と直感的に思った。
だが、だとしたらおかしい。祖父は自分がまだ学生の頃に死んだはず。もう葬式だってとっくに終わっているのだ。
これは夢なのか?混乱した頭のまま、その部屋を出ようとして、ふと壁の表示に気が付く。
『正木家』。
正木浩一というのが、俺の名前だ。つまり、これはやはりじいちゃんの葬式ということなのか?俺は酔いつぶれてタイムスリップでもしてしまったというのだろうか?
尽きない疑問を抱え立ち尽くしていると、ふと女性の話し声が近づいてくるのに気が付いた。なんだかよくわからないが、自分はここにいてはいけない人間なのではないかという不安に追い立てられるかのように、俺は祭壇の後ろ側に隠れた。
** * * * * *
スタッフの方の手を借りながら、なんとか祖父の身体を棺に納める。年を取ってから少しずつ痩せていた祖父は、それでも170cm越えという長身のせいなのかかなり重く感じられる。まだ歩けるほど元気だったのだから、そんなものなのだろうか。私も母も非力とはいえないものの、この時ばかりは父の男手がありがたかった。もっと常日頃から助けてくれたらよかった、なんていうのは後の祭りだ。
祖父の身体を納めた棺を、またみんなで台車の上に載せて運ぶ。がらんとした葬儀場がやけに寒く思えるのは、棺の中に入れられたドライアイスのせいなのだろうか。
「えー、それでは、受付にはお孫さんが立たれる形でしょうか?ご説明をさせていただきますので、どうぞこちらへ」
スタッフの方に促されて、会場の入り口付近に設えてある受付台に向かう。
「ごめんね、真奈美。お願いね」
「大丈夫。あ、それよりお母さん、あんまり棺の中に顔近づけないようにね。それから、控室に置いてある折り鶴は、私があとで持っていくから。お祖父ちゃんの傍にいてあげて」
なんだかまだすべてに現実感がないながらも、私の口からはすらすらと言葉が出てくる。祖母の葬儀の時にももう大学生だった。こんなことに慣れるなんてことは考えたくはないけれど、この期に及んでなんとなく覚えているんだなと感じてしまう。
その後も、穏やかに、かつ淡々とスタッフの方が説明するのを聞きながら、私の頭の中は祖父のことを思い返していた。
会場に置かれた遺影。半年前に行った家族旅行の時の写真から作ってもらったと母が言っていた。もうあの頃には珍しくなっていた笑顔。先ほどまで見ていた遺体の顔とうまく一致しなくて、私は眉を寄せた。
** * * * * *
とっさに祭壇の裏に隠れてしまったはいいが、ここからどうしようかと俺は途方に暮れていた。足音は4~5人程度と思われるが、もし万が一、赤の他人の葬式に迷い込んでしまっていたりとか、もしくは百万が一、過去にタイムスリップしていたなんてことになっていたら、絶対に見つかるわけにはいかない。先ほど、自動ドアの外が暗かったことを考えれば、今日は通夜なのだろう。葬式よりは時間は短いはずだが、どのくらいかかるものだろうか。
「えー、それでは、受付にはお孫さんが立たれる形でしょうか?ご説明をさせていただきますので、どうぞこちらへ」
説明口調なのはおそらくスタッフ。また無人になるようなら、その隙に逃げ出せないだろうか。
「ごめんね、真奈美。お願いね」
「大丈夫。あ、それよりお母さん、あんまり棺の中に顔近づけないようにね。それから、控室に置いてある折り鶴は、私があとで持っていくから。お祖父ちゃんの傍にいてあげて」
甘かった。流石に遺体を残して会場を無人にはしないだろう。何かに悪用されたらことである。これで数時間はここに足止めを喰らうことが確定してしまった。というか、バレないかが心配だ。
ちなみに、聞こえた声には聞き覚えはないし、真奈美という名前にも覚えはない。もしこの祭壇の向こう側にいるのがじいちゃんなのだとしたら、ここにいる可能性が高いのは一人息子である父・真一と母・奈江、そして俺のはずである。
一体何がどうなっているんだ?
