006
多くの生徒が授業に集中している中、堂々と学園内を練り歩くというのは背徳感で満たされる体験だ。おまけに、影郎君と月乃さんのお陰で、すれ違った先生に何の文句も言われないのは快適で仕方なかった。
つくづく、釣鐘高校は学力至上主義の学校なのだと思い知らされる。ひょっとすると、いや、間違いなく、私ってば、かなりの幸運の持ち主みたいだ。
「体育の情報も、相瀬さんから聞いたわけ?」
月乃さんが、影郎君の隣りに立って訊ねる。
「その通りですよ、伊織君。授業は単位制、体験学習に関しては全学年が同じ授業を受けられる」
「あなた、イカれているわ。そこまで他人から情報を聞き出せてしまうだなんて、どう考えても尋常じゃない。まして、相瀬さんはあなたも評するほどの臆病な女子なのよ。一体、どんな魔術を使ったのかしら」
「僕はただ、戸上さんの力になりたいだけさ。即ち、その問いに対する答えは『お願いをした』だよ。依頼を遂行するために必要なものであるならば、手に入れるための手段など問わない。無論、事を荒立てるような手段など使っていないけれどね」
「何故そこまで他人のために頑張れるの?」
「支援室に来てくれた、これ以上の理由は必要ない」
「……はぁ。本当、不思議な人ね。あなたの献身とアブダクションは、不本意だけれど認めてあげるわ」
月乃さんは、呆れたように笑ってから影郎君の肩を小突いた。それは、どこかじゃれつくような、自分の考えの過ちを誤魔化すような、そんな仕草に見えた。
「ごらん、希子。あれが、キミの嫌うハーレムの全貌だよ」
グラウンドで体育を受ける、何十人かの生徒の中に、八神先輩とその恋愛模様はあった。
明らかに異質だ。
ある生徒たちは気怠そうに、またある生徒たちは自分の持ち味をアピールするようにトラックを走る中で、八神先輩たちは六人、周囲と隔絶されたコミュニティを確立しているのが一目で分かった。
まるで、他所からの認知など気にしていない。自分たちの世界に籠もって、それはそれは楽しそうに八神先輩を持ち上げ、或いは赤面したりして、如何にも恋愛慣れしていない女子たちが、必死に尽くそうと努力している光景が広がっていた。
健気ではある。しかし、それはある意味、影郎君に恋すること以上に無意味なことのように思えた。
「……歪っすね」
一宮が呟く。怒りの匂いのする口調だ。
「どうしてそう思ったんだい?」
「漠然とっすけど、八神には誠実さの欠片も感じられない。それどころか、何故自分が女子共に囲まれているのか分かってねぇっつーか。そもそも、あいつは今の自分の状況すら分かってねぇんじゃねぇっすか? 当事者意識のある男は、あんな表情をしない」
「へぇ、男にしか分からない感覚ってわけ?」
「男にしか分からねぇかどうかは知らんすけどね、伊織さん。男ってのは大抵、やっぱ女に頼られれば嬉しいんすよ。そういう機微って、俺には分かるんすよ。まぁ、俺の場合は物理的にそいつの些細な表情の変化が見えるっつーことなんすがね。けど、八神のあの腑抜けた面。あれは、何かを背負ってる自覚のある奴の面じゃねぇ。気に食わねぇっす」
「ククッ、本当にいい目をしているよ」
そう微笑む影郎君の目に、気のせいだろうか、八神先輩は映っていないみたいだ。その眼差しが捉えているものを知りたくて、少し背伸びをして並んでみると、なるほど、彼の正面に立っている戸上先輩の後ろ姿だった。
彼女は、みんなに何か照れるようなリアクションを示した後で、逃げ去るようにトラックへ走っていく。その姿は、やはり、インターハイに出場する選手だけあって実に様になる格好のいい代物だが、右足を少し庇っているように見えた。
後遺症、というやつなのだろう。すぐに足を止め、ゆっくりと歩き出す。痛々しくて、目を逸らしそうになった。
「影郎君、見惚れているんですか?」
「あぁ、綺麗なフォームだと思ってね。写真で見た通りのスタイルだ」
「ふぅん、スポーツ女子が好みだったんだ」
「そうかもしれないね」
「嘘をおっしゃい。あなたが好きなのは、人間らしい女子よ。それも、自分のことしか考えていないような、一言目には愚痴が、二言目にはワガママが出るような、とびきり人間らしい甘えたがりな女子」
「そうかもしれないね」
ポケットに手を突っ込んだまま、戸上先輩を目で追いながら、影郎君はボンヤリと答えた。私と月乃さんは辟易したから、代わりに一宮が狂言回しを買って出てくれた。
「影郎さん的には、あれ、どう思うんすか?」
「ごめんよ、丈。僕は、目の前にいた女の子をただの一人も幸せに出来なかった男だ。人の恋模様の是非を説く資格を持ち合わせていない」
「なら、八神真尋がどう見えてるかでもいいんで、教えてくださいよ」
「……まぁ、羨ましくはないかな。退屈そうだ」
「相変わらず一貫していますね、そこのところは」
人に尽くされることを嫌い、人に愛されることを嫌い、人に甘えることを嫌い、人に助けを求めることを嫌う影郎君にとって、その答えはあまりにも当たり前過ぎるものだ。
一宮は、安心したように頷いてフェンスに寄りかかる。
「ところで、倉狩君。昨日とは打って変わってテンションが低いけれど。まさか、八神真尋が期待外れだったとでも言いたいのかしら」
影郎君は、何も言わなかった。
「あぁ?」
「どうしたの、一宮。ガラ悪いよ」
「……いや、何でもねぇ。勘違いだった」
その時、ニヤリと口の端を歪めた影郎君を見て、月乃さんは訝しんだ。明らかに、何かを確信したのは私にも分かったが、それが何なのかは当然不明である。
「ククッ、これで状況は把握出来た。ようやく戸上さんの支援が出来るよ」
「外から見れば、『ちゃんと走ってもいい』としか言いようのない形ですもんね。依頼は戸上先輩の恋愛を成就させることではないのですから、後で事実を説明するだけで完了します」
「いや、そうではないんだ。希子。僕は、とんだ勘違いを犯していたのさ」
「勘違い?」
「あぁ。戸上さんは、心の底から苦しんでいる。そして、僕ら以外に頼れる人間がいないという孤独に苛まれている。『彼女が支援室を訪れた』という事実自体が、もう看過できない程の強烈な違和感だったのさ。にも関わらず、図らずとも僕が、この僕が、彼女の苦悩をキミたちに気付かせないための働きをしてしまった。悪かったよ」
言って、影郎君は踵を返した。
「らしくないわよ、倉狩君。あなたが間違えて、しかも謝るなんて」
「そうかい? 伊織君。キミがどう捉えているのか知らないけれど、僕は人並みに間違えるし謝るよ。ただ、自分の過ちは自分で片付けるさ。心配しなくていい」
「……ふぅん、そう」
胸がざわつく。
私たち三人は、あのハーレムの裏側に隠されている何かを知るのが怖くて、だから影郎君が辿り着いた真相を聞くことが出来なかったのに――。
「結論から述べよう、戸上さんは双子の姉妹だ。僕らの元を訪れたのは、あそこにいる戸上由依さんではない」
影郎君は、ミステリー小説のセオリーを木っ端微塵に破壊するかの如く、なんの躊躇もなく初めから真実を口にした。




