004
その日の夜のこと。
「影郎君、今日もお疲れさま。相変わらずのスピード解決で私も鼻が高いよ。うん、誇らしいね」
「おぉ、希子か。ちょうどいいところに来た、腹も落ち着いたところだし呼びに行こうと思っていたんだ。以前見つけたこの本に、トルココーヒーの淹れ方が詳しく載っていてね、イブリックやカンカンに熱い砂が無くても、どうやら代用品で楽しめるみたいなんだ。キミの分も淹れたところなんだよ、一緒に飲もう」
彼のフェル・メールへの興味は、とっくに失せていた。
夕飯の後でお風呂に入り、月乃さんの事の顛末を伝えるためにリビングに入ると、影郎君は妙に嬉しそうな目の形をして、小さな鍋にせっせとコーヒーを沸かしている。
小ぶりで装飾の施された銀色のマグカップに液体を注ぐと、トレーに様々なスパイスの小瓶を乗せて共に運んできて、実に満足そうな笑顔で一つを私に差し出す。その姿を見て、私は「奉仕するのが好きなのは間違いないんだよなぁ」としみじみ思った。
……そして同時に、あの事件は影郎君にもう一つ、立場が上の人間を嗜虐する危険な人格を植え付けるには充分過ぎるモノだったと再確認させられ気の毒に思った。
「見てみろ。これはシナモン、こっちはカルダモン、これはナツメグだ。カップセットは石川町のアンティークショップで一式揃えた。
コーヒー豆とスパイスは、諸用で有隣堂に寄った後、伊勢崎町のカルディで買ったよ。あそこはいい店だ、心なしか別店舗より雰囲気がいい。ミルは光希さんのものを使わせてもらっている」
耳鼻科、ね。なるほど。
「隠してたの?」
「サプライズの方が楽しいだろう。本当はもっとスパイスの種類が欲しかったが、カップの値段が想像以上に張ってね。春休み中に貯めたバイト代だけじゃ賄えなかったのさ。でも、僕はどうしてもこのデザインがよかった!
あぁ、もちろん光希さんと美智子さんの分もある。四人前だ、抜かりはない。しかし、今日いてくれないのは残念だよ。まぁ、居ないからこそ門限を破って仕入れに行けたのだけれど……。
とにかく、僕自身が味わって慣れておいたほうが、二人には今日よりもっとおいしいコーヒーを淹れてあげられると思ったんだ。むしろラッキーだったかな? うん、きっとそうだ!」
「ふぅん、そっか」
どう見ても、門限を破った罪悪感より、私にこのカップセットを見せたいという興味が勝っているのは明らかだった。
「たっぷりと砂糖を入れて飲むんだ。トルココーヒーは、エスプレッソの原点とも呼べるような濃い味わいのコーヒーだからね。ほら、スパイスは飲みながら調整しろよ。入れすぎて台無しになるのが一番ダメだから」
「へぇ。じゃあ、それも影郎君にお願いしようかな」
「ほう、なら任せなさい。僕が一番おいしいバランスを見定めよう。それにしても、どうだい。この異国情緒溢れるカップと香りは。実に美しいだろう?
