012
大先生の館を出てしばらく歩くと、港の見える丘公園へ辿り着いた。誰が言い出すわけでもなく、私たちはベンチに屯すると、由亜さんが徐ろに口を開く。
「ま、まだ、生きた心地がしていないんだけど。獅子王先輩。なんなの、大先生って」
「誰が呼び始めたのかは知らん。しかし、歴代の会長がみんなそう呼んでいるのだ。名前は、誰にも分からない」
「マジで、緊張で反吐が出るところだった。あのジジイ、イカれすぎだ。影郎さんも全っ然折れねぇし。クソ、興味本位で見に来るもんじゃなかった」
「……こうなる可能性を孕んでいるから、あなたが出かける時はいつも希子を指名していたの? 倉狩君」
「そうとも言える」
私は、そこの自販機で買ってきた飲み物をみんなに一本ずつ渡すと、獅子王会長が千円札を渡してきた。
どうやら、釣り銭は要らないらしい。しかし、理由もなく奢ってもらうのは気分が悪いので、百円玉を三枚取り出すと彼の隣にポツリと置いた。
「それにしても、影郎。大先生がお前の父親だという話、あれは本当のことか?」
「あの老人が勝手に言ってるだけですよ、獅子王会長。まともじゃない人間相手に、真実を求めてはいけません。僕の大切な父と母は、既に亡くなっています」
「そ、そうか……」
影郎君は、大先生の館を振り返る。いつも通りの声だったが、確かなことは、今、彼が何か本当のことを話さなかったということだった。
「シャバに出て釣鐘高校への入学手続きだけを済ませ、与えられたアパートに一人でいると、保護観察官を務めていた日向光希さんが僕の部屋を訪れ、そして同居の提案をしてくれた。それだけが、事実です。決して、あの老人は僕の親などではありませんよ」
長い黒髪が、風に靡いて広がっていく様を見て、妙な不安に駆られた私だったが、ただ冷たい背中を見つめることしか出来ない。
こんな時、気の利いた言葉の一つも言ってあげられない自分が憂鬱だ。
「……ならば、尚の事だ」
「何がでしょうか」
「笹原のことだよ」
「おや、唐突ですね」
「見くびるなよ、どうせその話になるだろうから過程を省いてやったんだ。
そもそも、お前が急に交際を始めたなどと抜かしたって、俺は少しも信じていなかった。例え、相手が誰であっても同じだ。お前に恋愛など出来るわけがないからな。
何か裏があることは分かっている。一体、どんな謀かは知らん。だが、言っておく。それにあいつを巻き込むな」
「心外ですね。僕が、彼女を幸せに出来ないと仰るのでしょうか」
「下手な芝居はやめろ」
「何の根拠があって――」
「お前は危険過ぎるんだよ!!」
獅子王会長が、息を切らせながら影郎君の胸ぐらを掴む。それを止めようと丈が一歩踏み出したが、私は彼の手を掴んで止めた。
「お前、分かっててやってんだろ!? あそこにいた篁園さんは、笹原の本家だ!! あいつが絶対に逆らえねぇ家の主なんだぞ!! そんな人間の前で大先生に真っ向から喧嘩を売るだなんて、どう考えてもありえねぇだろうが!!
いいか!? 釣鐘はお前一人の学校じゃねぇんだぞ!? 一万人も生徒がいるんだ!! 偽善だろうが道楽だろうが、俺たちがお前の気に食わねぇ上級国民のお陰で学生やってられてるのは事実なんだよ!!
それを、お前が……っ。お前が!! 笹原の恋人だというお前がそんなことしたら、あいつの面目が立たねぇだろうが!! こんだけ噂が校内に広がっちまったら、あいつは……っ!!」
「篁園夫人が、あなたの許婚の祖母だからという事情を責めたいからといって、大義名分に笹原副会長を使うのは如何なものでしょうね。獅子王会長」
そうか。
篁園という名を、どこで聞いたのか今思い出した。月乃さんに統一試験の順位で抜かれ、生徒会長選挙に参加できなかった本部役員の一人だ。
笹原先輩が、ただ、獅子王会長の隣にいたいという純粋な気持ちだけで四位にまで上り詰めた努力を思うと、私は涙が出そうになった。
――ゴッ!!
