003
戸上先輩が出て行った後から、影郎君は一言も喋らずに窓の外を眺めている。実に楽しそうな表情だ。闇の中から手招きをしているような錯覚を覚える妖しい色気に、私は少しだけ緊張していた。
「それで、どうなの? 八神君のことは」
徐ろにに、月乃さんが聞く。影郎君は、振り返りもせずにいつも通りの口調で答えた。
「今の段階で僕が言えることは何もない」
「冷たいわね。多感な女子高生の初恋を聞いたのだから、少しくらいは頭の中を見せてくれもよさそうなのに。倉狩君が何も考えていないわけないでしょう」
「何もないよ、僕は彼についてほとんど知らないんだ。考える材料が無ければ、結論も出せるはずがない」
「では、質問を変えます。影郎君、戸上先輩に対して何を思いましたか?」
影郎君は、振り返って私を見ると口の端をニヤと上げてニヒルに笑った。
「本来、支援委員を頼るようなタイプではない。それが、僕の率直な感想だ」
「しかし、事実として戸上先輩はここへ来ました。つまり、影郎君が今までに支援してきた、どの女子生徒とも違うタイプということになります」
「そう、そこが面白い」
彼が踵を返し返した瞬間、風に煽られた黒髪がふわりと舞い、耳から外れた前髪が片方の目を覆って隠した。
「どう話を聞いたって、彼女の中でとっくに答えは出ている。ならば、なぜここへやって来たのかが重要だ。そんな理由は、たった一つしかないのさ。
つまりだよ、希子。戸上さんは、今の関係を破壊して、他の者を出し抜いて、幾多のかさぶたの貼った心を蹴散らして。そうやって想い人を手に入れても許されるための免罪符が欲しい。堂々とそう言ってのけたのだよ!
実に素晴らしい。こんなにも欲を剥き出しにして望みを物語る者は滅多にない。
そして、彼女にそれだけ慕われているのさ。そんな彼女と似ている女子たちに、それだけ慕われているのさ。八神真尋という生徒は、よほど面白い男に違いないだろう」
それは、私が支援委員に入ってから初めて見る、久方ぶりの狂気だった。しかし、戸上先輩の言葉を還元し、目的を洗っていけばいくほど影郎君の言う通りの結論しか見当たらないことには背筋が冷たくなる。
「なるほど。倉狩君、あなたの言いたいことが分かったわ。忙しくなりそうね」
「その通りだ、伊織君。キミの実力を発揮する素晴らしい機会の訪れさ。ほら、チョコレートをあげよう。おいしいよ」
月乃さんは、不承不承ながらと言った様子で包装紙を剥がし、上目遣いで影郎君を睨みながらチョコレートを頬張った。
「すんません、俺にも分かるように説明して欲しいっす。ちょっと、二人の会話は頭良すぎてついていけなくて」
「ごめんよ、不親切だったね。つまり、こういうことだ。
戸上さんは、陸上への情熱をすべて注ぎ込むほどに恋焦がれていると言った。それ以外に何も考えられないような体験と、同じくらいに八神真尋に彼女は惚れているのさ。
言葉に嘘がないならば、朝起きて彼を想い、学校では隣のクラスへ足繁く通い、寝るまでの間にも妄想に耽っていることだろう。必然的に、片時も八神真尋から離れたがらなかったはずだ。
いやぁ、素晴らしいね。他に何も考えられなくらい恋焦れられたのなら、一体どれだけ幸せだろうか。いつか、僕もそんな気分になってみたいものだよ」
意外なことだが、最後の願望は影郎君の本音であった。
「んん。ちょっと、分かんねっす」
「覚えているかい? 彼女は、ここに来た時『支援を受けられると聞いた』と言ったのさ。冊子やパンフレットの記述によって知った可能性は皆無なんだよ」
「もったいぶらねぇで下さいよ」
「ククッ。ならば、丈。戸上さんは、一体、いつどこで支援委員の存在を知ることが出来たんだろうか」
……言われてみれば、確かにそうだ。
陸上競技に臨む熱意を以て、きっと、他の生徒たちと関わる時間を削ってまで恋をしていたのならば、彼女には日陰に隠された支援委員を知る機会など無いはずなのだ。
「もちろん、現段階では戸上さんが嘘をついていないという前提の元に組み立てた、蓋然性に基づく推論でしかないけれどね。真実とは呼べないものの、そう考えていて損にはならないはずさ」
「つまり、そういう事ですか?」
「あぁ。彼女たちの恋模様に対し、何らかの陰謀を働いた者がある。その筋から情報を得たからこそ、戸上さんは我々の元を訪れたのさ」
