002
「ごめんください。倉狩さんという方がいらっしゃるのは、こちらのお部屋でしょうか」
部屋に入ってきたのは、眼鏡をかけた三つ編みの、非常に大人しそうな女子だった。
身長は低く、恐らく百四十センチ後半といったところか。勇気の意思表明か、それとも緊張の無意識かは分からないが、胸の前で手をギュッと握っている。スカーフの色を見るに同じ一年生だが、なんだか過剰に庇護欲を擽られる風体は、瞳がやや赤みがかっているせいもあり、耳の垂れた愛らしいウサギのようで、とてもかわいらしい子だった。
しかし、名前は分からない。一万人も生徒がいるのだから、そこのところは許して欲しい。
「僕が倉狩です、初めまして」
やや長く伸ばした黒髪を緩く流して耳にかけ、垂れ目にキリッとした眉の彫りの深い顔と、お客様用の猫被りな優しい声を知って、彼女が少しばかり顔を赤く染めたように見えた。
影郎君の造形は、憎たらしいがカッコいい。身長もそれなりに高いし、知的で妖しい雰囲気も相まって、『分かるよ、好きな人は多いだろうね』という様である。
要するに、彼女の反応は女子的には普通であるということだった。
「こちらへどうぞ、今お茶を淹れますから。こら、伊織君。くつろいでないで、カップを運ぶくらいのことはしたらどうだい?」
自分の時とあまりにも違う態度に、月乃先輩は呆然としている。
しかし、今度は有名人の月乃先輩を見て驚いた依頼者から逆に気付けを貰ったのか、例の恐ろしい美人顔でキッと影郎君を睨みつけて、渋々お客さん用のカップを机の端に置いた。
「お名前は?」
「ひ、柊鈴音です」
「では、柊さん。依頼をお願いします。我々支援委員は、生徒たちのどんな些細な依頼でも全力で解決しますよ」
またしても、あんぐりと口を開ける月乃さん。私は、彼女の不憫な仕草が愛おし過ぎて、思わず頭を撫でてしまっていた。
「……信じてもらえないかもしれませんけど、私、先週からストーカーされてるんです」
「ほう」
「私、見た目がこんなに地味でかわいいってわけでもないので、全然信憑性がないと思うんですけど。勘違いだって、自分でも何回も疑ってみたんですけど。どうやら、本当にストーカーされてるみたいなんです。それが、その、怖くて――」
「詳しく聞きましょう。どうぞ、座ってください」
私は、彼女が影郎君と向かい合うように、折りたたんでいたパイプ椅子を影郎君の前に設置する。
そこに、ちょこんと座って部屋の中を忙しなく見ていた彼女だったが、影郎君が机の端に差し出されたお茶を言葉だけでお勧めすると、不思議そうな顔をしてから中を覗き、一口飲んだ後に息を吹きかけて冷ましていた。
「私だったら、そんな卑劣な男は確実にぶん殴っているものね。合気道二段なの、ヤワな奴には負けないわ」
「私の知る限り、合気道に打撃技は無かったと思いますけど」
ヒソヒソと話す私たちに、影郎君が呆れたような、見下げ果てたような視線を飛ばした。月乃さんも感じたのだろう。彼の人を見下す視線は、本当に心を傷付けられる。
「落ち着いてください。今、確認してきましょう」
影郎君は、席から立ち上がるとガラッと扉を開けてから周囲を確認した。どうやら、音をよく聞いているらしい。しかし、希望した結果が得られなかったのか、今度は反対側の窓にてブラインド越しに下の景色を展望した。
怪しい人影は、見当たらなかったみたいだ。
「今日のところは、犯人もお休みなのでしょうか」
「そ、そんなハズありませんよ。だって、ここに来るまでだって追われていたんですから。この部室棟に入る時だって見られていたんです」
「姿を見ましたか?」
「いいえ、いつも影だけですけれど……。でも、間違いなく見られているんです! 視線を感じるんです! 本当です! 信じてください!」
影郎君は、口を噤んで顎に手をやり考え始めた。この静寂は居心地が悪い。そんなことを思ったからか、月乃さんが静々と口を開く。
「ここへ来る前に、誰かへ相談したのかしら?」
「はい。でも、信じてもらえなくて。私の自意識過剰だって、しまいにはからかわれてしまって、どうすればいいのか分からなくて……っ」