考えた刹那、獅子王会長の拳が影郎君の顔面を捉える。聞くに耐えない鈍い音を聞いて、それでも私たちが誰も悲鳴を上げなかったのは、以前言われた影郎君の『何が起きても慌てずにいて欲しい』という言葉を覚えていたからだろう。
地面に伏した影郎君に中腰で跨り、再び胸倉を掴んで持ち上げる獅子王会長。
「お前、人をナメるのも大概にしろよ」
静かで低く、腹の中へ響くような恫喝からは、獅子王会長の本気の怒りが伝わってくる。今度は、言葉を思い出したのだろう。冷静になった丈が私たちを守るように、二人と私たちの間に入って立ちはだがってくれた。
「ク……っ。ククッ、クククッ。あぁ、暴力はいいですね。獅子王会長。どんな能力を持ってしても、この力の前ではまるで役に立たない。実に羨ましいものです」
「影郎ォ!!」
「獅子王会長。とどのつまり、人は変わらない。悔しいが、あの老人の言うことは正しいのかもしれません。仮に、僕と笹原副会長の間に愛があったとしても、僕は決して人助けを辞めることはせず、また、人をナメた天才を穿つことも辞めないでしょう。そこには、確かな予感があります。
僕は、活動に恋人を巻き込もうとは思いません。危険であることは知っていますからね。大切な人間を、本当は揉め事からは離しておきたい。それくらいの倫理は持ち合わせているつもりですが――。
しかし、笹原副会長が自ら僕に手を貸すことを止めることは出来ない。このロジックがお分かりですか?」
「お前こそ分からなかったか!? 俺は、お前に命令してるんだ。笹原から手を引け!!」
「だから、あなたは僕に勝てないのですよ。獅子王会長」
「な、なに?」
明らかな動揺。獅子王会長の鋭い瞳が揺れている。
「ここであなたが取るべき行動は、いいですか!? あなたが取るべき行動は!! ぶん殴って無理やりにでも僕を従わせることなのです!! それなのに、命令などと悠長なことをしているから勝てないのですよ!!」
「テメェ!!」
「あなたには、本気で勝負に勝つという意思がない!! 生まれながらに勝ってきたあなたには、理不尽と敗北の味を知らないあなたには、実力以上の目標を成し遂げようとする執念がないのです!!
だから、あの四点を詰めることが出来なかった。だから、勝つために利用出来るものはすべて使うと口にしておきながら、プライドが邪魔をして僕に頼ることをしなかった!! 僕を『すべて』から除外した!! 違いますか!?」
剛腕から力が抜け、か細い体がスルリとすり抜けていく。
「お前、なんでそれを……」
「獅子王会長。僕には、あなたが僕になら笹原副会長を任せられると、淡い希望でも抱いていたような気がしてなりません。だから、今日まで何も言ってこなかったのではないですか?」
「……っ」
「それではダメです。僕のような人間を、あなただけは決して認めてはいけなかった。あなたの目指す社会を破壊し、あまつさえ相棒を横取りするような人間を許してなどいけなかった。そして、そんなことなどとうに分かっているからこその自分への無念が、今見せている怒りへ繋がっているのだと僕は思っています」
……ようやく、分かった。
影郎君は、確実に告白させるため、影郎君から笹原先輩を奪うのではなく、守らせるように獅子王会長へ仕向けたのだ。
「違いますか?」
きっと、獅子王会長は影郎君を自分よりも強い人間だと思っている。だから、彼に預けることは決して安全を損なうことではないのだと考えていた。今までの恋愛遍歴から、形はどうあれ、影郎君は何をしてでも笹原先輩の平穏を守り抜くと信じていたのだろう。
しかし、状況は百八十度変わった。
