001
――もしも私が危ない目にあったら、その時は助けに来てね。
× × ×
私が、高校入学から今日まで目の当たりにしてきた影郎君の奇怪な活躍を記録し始めて、既に二ヶ月超が経過していた。
何故こんなことをするのかと言えば、本にして売ってしまおうと考えているからである。
しかし、影郎君は私のこの活動に否定的だ。彼は、演説癖のあるくせに、こと名声や富などには一切の興味がなく、嫌悪している節すらある。その小説だって、「せめて余計なことは書くな」と念を押された代物なのだ。
そんなわけで、影郎君の心情を測るのは、すべてこの日向希子の素晴らしく空気の読める女っぷりと、長い経験則から読む妹的直感にかかっているのである。
まったく、困った幼馴染だ。
この際、大人になって周囲からの評判の大切さをかみしめ、心の底から私に感謝して咽び泣くまで恩を売りつけてやることにしよう。必ず訪れる未来が、私は楽しみで仕方なかった。
「おつかれ、影郎君」
「うん、おつかれ」
季節は梅雨。この日も、あいにくの雨模様だった。
放課後となり、室へ入ると、影郎君はポットで沸かした湯を使い紅茶を淹れていた。淡く爽やかで高貴な香りは、この古い部室棟の最奥の空間には似合わない。
釣鐘高校は、一万人もの生徒を抱えるため校舎のサイズも尋常ではない。鳥瞰すると、最も巨大で設備の古い旧教室棟。一年一組と特別教室、そして特進クラスがあるセキュリティの整った新教室棟。更に、最も小さい部室棟が『川』の字のように立ち並び、続いて、木造の旧校舎を改修した教員棟、三つの体育館、五つのグラウンドが設置されている。残りの土地には、屋内と屋外のプールが一つずつ。各競技部の競技場。校門には守衛室が置かれているのだ。
流石、昭和初期より、横浜中に住まう酔狂な金持ちたちの寄付金によって成り立つ学校だ。設備レベルが尋常ではない。
青葉台駅からバスで二十分という悪い立地にも関わらず、全国の都道府県から通う生徒も多い。その理由は、設備もさることながら、釣鐘高校が実践している生徒たちの自立を促すための、"高校生の国"とも呼べるユニークなシステムに由来している。
そして、この支援委員は釣鐘高校の中核を担う生徒会の暗部とも呼べる部署だ。私は、この縁の下の力持ちという立ち位置が何気に気に入っているのだった。
「こんにちは、お二人さん」
紅茶が差し出されると同時に、部屋の扉がガラリと開かれた。そこに立っていたのは、先日はストレートに流していた長髪をルーズサイドテールに結んだ月乃さんであった。
「こんにちは、月乃さん」
「ふふ、今日もかわいいわね。希子ちゃん。愛らしいわぁ」
「……ありがとうございます」
社交辞令と分かっていても、つい鏡を見てしまう。
一応、見た目に気を使ってはいるものの、特に語ることのない、どこにでも居そうな普通の女子というのが、私が思う日向希子の造形だ。気の強さが勝っているせいか、それとも髪色のせいか、反抗的な態度に捉えられることの多いこの顔の、一体どこを見て月乃さんは褒めてくれたのだろう。
恥ずかしくなって、私はボブカットに切り揃えているレッドブラウンの髪の端を人差し指でクルクルと巻いた。
「ところで、おいしそうな紅茶ね。私にも一つ、淹れてくださる?」
「長居するのかい」
「するわよ。私、支援委員のメンバーになったんだから、放課後は必ず来てあげるの。嬉しいでしょう?」
カチャリ。
スチールキャビネットからカップを取り出そうとした影郎君の手が止まった。
「委員会のメンバー選出は希望係の長による推薦、もしくは統一試験及び定期考査の結果に由来する立候補制だろう。僕の了承を得ず、何もない中途半端なこの時期に、どういう経緯でそうなったんだ」
「副会長の話を聞いてあげたらお願いされたのよ。私、人気者だから。それに、生徒会長の話では支援委員が万年人手不足だって言ってたわ。そこで、仕方なく! 私がサポートしてあげる事になったって話ね。あぁ、大変だわ」
