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「ここに来ると、個人的な悩みでも支援をしてもらえると聞きました」
「はい、その通りです。更に言えば、我々、今では四人のチーム体制となりましたから、より質の高いサービスを届けられると自負しております。ここにいる者は皆、自らの素養や才能を他人のために発揮する、言わば人助けのエキスパートですからね」
目を白黒させた一宮が、動じずに毅然と振る舞う月乃さんへ視線を送った。
どうも、影郎君の誇大広告的な文言に不安を吐露したいようだったが、そんなことをすれば、今度は自分の力を信じられない未熟者として取り騙されそうだとでも思い、依頼者の信用を得られないと考えたのかもしれない。
もちろん、そんな心配は無用である。影郎君の次に歴の長いメンバーである私、日向希子こそが本当に何者でもない、ただの一般人に過ぎないのだから。
戸上先輩は、キョロキョロと部屋の中を見渡し、ハッとしてから俯いて、緊張のままに口を開いた。
「わ、私、実は春休み中に酷い怪我をしたんです。そのせいで、もう陸上を続けられなくなっちゃって。いえ、走ることは出来るんですけど、今までみたいに全速力で走ることが難しいって感じでして」
なんと。
「それは、お気の毒です。どんな言葉をかければいいか」
「い、いえいえ! 違うんです! そういう暗い話ではなくてですね!? 今まで走ることしかしてこなかった女ですから! この際、別のことにも注目して人生の視野を広げてみたいと思いましてね!?
……まぁ、ほら! インハイ決勝って言ったって、私ビリッけつでしたし! しかも、ちゃんと一カ月は凹んだんで! 悲劇のヒロインやってたんで! 今ではすっかり元気になってるんですよっ!!」
一年生でインターハイの決勝に出場するということがどれだけ難しいのかなんて、スポーツを嗜まない私でも想像に難くない。ならば、彼女が並々ならぬ努力を積み上げたことは明らかであり、それを発揮する場が失われたことは悲劇に他ならない。
影郎君は、戸棚から甘いチョコレートを取り出して彼女に渡した。カカオポリフェノールには、ストレスを軽減する効果があるらしい。支離滅裂になった精神を落ち着かせようという魂胆かもしれない。
それから、チョコレートを食べた戸上さんに、影郎君はちょっとした笑える自虐的小噺を披露した(一宮がゲラゲラ笑ったせいで私も釣られてしまった)。
その間、紅茶は二口。五分ほど間を置いたことで平静を取り戻した彼女に、彼は改めてここへ来た理由を訊ねた。
「それでですね。私、今年になって、生まれて初めて好きな男の人が出来たんです」
「へぇ!」
「興味深いわね」
反応したのは女子だけで、男子共は真面目な仕事モードでジックリと話を聞くのみである。影郎君だけでなく、一宮も恋愛に大した興味がないらしい。
「ある日、松葉杖をついて歩いていると転んでしまいまして、その人が助けてくれたんです。あぁ、同じクラスの八神真尋君という人なんですけど。
彼は、自暴自棄になって荒れている私に、きっと無自覚だったんだと思います。彼はインターハイのことも知りませんでしたから。それで、なんの気兼ねもなしに、かと言って傷のことも聞かずに、いつも通りの対応をしてくれたんです。
……私、それがとても嬉しかったんです。気を遣われるなんてことは、今だから言えますけど、真っ平御免ですよ。
だって、そうじゃないですか。人なんてものは、大抵がそれなりに苦労して、努力して。それが、想像もしてなかった方向から、現実に押しつぶされるなんてことはよくある話でしょう。私だって、そういう経験は一度や二度ではありません。
それが、今回は、ただ怪我って言う分かりやすい形で現れてしまっただけで、みんなだって似たような辛い思いをしているはずなのに。私だけ、そんなふうに慰められるのは、なんだかフェアじゃないなって。居心地悪いなって、あの時はそう思ってたんです」
戸上先輩は、尚も理路整然と語る。
「だから、そんな気の置けない感じが嬉しくて。気が付けば、まず初めに彼に話を聞いてもらうようになって。いつの間にか、八神君のことを好きになっていました。
