Op.0 掴めない夢
梅雨が明け、本格的な夏の始まりを告げる虫たちの合唱が鳴り響く、七月下旬のとある金曜の午後。
じっとりと蒸し暑い外の気温とは打って変わって、学校の大切な設備であるピアノのコンディションを守るために最適な室温に調整されたレッスン室では、夏休み前最後となった専攻実技の授業が行われている。
「萱野さん、さっきも言ったわよね?ここはもっと流れるように。そして感情を込めて」
「はいっ」
東京の郊外にある、聖和女子学園。
音楽科の1年生でピアノ専攻の萱野夏希は、この高校に入学してからというもの、まだ一度もその演奏を先生に褒められたことがなかった。
ドビュッシーのピアノ独奏曲、「Rêverie」。
日本語で「夢」、「夢想」とも呼ばれるこの曲の開始部は、ゆったりとしたテンポで始まる。
曲中に使われる分散和音と呼ばれるその不思議なハーモニーはまさに、「夢」という実体のないものを的確に「現実」へ落とし込んだ名曲だ。
「夢に感情こめろって何……?いろんな夢があるじゃんかぁ」
授業終了のチャイムが鳴り、今日もまた褒められずに終わった夏希は、楽譜を見ながら1人になったレッスン室でぼそっと呟いた。
何回弾いてみても、この曲を掴みきることができない。今までどれだけ練習と改善を重ねても、先生が納得してくれることはなかった。
教室に戻ろうと楽譜を片付けていると、夏希と同じ音楽科クラスでトランペット専攻の遠野葵が部屋に入ってきた。
「よっ、おつかれ夏希。今日こそお褒めのお言葉いただけましたかな?」
「あー……。それは二学期に持ち越しということで」
夏希は、グランドピアノにぴったりくっついてニヤニヤこちらを見つめる葵から目線を逸らし、ため息混じりにそう答えた。
「おやおや、煮詰まってますねぇ、夏希さん。……でも夏希、ピアノマジで上手いのに。何でなんだろーね?」
「私が聞きたいよぉ……」
夏希はそう言うと、レッスン室の壁におでこをつけて、大きなため息をついてもたれかかった。
「まーまー元気だして!あ、そうだ。明日休みだしさ、今日一緒に帰ろーよ!5の付く日だからイオンで銀だこ食おーぜっ」
「ふふ、何そのドヤ顔」
あたしの奢り!と腰に手を当ててドヤ顔で誘ってきた葵の優しさで少し笑顔が戻った夏希は、銀だこにつられて葵と一緒に帰ることにした。
――この時の夏希は、まだ知らなかった。
夢と現実が交差する、不思議な夏休みが始まる事を。