Op.4 もっと、きみを知りたい
「……!ありがとう、すごく嬉しい……僕は、多嶋祐人。きみの名前を聞いてもいい?」
祐人、と名乗った青年は優しく微笑み、夏希に尋ねた。
「あっ、はい……萱野、夏希です」
「夏希ちゃん、はじめまして。もしかしてこの曲、好きなの?」
夏希ちゃん。
同じ年頃の男子にそう呼ばれたのは幼稚園の時以来かもしれない。しかもこんな、きれいな人に名前を呼ばれるなんて――
夏希は少しどきどきしながら、祐人の質問に答えた。
「はい、私ピアノ弾いてて……昔、弾いたことあったから……」
「そうなんだ。なんだか嬉しいな。夏希ちゃんの制服、もしかしてあそこの学校?」
祐人が指を差した先には、夏希が通っている聖和女子学園があった――現実の校舎そのままの造りに、夏希はすこし驚く。
「そうです!わぁ〜、夢の中とは思えない……」
夏希は祐人の質問に答えると、本物そっくりの校舎を眺めながら小さなため息をついた。
「でも私、最近うまく弾けなくて。多嶋さんみたいな演奏なら、先生も褒めてくれるんだろうなって思って、聴いてました」
夏希の堅苦しい話し方に、祐人は思わず笑みをこぼした。
「ふふ、"多嶋さん"って。僕たち、きっと歳が近いから敬語なんて使わなくていいのに。夏希ちゃんさえよければ"祐人"って呼んで欲しいな」
この名前、すごく気に入ってるんだ、と言うと祐人は夜空に浮かぶ大きな満月を眺めた。
「僕の演奏が先生に褒められるかどうかは、分からないけど……。この曲は、僕にとってすごく大切なんだ。小さい時、お母さんがよくピアノで弾いてくれた」
「祐人くん……のお母さんも、音楽が好きなんですね……あっ、好きなん、だね」
「あ、名前呼んでくれた。嬉しいな。……僕のお母さん、すごく音楽が好きなひとだった」
「だった?」
「うん。去年、病気で亡くなったんだ」
「……ごめんなさい。そんなこと言わせちゃって」
夏希は、なんだか踏み込んではいけないラインを越えてしまったような気がして反射的に祐人に謝った。
「ううん、謝らないで。僕にとってこの曲は、悲しいだけの曲じゃないんだ。お母さんとの思い出が全部詰まった、宝箱みたいな曲だから」
むしろ、こっちこそごめんね?と眉を下げて苦笑いしながら、祐人は手を合わせて夏希に謝る。
「どうして、祐人くんが謝るの。もし嫌じゃなかったら……もっと聞きたいの。宝箱の、中身」
目の前にいる、会ったばかりのこの人の事をもっと知りたい。それは、母をなくした青年への同情などではなく、あんなに美しい音色を出すこの人がどんな人生を歩んできたのか知りたい――
夏希の心はただ純粋に、そんな気持ちでいっぱいだった。
夏希の言葉を聞いて、祐人は少し驚きながらも安心した表情で話し始めた。
「もちろん。それになんだか夏希ちゃんとは、仲良くなれそうな気がする。なんでだろうね?僕たちさっき会ったばかりなのに」
「ね、不思議」
夏希はそれから、祐人の話をたくさん聞いた。
祐人は夏希の1つ年上で、生まれてすぐ交通事故で父親を亡くし母親と2人で生きてきたこと。
そして、昨年母親が病気で亡くなってからは身寄りもなく、児童養護施設で暮らしていること。
中学校に入学した時、サックスに一目惚れして吹奏楽部に入ったこと。そして今、母が買ってくれたこのサックスだけが唯一の家族だということ。
自分が知らない世界を生きてきた人が、隣にいる――
夏希は、祐人がただ自分の夢の中に出てきただけの実在しない人だと分かっていても、彼のこれまでの話を聞いて涙が溢れて止まらなかった。
「ごめん。勝手に感情移入して泣くなんて、祐人くんに対して失礼だって、わかってる」
「そんなことない。僕のこと、知ろうとしてくれてるってだけで嬉しい。ありがとう」
どれだけの時間、話をしたのだろう。
気がつくと、星々が瞬いていた夜空はだんだんと明るくなり、オレンジ色の朝焼けが2人を照らした。
「朝になるね。夏希ちゃん、そろそろ起きないと」
「祐人くん、また……会えるよね?」
「もちろんだよ。また、ここで絶対会おう。次は夏希ちゃんの話を聞かせて」
「うん、約束だよ」
「うん、約束。じゃあね、夏希ちゃん」
そう言って手を振る祐人に、夏希も手を振り返した、次の瞬間――
夏希の視界が突然真っ白になり、あまりに眩しくて目を瞑った。