「相談した相手は誰かしら」
「えっと、いつも一緒にいる友達です。四人です」
「友達から、そんな酷いことを――」
「もういい。伊織君、キミは少し黙っていてくれ。クライアントの不安を煽るのは、支援委員のやり方ではない。キミは今、学ぶ時だ」
犯人をぶん殴ってやろうとするくらいに強い月乃さんの言葉は、確かに一般人には刺激的だ。それは認めざるを得ず、そして、彼女の正論は柊さんへのトドメになりかねなかった。
「ご、ごめんなさいね。柊さん」
「い、いえ。気にしないでください」
しかし、彼女は前回の影郎君の言葉で反省しているのだろう。色々と言いかけてから柊さんの顔を見ると、不安を紛らわせるためと言わんばかりに、表の女王スマイルを浮かべて静かに私の隣へ座った。
「では、柊さん。もう一度、ここまでやって来た道筋を歩いてみましょう。ひょっとすると、何か分かるかもしれません」
柊さんを誘うと、影郎君は私に部室の鍵をかけるよう指示する。
しかし、深くため息をついて足を組み、机に頬杖をついた月乃さんがいたから、私は影郎君を追いかけることが出来なかった。
徐ろに、月乃さんが愚痴を呟く。
「倉狩君のことを調べてみると、彼、意外と女子人気が高いみたいなのよね。……まったく! あんな男のどこがいいのかしら! ただ、うっとりする程度の美男子ってだけじゃない! 甘い見てくれに騙されているんだわ!?」
どうやら、月乃さんにとっても嫌いではないタイプらしい。
「しかし、褒めてるようにしか聞こえませんよ」
「気に食わないことには変わらないわ!? どうせなら、顔面も性格と同じくらい最悪になってなさいって思うでしょう!?」
それは、まぁ、月乃さんの場合も同じなんじゃないのかしら。美しさで言えば類を見ないレベルであるし。ファンの男子たち、絶対にあなたの本性を知らないだろうし。
「まぁ、支援委員の仕組み上、恋愛絡みの相談も多いですから。男子って、ほら、月乃さんに告白する人が多いように、結構当たって砕けろで自分で解決する人が多いですし。しかも彼、依頼者にはご覧の通り死ぬほど猫被ってますから。つい気を許してしまう女子がいても不思議ではありません」
「まさか、希子ちゃん!? あなたまで倉狩君を好きだなんて言い出すんじゃないでしょうね!?」
「言い出しますよ。あれで結構、優しいところもあるんです。月乃さんは、出会い方がマズかったので気の毒ですけれど、きっと、長く付き合っていけばあなたにだって気に入る部分も出てくるハズです」
「……え? その好きって恋愛的な意味じゃないわよね?」
「そんなわけないです。私たち、家族ですもの」
「あ、あぁ、そう。なるほど。そうでした、当たり前よね。私としたことが、失礼なことを言ってしまったわ。今の発言は取り消すわね」
「いいえ、構いません。影郎君は、周囲の悪評を否定し切れない程度にはエキセントリックな男ですから」
その代わり、三日と退屈しない。というようなことは、敢えて言わないことにした。それが、私ではない人にとっていい事だとは限らないからだった。
「そうよね!? その通りよね! あの男は女の敵よね!? ほんっと! あなたっていい子だわ! ひと目見たときから、この子は分かってくれるんじゃないかって思ってた!」
かわいい人だ。
「でも、そっか。気に入る部分もあるはず、ね。いい言葉だわ。覚えておく」
「先輩は、白と黒をきっちり分けたがりますもんね。こういう曖昧な考え方、嫌いかもしれませんけど」
「曖昧なところを残すのが苦手なだけで、嫌いじゃないわ。だから、希子ちゃんのような考え方には感心する。とても優しいと思う」
「月乃さんのようにカッコよくなれないだけです。そんな、褒めてもらうようなことではありません」
「言葉にして説明出来るほど考えた答えなのだから、それは紛れもない長所よ。素敵」
また一つ、影郎君と月乃さんに共通点を見つけた。
彼らは、自分がいいと思ったものは、誰が何と言おうと全力で肯定し守りたがるみたいだ。
私と月乃さんは、早足で先に出て行った二人を追いかけた。