005
「あぁ、美味しい。本当に美味しいわぁ。この世で最も嫌いな男を顎で使って淹れさせた紅茶だと思うと、味わいにひとしお、深みが増すわね」
あくどい笑みで影郎君をニヤニヤと眺める月乃さんを見た一宮が、私にこっそりと耳打ちする。
「なぁ、日向。この人、性格終わってね? 誰にでも平等で優しい女王じゃなかったのか? 学校中でそういう話聞くんだけど、ここじゃ全然違うじゃねぇか」
「影郎君に負かされた天才は、例外なく同じことを考るようになるんだよ。というか、私たちには優しいから問題無いじゃん」
「お、お前の独善性も見上げたもんだな」
「えへへ、ありがとう」
「褒めてねぇよ……。しかしよぉ、影郎さんの皮肉ってそんな酷いレベルなん?」
「酷いと思うよ、直接的な暴言を使わない分余計に」
「へぇ。俺ぁ傍で聞いてても、影郎さんの言葉のどれが悪口になってんのか気づかねぇんだよなぁ。バカでよかったと思うべきか、理解出来なくて悔しいと思うべきか」
影郎君は、隣で尚も悪態を披露する月乃さんの言葉に簡単な返事しか示さない。暖簾に腕押し、糠に釘。議論の上で無ければ、暴言など気にも留めないところが、相手にとっては更に気分を逆撫でされるのだろう。相変わらず、怒りの沸点が人外に高い。
影郎君の最も強力な武器は、腹を立てないことだった。
「ところで、昨日から気になっていたのだけれど。倉狩君。あなた、戸上さんに言っていた八神真尋の噂とやらはどこで聞いたの?」
「あぁ、あれは嘘だよ。依頼人の気を悪くさせないためのリップサービス。彼女が帰った後で、キミたちにはしっかり『知らない』と説明したじゃないか」
「……まったく、あなたって人は。私たちからすれば、その『知らない』が本心なのかも分からないじゃない」
「月乃さん。この男は、割と頻繁に、平気な顔して心にも無いことをいけしゃあしゃあと抜かしやがります。気をつけて下さい」
「本当、希子はよく我慢してるわね。健気過ぎて苦しくなっちゃう」
月乃さんは、私の頭を撫でておよよと泣いた。
「我慢はしてませんよ。彼は、例の猫撫で声以外では嘘を使いませんから。これは絶対です、安心してください」
「何故そう言いきれるの?」
「私と約束したからです。要するに、本気で嘘をつかれると見破れないので口調で分かるようにしてもらっているんです。そして、影郎君は私の言うことを絶対に守ります」
その代わり、本音を言わないことはある。
悲しいくらいに、たくさん、いっぱい。
「あのさ、ずっと気になってたんだけど、お前って影郎さんのなんなんだ? 確か、一緒に住んでるんだよな?」
言葉に詰まった。説明するにはあまりにも唐突で、そして時間が足りな過ぎたからだった。
「僕と希子は幼馴染だよ、丈。通常とは違う固い絆で結ばれているけれどね。そんなことより、伊織君。今はキミの調べを教えてくれますか?」
「……ふぅん。まぁ、いいでしょう。けれどね、倉狩君。あなたと希子の話は、そのうちキチンと聞かせてもらいますから。そのつもりでいてよね」
無視する影郎君を一瞥すると、月乃さんは咳払いをして静かに立ち上がった。
「長谷川京子さん、二年一組の生徒ね。
実を言うと、私と彼女には少なからず縁があるの。というのも、彼女は一年生の頃は特進クラスに通っていたんだわ。それが、成績を落としてしまったせいで昇格生と入れ替わり、一組へと落ちてしまった。その悲しみとは、一体どれほどのモノかしら。
ズバリ、彼女の心の傷はこれよ。それを修復してみせたのが、件の八神真尋というわけね。