そうだ、BGMを流そう。なるべく雰囲気の出るモノを選ぶんだ。トルコ行進曲じゃないぜ? いわゆる、オスマン音楽さ」
はっきり言って、私には影郎君が何を言っているのか半分くらい分からなかったけど、この楽しそうな笑顔を見るのは好きだ。彼が充実してくれていると、それだけで、私もちょっぴり幸せになったりする。
こうやって、影郎君は思い立ったようにバイトをして資金を貯め、恩返しと言わんばかりに私たち家族へやり過ぎなくらい奉仕をしてくれるのだ。
まぁ、そのほとんどがエキゾチックな料理と民芸品に関することなんだけれど。とにかく、自分が興味を持ったモノを作って私たちにプレゼントするのが、彼の唯一の生き甲斐であるらしい。
独り善がりで負けず嫌いで皮肉屋なところとは極端すぎる二面性ではあるけれど、影郎君はそういう人間だ。だから、私は嗜虐心のある彼のことを、ちっとも嫌う気になれないのである。
影郎君は、初めて淹れたと言う割には絶対に合わない、妙に慣れた手付きでコーヒーにスパイスをブレンドした。
「うん、このくらいがいい。ほら、砂糖はタップリだ」
「凄く綺麗な結晶だね。これがお砂糖なの?」
「これはシュガークリスタルさ、一瓶で三千円もする高級品だぜ? それでも、量を惜しんじゃいけないんだ。だって、当時のトルコ人たちだって、きっとこうして楽しんだに違いない。いや、精製技術の進化を鑑みれば、僕たちはスレイマン大帝より遥かに贅沢な逸品を味わえるのかもしれない!」
「ふぅん、そういう人がいたんだ」
「……と。ほら、できたよ。召し上がれ」
お礼を言って受け取ると、影郎君は私の口元をジッと見て固まった。正直な話、私はコーヒーの苦みがあまり得意ではないのだが、飲みやすく調整してくれているのだから大丈夫だと信じて飲むと、これが想像していた何十倍もおいしかった。
上品で上質な味に笑顔が綻んだのを、彼は満足そうに見つめて自分もカップに口をつける。そして、「おぉ」と感嘆の声をあげると、それから黙って音楽を聴きながらコーヒーを楽しんだ。
不思議なことに、影郎君の作ったものは必ず私たちを喜ばせてくれる。
しかし、それはきっと、彼が私たちに気付かれないよう既に何度も練習を重ねているからなんだと、私たち家族はなんとなく察していた。
それでも、彼が裏の努力を絶対に見せたがらないカッコつけだから、努めてツッコまないようにしているのだ。
このコーヒーだって、きっと、ようやく気に入ったカップが見つかったから満を持して披露したに違いない。
そうでなくては、さっきの慣れた手付きはあり得ないし、影郎君がここへ住むずっと前にお父さんが使っていたコーヒーミルの存在を、彼が知っているハズもないのだから。
「満足してくれたかい」
「うん、これすっごくおいしかったよ。ありがとうね」
「気にしないでくれ。光希さんと美智子さんには、茶請けも出してあげたいな。ピッタリの菓子を探しておくとしよう」
BGMが止まったところで、私は影郎君が帰ってからのことを話すことにした。
「手紙の送り主は、影郎君の言う通り、小学生の頃に同じ絵画教室に通ってた女の子だった。月乃さんは八歳からイギリスに留学してたから、特進クラスで再会しても覚えてなかったって」
「そうか」
「でもね、相手の子に優しい嘘をついてた。ずっと謝りたかったから、ここに来たんだって。送り主を探さなかったのは、読んだ瞬間に送り主が分かったからだって」
「やはり、支援委員のことを『友達に聞いた』というのも嘘だったか。あんなにプライドの高い人が、友人に相談するなんてありえないと思っていたよ」
言葉は刺々しかったが、それが、いつもの皮肉ではなく彼なりの勇気への賛辞だったことは明らかだった。
「月乃さんね、イギリスに行く前に同じ教室の人たちと絵を続ける約束してたんだって。心の中では、もう描くことはないって思ってたのに」
「あの胡散臭い表の性格は、当時から健在だったようだね」
「……話、続けるよ。彼女は月乃さんの才能を知ってたから、再会してからずっと怯えてたの。だから、もしも次のコンクールに月乃さんが絵を出展するってなったらって思うと、居ても立ってもいられなくて。それで、絵を続けていれば分かる内容の脅迫状を書いたんだってさ」
「格上だからね。やめてくれていれば、感謝するのも当然だろう」
「……それって、凄く切ないよね。だって、自分より凄い人を知っていながら賞をもらっても、きっと後悔するハズだよ」
「恐らく、今でも伊織君の方が送り主より素晴らしい作品を描くのだろうし、送り主は自分の方が優れていると信じられるエゴも持ち合わせていないのだろう。
個人の美的感覚にすらトラウマを植え付ける。美術における才能とは、それほどまでに絶望的な差を生むものさ」