自分で頼んだわけではないというのが、実に月乃さんらしいと思った。因みに、私も幾つかの条件を並べて強引に影郎君の推薦枠をぶん取ったから、正規ルートでの参加はしていないという意味では同じだ。
「席が空いているだけだ、人手は足りている」
「足りてないわよ。それに、ほら。希子ちゃんを見てご覧なさい。こんなにかわいい女子をあなたみたいな人非人の側に置いておいたら、誰だって心配するに決まっているじゃない」
「ありがたいお言葉ですが、恐らく杞憂だと思います」
「本当に? 脅されてない?」
「バカも休み休み言いたまえよ、伊織君。僕は、自分がヒトデナシであることを自覚しながらも、日向家に居候させてもらっている身だ。今さら、僕らの間に気を置く状況など存在しない」
「……え? なにそれ? あなたたち、同棲してるの?」
私は、私と影郎君の関係を掻い摘んで月乃さんに説明した。
「ふぅん、なるほど。ただ者じゃないとは思ってたけど、やっぱり色々あったのね。情報を更新しておかないと」
影郎君は、自分の話にも関わらず、まるで他人事のようにそっぽを向いてじっくりとヨルダンの観光ブックを眺めていた。
あれって、トルコの下の方にある国だったっけ。いつからか始まった、彼の視覚的世界旅行も、随分と遠くまで行ったものだ。
……というか、月乃先輩の手帳、凄い数の文字が書いてある。一体、数日でどれだけ影郎君のことを調べたんだろうか。
「まぁ、いいわ。そういう事情なら、私がここに入った本当の理由を話してあげる。手に入った情報からの推察だけれど、精度には自信があるわ」
「お願いします」
「私がここにスカウトされた理由はね、倉狩君。あなたの活躍を生徒会本部が危険視しているからでしょう。
はっきり言って、倉狩君の能力は突出し過ぎているもの。やり過ぎよ。出過ぎた釘を叩こうと奮起する生徒会も、まさか浮かび上がった釘に刺されるだなんて驚いたでしょうね。かくいう私も、少なからず自分を見直す機会を叩きつけられたわけだし、信じざるを得なかったわ。
けれど、だからこそ、支援委員は存在をなるべく隠されているし、情報が広がらないように工作されている。むしろ、生徒会はあなたを支援委員会という檻に閉じ込めて、あなたの在学中、釣鐘高校のシステムを破壊されないよう努力しているの。
そして、今回生徒会本部が打った作戦が、私という第三勢力の権力者を側に置いて監視するということなのよ。本当は生徒会本部の人間が望ましいのでしょうけれど、彼ら、何故か倉狩君と対面することを恐れているから仕方ないわ」
「勢力ってなんですか?」
「ふふん。私のファンクラブ、会員が何人いるかご存じ?」
私にドヤ顔を向けて、大きな胸を揺らす。女王気質を隠さずに話す月乃さんは、前から見ていた、誰からも憧れられる完璧な姿よりも随分と楽しそうだった。
「まぁ、ざっとこんなところね。そういうわけだから、改めてよろしく」
「はい、よろしくお願いします」
「倉狩君も、ほら。握手くらいしなさいな」
「僕とはいがみ合っていなくていいのかい?」
「大嫌いよ、不倶戴天の宿敵と言っても過言ではないわ。でも、希子ちゃんと仲良くしようと思ったら、あなたとガミガミ言い合うのは得策じゃないでしょう?」
「あの、なんで私、そんなに気に入られてるんですか?」
私は月乃さんに無視され、月乃さんは影郎君に無視をされた。しかし、彼は改心した月乃さんを忌み嫌っているわけではなさそうだから、それなりに歓迎はしているらしい。
握手の代わりに、お客さん用の純白のカップではなく、私たちと同じ模様のカップに紅茶を淹れて差し出す。きっと、支援委員はこの学校の縁の下の力持ちだからだろう。女王だった彼女が、人を助けるために働くという信念に、少なからず共感してくれたのだと影郎君は考えたに違いない。