一組に入ったことで、肩身の狭い思いをしていた長谷川さんは独りぼっちだった。当然ね。生徒会へ入る条件をほとんど失い、プライドをへし折られた挙げ句、自分よりも格下だと思っていた生徒と仲良くなんて出来るはずもない。彼女は、ただ一人で過ごすしか無かった。
そんな彼女の悪態を、八神真尋は受け入れた。ただ、黙って愚痴を聞き続けた。荒唐無稽で、且つ、これ以上無くみっともない言葉を否定されなかったことで、彼女は一体どれだけ救われたことでしょう。被害妄想の中、彼を唯一の味方だと思い込んだに違いないわ。
それが、長谷川京子という女子の恋の正体よ。彼女は、甘えて、甘ったれて、その沼から抜け出せなくなった哀れな子羊。少しだけ、可哀想に思っているわ」
「……よく、そんなプライドの高い人から詳しい話を聞けましたね」
「だって、私の方が成績いいもの」
尤もな意見だった。
この人の、影郎君とは真逆の方法で有無を言わせない強引なやり方を上手にこなしてしまう手腕は、なるほど、やはり彼女は紛うこと無き女王なのだろうと実感させられる。
それにしても、徹底的に極めた歯に衣着せぬ物言いは、美人も相まって圧倒的に迫力満点だった。まだ、ちょっとドキドキしてる。怖くて。
「伊織さん。これ、俺と日向の調査結果っす。俺のは字ぃ汚ぇっすけど、読むかと思って。うす」
「ありがとう、丈。すぐに目を通すから待っていてね」
私のレポートと一宮が即席でまとめた文章に目を通し、月乃さんはため息をついた。
「では、最後に倉狩君の調査結果を聞きましょうか。どうぞ」
「相瀬里穂さんか。彼女は、気立てのいい女子だったよ。所属する学級は二年十八組だ。
恋のきっかけは、同じ部活に所属していることに由来する。彼らは弓道部だ。案外単純でね、昔から弓を引き続ける八神真尋の芯の通った姿に、相瀬さんは一目惚れしてしまったのだよ。
最初は、それだけでよかった。好きでいるだけで幸せだった。しかし、キミたちも知っての通り、八神真尋はモテる。次第に、彼の周りに女子の影を感じて、彼女の不安は募っていった。
憧れる恋に限界が訪れたのは、去年の十二月二十五日さ。知っているだろう? 釣鐘高校伝統のクリスマスパーティー。そこで、八神ハーレムは一堂会することとなった。それまで、彼女たちは赤の他人だったわけだね」
「影を感じていたのなら、赤の他人ということはなかったのではないかしら?」
「部活を見に来たヒロインを、遠巻きに観察する。この程度ならば、他人といって差し支えないと僕は判断したよ」
「なるほど、分かりました。続けてちょうだい」
前髪を耳にかけ直し、影郎君は更に語る。
「相瀬さんは、酷く焦燥感を掻き立てられることとなった。何せ、今までは部活動でしか見ることのなかった八神真尋の周りに、こんなにもライバルが存在しているとは思わなかったからだ。自分だけが、彼の真の姿を知っていると高を括っていたと実感したからだ。
人というものは、窮地に立たされなければ自分の境遇すら認知出来ないという好例かもしれないね。あぁ。伊織君の言葉を借りるのならば、ここが彼女の傷ということになりそうだ。うん。有り体に言えば、危機管理能力の欠如かな? 少しばかり、抜けているところがあることは否めないかもね。これのせいで起きたエピソードも、一つや二つでは無いみたいだ。
そんな彼女が考え出したのは、つまりだよ、女子同士の結託さ。ククッ。いやぁ、実に素晴らしい発想の転回だね。
他のヒロインたちの魅力や欠点にいち早く気が付いたのは相瀬里穂さんだった。脳裏を掠めたのは、勝ち取ることが出来ないであろうという恐怖。そこで、彼女は『誰も失恋させない』という、ハーレムの根幹を成す決め事を打ち出したのさ。