なんとかして遺体の顔を一目見られないだろうかと思ったが、傍に人がいるなかではうかつにここから出られるわけもない。背中に冷たいものを感じながら、俺はただ手足を縮こまらせた。
** * * * * *
通夜は大盛況――というと言葉が悪いかもしれないが、多くの人が訪れていた。広くひんやりとした会場が、なんだかあたたかい空気に包まれている気がする。通夜という席なのに、いや、だからこそなのかもしれないが、人間の生気を感じるような、そんな気がした。
親戚、友人、元同僚、果てはケアマネまで顔を出してくれ、母とここ数年の思い出話に花を咲かせている。時々耳に飛び込んでくる懐かしい思い出に、思わず目頭が熱くなった。
訪れる人がいなくなるまでは長かったような、短かったような。まだどこか地に足がつかないような感覚と、身体を地面に引きずりおろそうとする疲労感を抱えて、控室でちゃぶ台に突っ伏した。
「俺が残るから、母さんは真奈美と一緒に帰ってくれな。明日は朝早いから、よく休んで」
自分も疲れているだろうに優しく言う父の声をぼんやり聞きながら、目の前に転がる折り鶴を眺める。
折り鶴は、故人の冥福を祈り、新たな旅立ちを導いてくれるようにとの願いが込められているらしい。ちょうど家にあった小さな折り紙は、祖父の手慰み用にと母が買ってきていたものだった。とはいえ、祖父の家にあった折り紙はほとんどが祖母作で、祖父は鶴を折るのがやっとだったことを、父と私はよく知っている。
帰る前に、もうあとひとつふたつ折っていこうか。重い体を引き上げ、受付から引き揚げてきた小さな遺影を折り鶴で囲ってみた。
** * * * * *
がた、という物音に、俺ははっと目を覚ました。俺はいったい何をしているんだ?いつのまにか寝てしまっていたらしい。こんなところでよくもまあ寝られたものだと思うが、一瞬遅れてまた困った事態になっていることに気が付く。
ガラガラという台車の音。
遠くに見える自動ドアの外はすっかり明るくなっている。
どうやら、逃げるタイミングは見事に逃してしまったらしい。なんでこんな窮屈なところで一晩眠りこけていたんだ、と自分のあほさ加減に頭を抱えるが、すべては後の祭りである。
こうなったら葬儀が終わるまで、なんとか隠れおおせるしかない。そう決意し、俺はさらに身体を小さく抱え込んだ。
穏やかな音楽が聞こえてくる。
「それでは皆様――」
葬儀場のスタッフだろうか、落ち着いた声が聞こえ始めた。大体の今の時間とか、終わりの時間とか、ここがどこだとか、何かヒントはないだろうかと耳を澄ませた。
その瞬間。
聞こえてきた音に、俺の脳はフリーズした。
** * * * *
「それでは皆様、本日は、故・正木浩一様の葬儀にご出席いただきまして、ありがとうございます。簡単ではありますが、本日の予定についてお話しさせていただきます」
小さな式場には、祖父の親戚や友人が今日も集まってくれていた。昨日もいたな、程度は思うものの、圧倒的に話したことのない人が多すぎて、まだ葬儀は始まってもいないのに疲れたような気分だ。
あの穏やかだったころの祖父なら、きっと全員にフレンドリーに話しかけて笑わせていたのだろうな、などと空想する。
祖父が変わってしまったのは、三年前の祖母の死がきっかけだったように思う。
脳梗塞だった。2か月入院したが、退院は叶わなかったのだ。一度も、祖父の顔すらみることなく、祖母は旅立ってしまった。突然の別れが受け入れられなかったのだろうか、祖母の葬儀では、いつも明るく朗らかな祖父が、何度も涙を流していたのをよく覚えている。
四十九も済んでしばらく経った頃から、「あれ?」と思う言動が増え始めた。
最初は物をなくすことが増えたな、と思った程度だった。数か月単位で、おかしいなと思うことが増え、気づいたら今日の日付が言えなくなっていた。
認知症だった。
祖母を亡くしたことで気分が落ち込んでいるのだろうかなどと放置していたせいで、気づいたときには日常生活がうまくいかないほどになっていた。
食事はとる。それが一日に一度だったかと思うと、次の日には五回も食べる。
睡眠はとる。一日中起きている日があるかと思えば丸々二日間眠りっぱなしになる。
何かのためにと二世帯住宅にしていたのが幸いだったというべきか、災いしたというべきか、祖父の介護生活が始まった。
身体的には健康だったのがせめてもの救いだろうか。調子のよい時には、元気だったころのように挨拶して、世間話をして、テレビを見て一緒に過ごすことだってできた。
ただ、ここ数か月は、ぼんやりしていたかと思うと、急に記憶が曖昧になり、自分がまだ二十代の若者かのように振舞ったりした。
そんな時、祖父は私たちのことばかりか、祖母のことも覚えていなかった。否、祖母と知り合う前に戻っていた、とでも言うべきかもしれない。そこにいたのは、祖母のことを話題にあげるたび、涙を目に浮かべ声を震わせる祖父ではなく、若く活気に溢れ、お酒が好きでたまに酔いつぶれるただの男だった。
そんな状態で、記憶の中とは違う家にいることが不安になったのかもしれない。記憶が曖昧になった時に徘徊が始まったのは、ほんの一か月前のことだった。気をつけなくちゃいけないね、と話していたのに。
誰にも気づかれず、ふらりと外に出て、交通事故で死んでしまうなんて。
事故に遭ったとき、祖父はちゃんと外出用の上着を着て、財布の入ったウエストポーチを身に着けて、なんと父の通勤用の革靴を履いていたらしい。何も知らない人が見れば、ちょっとそこまで飲みに出かけるのかなといういで立ちだ。
葬儀は終盤に差し掛かっている。葬儀場のスタッフが用意してくれた花を棺に入れていく。
綺麗にしてもらった祖父の顔は穏やかで、なんだかワクワクしているようにも見えた。
本当に、ちょっとそこまで飲みに行こうくらいの気持ちだったのかもしれない。若いころに、元気なころに戻ったような気持ちで。
ふと、私は自分が泣いていることに気が付いた。なんだか顔が冷たいな、と思ったのは涙だったのか。
悲しい気持ちとともに、どこか穏やかな気持ちが芽生える。
お疲れさま、と気づいたら口に出していた。
お祖父ちゃん、ちゃんとお祖母ちゃんのこと思い出して、逢いにいってあげてね。