月乃さんは、綺麗な所作で口元へ運び、目を見開いて「おいしい」と呟いた。
「ところで、どうしてあなたみたいな、如何にも人嫌いそうな皮肉屋が人助けなんてしているのかしら」
「勘違いしないで欲しい。僕は人間が好きだよ。特に、キミのような実に人間らしい側面を持つ者がね」
「それ、どういう意味かしら」
「興味がある。なぜ、自己顕示欲を満たさなければ満足しないのか。或いは、必要以上に自分を卑下する理由はなんなのか。歪な人格の生まれた日、一体、その人に何が起こったのか。こんなふうにね」
しまった。
そんなふうに、月乃さんが口を噤んだのが分かった。
「寡聞な身を自覚してはいるが、僕にも得意なことがある。孤独な人の裏側を、色んなファクターから解き明かしていくことだ。大抵の場合、時間をかけると相手から話してくれるけどね。中には、とても強情で頑固で、どうにもならないくらい追い詰められないと口を開かない、そんな不器用な人もいる。キミも、まさにそのタイプだろう」
まぁ、欲しいものは素直に欲しがる私には分からない話だ。
「不思議だ。最後には分かってもらいたがるのに、自分が寂しいことを、本人が一番分かっているハズなのに。それでも、臨界点を越えるまで拒絶するというのは、理屈や性格を越えた理由があるとしか思えない。そういう人間らしさに僕は惚れている。だから、僕は人を助けたいんだよ」
「あ、甘く見ないでよ! 私はそんなに簡単に話したりしないんだからね!? あなたに弱味を握られるなんてまっぴらよ!!」
「弱味を握る? 何を言っている。僕が支援して、本人が自分で解決する。そうすれば、キミの言うところの弱味は綺麗サッパリ無くなるだろう。現に、この前の伊織君もそうした」
証拠を突き付けられて、昨日とは違う、優しい解き絆され方を証明されて、月乃さんは誤魔化すように紅茶を飲んだ。
これ以上は、言い合いにならないと悟ったのだろう。影郎君も、静かにヨルダンのガイドを手に取り、パラパラと捲って街並みを眺めた。
「……ま、まぁ、今回はこれくらいにしてあげるわね。感謝しなさいな」
「心遣い、痛み入るよ」
切れ長の涙目というのは、悲壮感がより引き立てられるものだと私は知った。
しかし、この下手な照れ隠しが分からない月乃さんも、一週間も共に過ごせば理解するだろう。彼は、自分の行動を必要以上に感謝されることが大嫌いだから、前回のことで、間違っても恩を売るような真似だけはしたくなかったという思いも半分くらい含まれているのだ。
もちろん、もう半分は天才への嗜虐趣味なのだけれど。
「ところで、あなたたちは普段、どんな活動をしているの? こんなふうにお茶を飲みながらお客さんを待って、そこで頭を使うのかしら?」
「いいえ、基本的には会計委員と同じです。回ってきた書類をやっつけて、生徒会の機能が円滑に回るのをサポートしています。この学校は学費以外の資金が大きいので、必然仕事も多くなりがちなんです」
「ということは、そう頻繁に依頼を持ち込む生徒は現れないわけね」
「そうでもないですよ。お弁当の味見をして欲しいとか、話し相手になって欲しいとか、そんな依頼もありますから。こんな場所ですけど、意外と暇ではないんです。月乃さんの言うところの、知恵を絞る依頼は少ないですけどね」
「なるほど。だから、お客さん用のカップがあるのね。それにしても素敵なデザインだわ。希子ちゃんが選んだの?」
「いいえ、影郎君です。本棚と左のスチールキャビネットにある物は、ほとんど彼の私物ですよ」
「……なんだか、釈然としないわね」
センスに負けた気がしたのか、げんなりした様子でいじけ上目遣いにジトっと見つめる月乃さんと、一瞥するだけで相手にもしない影郎君。
そんな二人をボンヤリと眺めていると、今日もまた、依頼を持ち込む生徒が扉を叩く音が部屋に響いた。