影郎君は、彫りの深い目尻に皺を寄せ、小学生の頃と同じ無垢で純粋な笑顔を私に向けた。ただ、真っ直ぐな彼の内面を映し出す、爽やかにはにかむ笑顔。好奇心を発散することが大好きな彼の、可愛らしいトレードマークだ。
……しかし、その表情の意味が、昔と今ではすっかり違っていることが私は切なかった。
「出ること出ること。どこが『言えることは何もない』なのよ、この変態探偵」
「お褒め頂き光栄ですよ、女王様。今日も鉄面皮がよくお似合いでございます」
影郎君は、徐ろに備え付けのスチールキャビネットから一つの名簿を取り出してペラペラと捲り始めた。生徒会役員にのみ配られている、全校生徒の顔写真付きのリストだ。一万人は伊達ではない。漢字辞典と比べたって、見劣りしない太さを誇っている。
その分厚い本のページに、影郎君は幾つかの付箋を滑らかに貼り付けてマーキングしながら――。
「希子、ノートパソコン」
「はい」
今度は、インターネットを巡回し始めた。以前、私の勧めで作ったアカウントを使用しSNSサイトを漁っている。大方、先ほど目星を付けた生徒を検索し、八神先輩のハーレムを特定しようとしているのだろう。アルバムを捲る動きとは打って変わり、非常に辿々しい指使いでヨタヨタな操作だ。
証拠の写真は、案外簡単に見つかった。クリップボードに貼り付けられた画像は、なるほど、これが男が妄想するような夢の青春の姿なのかと辟易する。
しかし、それらに写る八神真尋は、キラキラと光る笑顔を見せるヒロインたちと対照的に、どれも楽しそうには見えなかった。
ならば、なぜ女子を侍らせているのだろうか。鬱陶しいなら断って突き放せばいいのに。
「中央のキャビネット、二段目の左側。鷹林中学の卒業アルバム」
「はい」
どういうわけか、この部屋には様々な中学校の卒業アルバムが揃っている。恐らく、特進クラスの生徒の出身校のもの中心に集めたようだが――。
基本的に、横浜市内ならあると見てよさそうだ。背表紙を読み、注文された鷹林中学の卒業アルバムを手に取った。どうやら、横浜市港南区にある学校らしい。
手渡すと、更にリクエストを賜る。またしても慣れた手付き。本当に同じ十代の人間なのかと、彼のアナログ人間っぷりを見ると驚かされる。
「常念中学、八川中学、風間中学。悪いが、場所は探してくれ」
「三冊でいいんですか?」
「必要なもう一冊は、既に僕の手元にある」
つまり、一人は八神先輩と同じ中学に通っていたということか。
「手ぇ貸す」
一宮が手伝ってくれたお陰で、膨大なライブラリから素早く目的の本を引っこ抜くことが出来た。月乃さんは、机に置かれたアルバムの一つを手に取ると、きっと影郎君の目的であろうページを開いて読み耽る彼の横に置いた。
「よく分かったね」
「これくらい余裕よ」
覗いてみると、それぞれの投稿や交友関係や卒業文集を確認し、人となりの分析をしているようだった。
月乃さんの言う通り、実に変態的な行動だ。しかし、決して天才ではない影郎君がピタリと推理を当てるには、ここまで用意周到に準備しなければならないことを私は知っている。
「ひょっとして、俺のこともこうやって調べたりしたのかね。恥ずかしいっつーか、なんつーか。いや、別にいいんだけどな。全部知ってるんなら、聞いてもらう話無くなっちまいそうでよぉ」
「大丈夫、友達のことは絶対に調べない人だから安心しなよ」
「つまり、ライバルである私のことはバッチリ調べているわけね。殊勝なことだわ。褒めて遣わせてあげようじゃない。もちろん、私はそんな程度で理解される女じゃないし、なんなら、日々成長を続ける私の過去のデータなんかに意味は無いのだけれどねっ」
「それ以上成長したら目のやり場に困りそうです、色んな意味で」
そうやって二人の話を聞いているうち、やがて影郎君の初期調査が終わったようだった。満足そうな顔をしている。きっと、話を聞くであろうそれぞれに見合った人格を構築し終わったのだろう。
卒業アルバムは、まとめてキャビネット上段の左端にしまわれた。
「果たして、この痴情のもつれの渦中、最後まで華麗に踊って魅せる者はどこの誰なのだろうね」
「物騒なこと言わないで下さいよ。それに、依頼人に対して失礼です」
「ククッ。まぁ、見ていなよ希子。この件は、今に風船のようにみるみる膨れ上がって、多くを巻き込む状況へと発展していくに違いないさ」
そのパンパンに膨らんだ風船へ、最後に針を刺すのが影郎君の役目ではないことを、この時は静かに祈るしか無かった。




