Intermission 影郎と月乃
生徒会長選挙期間中、午後の支援室にて。
「おや、伊織君。珍しいね、キミ一人だなんて」
「こんにちは、倉狩君。さっきまで、希子と由亜もいたのよ。でも、二人とも用事があるって帰ってしまったの。私は、どうせ家に帰っても一人だから、こうして学校に残ったってわけね。ここなら、演説も聞けるし時間を潰せるもの」
「それで、観光ブック鑑賞か。どうだい? エジプトの街並みは」
「悪くない写真だけれど、実物はもっと迫力があるわ。私、ギザの大ピラミッドを見たことがあるもの。壮観だったわよ」
「……待て、伊織君。その先は聞きたくない」
「あら、どうして?」
「どうしても、だ。ほら、チョコレートをあげるから黙っていてくれ。おいしいよ」
「……もぐ」
「それでは、僕にはこの部屋でやる事があるから帰りたまえ。家にいるのと同じなら、家に帰ったって構わないだろう?」
「何よ、その言い方。大体、選挙活動中に何をやることがあるの? まさか、また私に黙って面白そうなことをしてるんじゃないでしょうね!?」
「いいや、やるのは小学生用のテキストの作成だ。パソコンは、ここにあるからね。
近所の家庭に頼まれたんだよ。しかし、このエクセルというソフトは難しい。僕は、自分のパソコンの扱いが下の下であることを自覚しているが、それにしても難易度が高い。つまり、君の前で右往左往して、恥を晒すのを避けたいということさ」
「なんだ、そんなこと。けれど、残念だったわね。あなたは、テキストを作りながら私の暇潰しの相手を務めるのよ。もっと辿々しい指使いになること請け合いだわ!」
「ならば、仕方ない。屈辱を味わうこととしよう」
「……」
「……」
「家庭教師でもやっているの?」
「その通り。僕は体力に自信が無いから、短期的なアルバイトをしようと思うと他に選択肢が見つからなくてね、夏休み中はその手の仕事で予定がいっぱいなのさ。今のうちに準備しておかなければね」
「ふぅん、相変わらず尽くし屋なのね」
「……」
「ねぇ、倉狩君」
「なんだい?」
「笹原先輩のこと、好きだったの?」
「なぜ、そんなことを?」
「丈が言いかけた言葉から推察したの。素直なあの子が言い淀んだのよ。気になるじゃない」
「下世話だね」
「……それに、『大切な人を揉め事から離しておきたい』というあなたの言葉。なぜか、とても気になったから」
「……」
「……」
「ククッ。素晴らしいね、伊織君。恐らく、君の推察通りだろう。あの時、丈は僕にそれを訊こうとしたに違いない。
ただ……ふぅ。せっかく丈が気を利かせて黙ってくれたのに、改めて聞き直すだなんて。キミは実に男心の分からない女だな」
「しょうがないでしょう? 交際経験が無いのだから、いい女になりようがないわ。それに、私の周りにいるのは、私のことを察してくれる人だけなのよ。それはそれで寂しいものだけれどね」
「興味ないね」
「そ、そう。おほん。それで、答えは?」
「きっと、好きだったよ」
「……」
「……」
「……じゃあ、何? あなたは、恋愛感情を抱いていたかもしれない人の偽物のカレシになって、その人の逆らえない人の前であんな寸劇を繰り広げたとでも言うの? 別の男と結ばせるために?」
「僕に恋愛は出来ないという点に目を瞑れば、そういことになるね」
「……っ! あ、あなたの気持ちはどこにあるの!?」
「そんなものはどこにもないが――。強いて言えば、これかな」
「観光ブック?」
「僕はね、伊織君。いつか刑期を全うしたら、世界中を旅してみたいんだ。これはその予行練習だよ。それだけが、僕が望むこの世界で唯一の僕のためのことであり、生きる希望であり、誰かに尽くす理由なのさ」
「……刑期は、いつ終わるの?」
「希子が許してくれるまでだ」
「希子は、あなたを恨んでなんていないわ! そんなの、見てれば分かるわよ!」
「しかし、あの子は僕のせいで心を失っている。僕の本当の罪は、少年院に入ったことではない。彼女が普通でないことは、キミだって知っているだろう。あれは、僕のせいだ」
「……」
「……」
「また、理由を話してはくれないのでしょうね」
「あぁ、時間が無いからね」
「……」
「……」
「……ねぇ、倉狩君」
「なんだい?」
「なぜ、私のことだけ君付けで呼ぶの? 他にも、そう呼んでいる人がいるの?」
「一つ目は、答えかねる。二つ目は、いない」
「答えかねる? 珍しいわね、倉狩君が答えを言わないだなんて」
「僕にも理由が分からないことはある。その一つが、キミの呼称だ」
「……ふふっ。また、適当なことを言って誤魔化しているんでしょう。お生憎様。私には通用しないわよ」
「そうは言っても、分からないものは分からないんだ。僕が出来るのは、学校の勉強だけさ」
「それ、どういう意味?」
「例えば、キミはリーマン予想を知っているかな?」
「えぇ。ゼータ関数が〇になる時、その引数の実部は必ず二分の一になる、と言われているあれでしょう? 証明されれば素数暗号が滅びる、けれど現代まで解かれていない永遠の謎。だったかしら」
「らしいね。しかし、僕はそういった専門的な知識を持っていない。踏み込む気すらない。僕は、今キミが言ったことを半分も理解出来ていないんだよ。
つまり、僕の頭脳の中に収まっているのは、学校から出題される問いと、その解き方だけだ。僕が凡才たる所以はそこにある。誰にでも出来ることをやっているだけ。違うのは、ただやり遂げようという執念一つなのさ」
「……にわかには信じられないわね。それに、その話と私の質問がどう繋がるのよ」
「寡聞な僕の知識では、僕の気持ちに説明がつかないと言っているのさ。希子への感情とも、由亜への感情とも違う、何か別の想いがキミにはある。すべて、正体不明なのだよ。
ククッ。ただし、丈だけは特別かな。彼には友情を感じている。これは、僕の知ってる好意と愛情の名前だ。分かりやすくて、とてもいいよ」
「ふふっ。偏屈ね、倉狩君。分かりやすく、『好き』と『嫌い』だけ考えていればいいのに」
「それが僕の悪いところなのだろうね」
「ところで、私からの感情に興味はないの?」
「僕のことは大嫌いで、しかも不俱戴天の宿敵なのだろう?」
「……一つだけ、教えておいてあげるわ」
「聞くよ」
「感情はね、移ろいでいくものよ。例え、最初にそう思っていたとしても、形が変わることは珍しくない」
「分かっているよ」
「分かっていない!! だから、あなたは獅子王先輩へのやり方を一つだと思い込んだ!! 今の彼の感情なら、もっと平和に済んだかもしれない!! そんなやり方をしていたら、希子だって悲しむに決まってる!!」
「……」
「……」
「……一考しておくよ、伊織君」
「……え、えぇ。そうしてちょうだい。きっと、あなたの為にもなるから。それと……大きな声を出して、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」
「大丈夫、信じてるさ」
「……」
「……」
「ねぇ、倉狩君」
「なんだい?」
「チェス、やりましょう。今日こそ、私はあなたを打ち倒して魅せるわ」
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