この慧眼こそが、彼女に独り占めを諦めさせた決定的な要因なのだろう。
これで、説明に足る材料ではないものの、八神真尋の写真の浮かない表情に少しばかり納得がいくかな。即ち、八神真尋はハーレムの支配者であって、創始者はヒロインの一人に過ぎない相瀬里穂さんだったのだ。
自分の物にならないのなら、みんなで少しずつ不幸になろう。……あぁ、いや。違うね。みんなで幸せになろうという結論は、なるほど、実にモダンな考え方だと感心したよ。平和なことは、素晴らしいことかな。クククッ。
これが、僕の持ちうる情報のすべてさ。ご清聴、どうもありがとう」
思わず傾聴してしまう演説のスキルには、素直に感服させられる。そんな、綿密な調査に圧倒されて訪れた私たちの沈黙を、月乃さんが静かに手を挙げて破った。
「あ、あの、倉狩君。本当に、ちゃんと事実なのよね? 好きな男の元へ向かう時間をほんの少し割いてもらって聞いた話なのよね?」
「その通りだよ、伊織君。キミたちに嘘をつかないことは、希子のお墨付きだろう?」
「あなたの推理も、含まれているの?」
「寡聞にして僭越ながら。ついこの間、僕は自分を信じる重要性を学んだところでね。しかし、精度はある程度保証する。担保が欲しいのなら、後でここへ来る戸上さんとの時間を削って、個人の調査を敢行してくれて構わない」
聞きに行ったって、同じことを教えてくれるとは思えないから、月乃さんは恐れ慄いているのだと思うけれど。とにかく、たっぷり私たちの三倍近くも演説を披露した影郎君の情報は筋が通っていた。
「……信じるわ。えぇ、信じますとも。その方が、きっと合理的でしょうからね。嘘つき君」
かくして、欲しかった情報はすべて出揃った。後は、材料を元に答えを導き出すだけだ。
「まぁ、総括して思うことは、八神真尋が宗教の教祖だってことね。経緯はどうあれ、歪な心を繋いで現実から目を逸らすための教団になってしまっている。最後にハーレムへ加わった戸上さんは、比較的冷静にいられたお陰で、その違和感に気付いたと言ったところかしら」
「同感です。まぁ、ハーレムなんていう恋模様ですから尋常ならざる理由があるとは思っていましたけれど。まさか、こうまで的確に傷付いた女子と遭遇することが出来るだなんて。本当、八神先輩は恋愛において、幸運の星の元に生まれたとしか言いようがありません」
「……さて、それはどうかな」
影郎君が、意味深に呟いた。
「どういう意味ですか? ハッキリ言って、ヒロインはかわいい子ばかりです。どうせ、男子なんてそういうのが嬉しいんじゃないですか?」
「本人の気持ちを勝手に想像して語るのはよくないよ、希子。それに、こうも自由のない学園生活なんて楽しいかな?」
「だったら、それは自己主張の出来ない軟弱者というだけです。女の敵に情け容赦は必要ありません」
「余程怒っているようだね」
「当たり前じゃないですか! こんなの頭にこない方がおかしいですよ! 自分から実現させようとして作ったなら百歩譲って理解しますけれどね! 女子たちが勝手に集まったからって他責思考で、『やれやれ』だなんて言いながら恵まれた環境を享受するのは許せません!!」
「そんな具体的な話は出ていなかっただろう」
「どうせそうだって話ですよ!!」
「ならば、見に行こうか」
言って、影郎君は立ち上がった。
「御誂え向きなことに、彼らは今、揃って体育の授業を受けているはずだ。ここで考えて腹を立てているより、実際に見て情報を手に入れることの方が有意義だからね。大丈夫、こっそりしていれば文句も言われないよ」
提案を拒む者は無い。私たちは、支援室に鍵をかけて第三グラウンドへ向かった。




