曖昧
彼女と僕のあいだには、埋めようとすれば崩れてしまうような静けさがあった。
それは愛のようでもあり、友情のようでもあり、しかし結局のところ、どちらでもない無色透明な関係だった。
男女の友情は成立しないと笑う声を、僕はこれまで幾度も耳にしてきた。そう言う人間ほど欲望に正直で、浅ましく見えた。だが、僕と彼女のあいだにあったものも、友情と呼ぶには脆く、恋と呼ぶには余りに冷たく、名を与えるにはあまりに曖昧だった。それでも、その名づけられぬものこそが、僕を彼女に縛りつけていた。
彼女は笑うとき、いつも一瞬唇を噛む。赤くなるほど強く噛むわけではない。ただ、ほんの刹那、下唇を軽く触れる。その癖を知っているのは、たぶん僕だけだろう。
本来なら、誰も知らぬ秘密を握っているというだけで誇らしく思えばよいのに、僕はむしろ胸がざわついた。彼女の無意識の仕草にまで立ち会ってしまったことで、彼女を所有したような気になり、そしてそんな自分の浅ましさに、ひどく失望するのだ。
喫茶店で向かい合う。窓際の席で彼女はアイスティーを、僕はコーヒーを頼んだ。彼女はグラスにストローを差し、氷をぐるぐる回す。その音がやけに耳に響いた。
「ねえ」
彼女が言う。
「もしさ、私が突然いなくなったらどうする?」
僕は笑った。つまらない冗談だと思った。けれど彼女が、どういった心情でこんな質問をしてきたのかは分からない。
「探すよ。きっと探す」
この答えは本心だ。恋ではない。ただ、彼女がいない世界を想像すると、胸の奥が空洞のように空っぽになる気がしたのだ。
僕らは互いに、恋人にはならないと分かっていた。
彼女のことを抱きしめたいと思ったことはない。彼女もまた、僕の手を取ろうとしたことはない。けれど、一緒にいると救われる瞬間があった。世界から弾き出された人間同士の、惨めな結束感だったのかもしれない。
ある日、彼女は泣いていた。理由は言わなかった。ただテーブルに顔を伏せ、声を殺して肩を震わせていた。僕は何もできなかった。背中に手を置くこともできず、ただ横に座って、自分の無力さを噛み締めた。
彼女が泣き止んだあと、目の下のメイクが少しだけ崩れていた。それを指で拭ってやりたいと思ったが、結局何もしなかった。
あのとき、僕がもし彼女の肩を抱いたなら、友情は壊れていただろうか。いや、彼女はきっとそんな関係を望まないだろう。
夜の公園で缶コーヒーを分け合ったことがある。ベンチに座り、白い息を吐きながら、彼女は「私たちって変だよね」と言った。
「どう変なの」
「ただの友達でもないし、恋人でもない。何なんだろうね」
僕は缶を握りしめた。缶の温かさだけが現実で、あとは全部夢のようだった。
「わからない。でも、このままでいいんじゃないかな」
その答えには、少し戸惑いがあった。
男女の友情は成立するか。そんな問いは愚かしい。僕らは成立させようと必死だった。成立させることが二人を繋ぎ止める唯一の方法だった。
彼女がいなければ、僕はずっと孤独だっただろう。彼女もまた、僕を必要としていたのかもしれない。だがそれは愛ではなく、もっと冷たく乾いたものだった。
春が来た。彼女は遠くへ引っ越すことになった。別れの日、駅のホームで彼女は言った。
「ありがとう。本当にありがとう」
僕は何も言えなかった。ただうなずいた。かける言葉を探せば探すほど、これまでの友情が嘘くさくなりそうだった。
電車が来た。彼女は乗り込み、振り返った。僕は笑顔を作った。彼女も笑った。やはり唇を噛んでいた。
電車が動き出し、彼女の姿が小さくなっていく。僕はその背中を見送りながら思った。
友情は、美徳ではない。愛の代用品でもない。ただ、二人が互いに沈まないための浮き輪にすぎなかった。
僕はまだ、その浮き輪の感触を、手のひらに覚えている。