自分が笹原先輩を手に入れなければ、すべてのしがらみを振り払ってでも手中に収めなければ、彼女は卒業までに何度危険に晒されるか分からない。
そして、これから先、影郎君は何度だって大先生と衝突するだろうと獅子王会長は思い当たったに違いない。あの壮絶な言い合いによって、決して普通の他人同士のものではない舌戦が、影郎君の強い恨みと大先生の恐ろしさの片鱗を知らしめてしまった。もう、平和に決着することなどありえないと、彼には分ってしまった。
笹原先輩が本家から疎まれるような理由を、もはや残しておくことなど出来ない状況へ持ち込んだ。有体に言えば、自分が敵であることを再認識させた。それが、今回の影郎君の方法だったのだ。
「答えてください、獅子王会長!!」
……ねぇ、影郎君。
それは、本当に正気の沙汰じゃないよ。
「だったら、俺はどうすりゃお前に勝てるってんだよォ!?」
獅子王会長は、答えを訊いてしまった。それは、今日まで影郎君と競い続けてきた彼の、紛れもない敗北宣言であった。
「お答えしましょう。恋愛は、統一試験のように『レース』という型枠が存在しません。婚姻を結んでさえも、決着はつかないのです。
にも関わらず、あなたは結果を覆そうとしないのですから、所詮あなたはルールの内側の人間だという話です。ここまで言えば、あなたがどうすれば笹原副会長を守れるのかお分かりでしょう?」
ふと、獅子王会長の目から怒りが消える。それは、あまりにも唐突な幕切れであった。
「……あぁ、そうか。そういう、依頼だったのか」
オールバックがはらりと流れ、前髪の奥で真意を理解した瞳が悲しく歪んだ。
獅子王会長は、あまりにも優秀過ぎた。だから、大先生の館での出来事が寸劇であったと知ってしまったのだろう。その表情に滲んでいるのは、屈辱ではなく諦観だ。
彼を更に絶望へ叩き落としたのは、恐らく大先生の反応のはずだ。
あの壮年の男性は、幾つか言葉を交わしただけで何かに気が付いた素振りを見せ、そしてわざと影郎君を煽るような発言を行った。要するに、彼は、影郎君が本当にここへ来た目的が選挙資金の援助申請だとは、最初っから思っていなかったのだ。
二人の手のひらの上で踊らされていた現実を、獅子王会長は受け入れられるだろうか。私は、もう、あまりにも不憫な彼のことを見ていられなかった。
「さて、獅子王会長。あなたには、行くところが出来たのではありませんか? 僕たちのことを気にする必要はありません。僕らと駄弁るより、その用事の方が余程大切だと愚考する次第であります」
「……なぁ、影郎。一つだけ、歳上として言いたいことがあるんだけどよ。いいか?」
「お願いします」
「このまま行くと、お前、本当に死ぬぞ」
しかし、影郎君は何も言わない。ただ、静かに立ち上がり制服のズボンを叩くだけで、いつも通り儚く笑う。
獅子王会長は、深い、深い溜息をついた。
「顔面の傷を、謝る気はないからな」
「構いません。僕には、それ以上に酷いことをした自覚がありますから」
「……負けたよ。俺は、ここまでだ」
獅子王会長は、私たちに背を向け空を見上げると、静かに涙を流して立ち去っていった。あんなにも切ない男泣きを、私はきっと、生涯見かけることはないだろう。
「さて、依頼は完了した。せっかくの休日だからね。打ち上げ代わりに、みんなで昼ご飯を食べに行こう」
誰も動けない中、私は彼の頬に濡れたハンカチを当て声を掛けると、月乃さんたちはようやく意識を取り戻し、黙ってひょこひょこと歩く影郎を追いかけた。
季節は、間もなく夏本番。
この、爽やかな海風と強い日差しの中、私はまた影郎君が遠ざかったような気がして切なかった。