答えになっていない答えだ、という私の声にしなかった反論を聞いたのか、影郎君は更に言葉を続けた。
「読むことが出来た場合に限り危害を加える。言い換えれば、もうライバルでなくなった伊織君を憎む理由は無くなる、ということだ。送り主の胸中には、さぞ愛憎入り混じった感情がしまわれていることだろう。羨望、嫉妬、困惑、様々さ。
そういった中でも、解読という執行猶予を与えたのだから随分と理性的だよ。希子の思っていることは、送り主も散々迷ったに違いない」
……けれど、彼女は忘れていた。
理由は至ってシンプルで、絵画に対して興味がなかっただけ。そんなことは、凡人の私にだって幾らでもある。昔のことを全然覚えていなくたって、何も悪くなんてない。ただ、才能があってしまったが故に今回の手紙は送られたのだ。
「飲むだろう?」
影郎君は、もう一杯コーヒーを淹れてくれた。私には砂糖とシナモンを、彼は何も入れないブラックだ。
唐突に、夕暮れの教室の外で聞いていた、月乃さんへの悲痛な叫びが脳裏へリフレインする。そのせいで、何を言えばいいのか、何を言っちゃいけないのかが分からなくて、言いたいことが渋滞し過ぎて。
私は、とりあえず思い付いた言葉を吐くことにした。
「そ、それにしてもさ、月乃さんって凄い美人だよね。まるで、神様がオーダーメイドしたみたい」
「あぁ、そうだね。少なくとも、彼女を見て悪い気分になる男は存在しないだろう」
「カレシ、いないんだってよ。一緒に帰ってくる途中、色々聞いてみたの」
「そうか。まぁ、作る必要もないんだろう。あれだけの美人だ、焦りなんて無いに違いない」
「へぇ、認めてるんだ」
「嘘をつきたくないだけだよ」
本当に、女子に興味が無いんだなって声色だった。だが、それ故に、影郎君が純粋に月乃さんを格上の人間であることを認めているように思えた。
「……けれど、あんなに酷い態度をとったのはだけはいただけないよ。今だから言うけど、女の人にあそこまで辛く当たるのは許せない」
「僕はやり過ぎだったとは思わない。水上茜さんの無念と葛藤を考えれば、あの無自覚な女王への物言いは足りないくらいだ」
「あ、あの人の名前、ちゃんと分かって――」
考えてみれば、当たり前だ。
彼は、格上の人間を嗜虐する趣味を持っている。正確に言うならば、自分が格上であると錯覚し、驕っている人間を憎んでいる。
特進クラスの生徒には、ほぼ間違いなくその気配がある。全校生徒一万人の中で、自分たちだけがまともだと他クラスを見下している節がある。
彼らが、生徒会として学校の中心に君臨すべきは特進クラスの生徒を除いて他にないと、確信を持っているのを知っている。
だから、影郎君がいざという時のため特進クラスの生徒を調べているのは、至極当然の話だったのだ。
……影郎君は、月乃さんが現れてずっと、あの特進クラスを見つめながら、一体何を考えていたのだろうか。
「世知辛いね、どうも」
悲しい目をしている。
きっと、彼が許せなかったのは、月乃さん個人ではなく、月乃さんのように多くを持つ者が誰かを無意識に踏み躙ることなのだ。そんなふうに、情熱を持った才能のない人たちが、蹴散らされて消えていく世界の仕組みなのだ。
特進クラスの中にすら、そんな差が存在している。私は、才能という不平等極まりない、あまりにも大きな格差に改めて絶望していた。
憂鬱だ。
「どうした」
そんな、不安に怯える私を見抜いたのか、いつの間にか灯っていた、冷たい青い炎の揺らめく影郎君の目が怖くて、見ていられなくて。
……私のための感情だと分かっているのに、どうしても恐ろしかった。
「うぅん、なんでもないよ」
確かに、影郎君の執念と好奇心は常軌を逸している。他人に異常なほどの興味を持ち、イカれているとしか思えないほどに義理が硬い。気紛れに驚かせてくるし、急に喜ばせてもらうことは今でもしょっちゅうだ。
だけど、方法はいつだって普通だ。誰だって、当たり前のように喜ぶことしか彼はやらない。
彼は、絶対に天才じゃなかった。
それだけは確かだ。小学生の頃、運動会の徒競走では四位を取り、学年末のテストでは七十点を取り、図画工作の展示では端っこより少し真ん中を取るような、むしろ平均より能力の劣った男の子だったのだ。
……彼の血の滲むような努力を思い出すと、言葉が浮かんでこなかった。
「それじゃ、話も終わったし寝るね。コーヒー、おいしかったよ」
「それはよかった。おやすみ、希子。また明日」
長い沈黙の中でコーヒーを飲み干してから、カップセットを洗う影郎君をしばらく見つめ、私は自分の部屋に戻りペンを手に取る。
暗がりに佇む、闇より黒い影。倉狩影郎。
いつか、彼がまた心から笑える日が来ることを、私は密かに願っているのだった。