きっと、初恋です。先ほども言った通り、私は今までずっと、走ることしか考えてこなかったので。『あぁ、これが恋なのかなぁ』なんて思って、もう頭の中が八神君でいっぱいになってしまって。一人で考えていると、まるで、陸上競技にかけていた情熱が、すべて彼への好意に変換されてしまったんじゃないかって気持ちになるんです」
私は、話を書き留めているノートから目を離し、彼女の顔を見る。その表情は、どういうわけか、幸せとはほど遠い不安に支配された代物であった。
「けど、この想いは届きそうにもないなって、最近になって思い始めたんです。八神君は、実は凄くモテる人でして。いつも、四人の女子に囲まれているんです。まぁ、私も合わせれば五人なんですけど」
「ほぅ」
初めて、影郎君が反応を示した。
片眉をピクリと上げて口の端を綻ばせ、爛々と瞳を輝かせている。これは、彼の言うところの、『人間らしさ』というやつを感じ取った時の表情である。
言うなれば、欲望。
影郎君は、人が欲望を剥き出しにする様を、それも行き過ぎて肥え太った醜い欲望を体現する様を見るのが、何よりも大好きなのであった。
「きっと、彼の周りにいるのは、私みたいに大切なものが抜け落ちて、心にポッカリ穴の空いてしまった経験のある子たちなんだろうなって感じたんです。同時に、みんな八神君を好きなんだろうなっていうのも分かりました」
「女子内で、そういう話をしたことは?」
「いいえ、ありません。以心伝心ってやつです」
影郎君は、爽やかの奥に闇を感じる笑みを浮かべた。更に、戸上先輩は話を続ける。
「ただ、そういう心の折れ方をしてしまっている私たちなので、女子同士で気が合うのも確かでして。言わずとも伝わるのはそのせいです。
好きな男の子が同じになっても、戦うことを放棄している……のかな。えっと、違うかも。独占欲がないわけじゃないんですけど、う〜ん。……こういう気持ち、なんて言うんだろう。
とにかく、何を差し置いてでも競うことを避けようとしているんです。ギスギスしたり、妙な雰囲気になった時は、互いの意見を引っ込めることで解決しているっていう。それを、八神君が丸くまとめてくれる、みたいな。
それが、今の私たちの関係です。四月から今日まで、そうやって平和に暮らしてきたんです」
「なるほど! 実に興味深い話ですな。僕も、兼ねてより八神氏の噂は聞いていたのですよ。実に柔和で人畜無害、かと思えば絶妙に気に使える、幸運の星の下に生まれた不思議な色男であるとね。きっと、本当に優しい方なのでしょう! だからこそ、むしろ、外様の僕にもあなたの不安に納得がいくといったところです」
影郎君は、心にも無いことを言った。恐らく、彼は八神という男子生徒について何も知らない。
「というか、女の敵じゃないの? それ」
ピシャリ、月乃さんが呟く。
「意識的にしろ、無意識的にしろ、八神君は傷心中の女子を手籠めにしたんだわ。一人ではなく五人もね。私には、それが立派な行いだとは思えない」
影郎君は、月乃さんを咎めるわけではなく、かと言って同意するわけでもなく、少しも微笑みを崩さず戸上先輩を見ていたが、当の本人である戸上先輩は酷く傷付いたように俯いた。
「そう、思いましたか」
「逆に聞きたいのだけれど、そう思っているから、あなたはここへ来たんじゃないかしら。八神君に本当に心酔して、今のまま仲良くしていていたいと思うなら、わざわざ外部の人間を内輪に巻き込もうだなんて考えないはずよ」
「えっと、その――」
「ままま! それは、今この場で考慮する価値のない意見です。戸上さん、どうぞ話の続きをお願いします」
すっかり消沈してしまった戸上さんにも、絶やさず笑顔を向ける影郎君の姿は不気味だ。青白い炎は、僅かながら既に宿っている。
それは、本当に八神先輩とやらにのみ向けられた興味なのだろうか。私の中に、そんな疑問が渦を巻いていくのが分かった。
「……それなのに、私、八神君のことをもっと好きになってしまって。これまで以上に、二人だけで過ごしたいって思ってしまって。どうしても、独り占めにしたいって思ってしまって。だから、今までの関係が凄く窮屈に感じてきてしまったんです」
「窮屈とは、穏やかではないですね」
「言いたいこと。つまり、好きな人に好意を伝えられないというのは、やはり窮屈だと思ってしまいまして。……いいえ。こういう事を、仲間内で詳らかに語らうべきか、それとも隠しておくべきなのか、それすら分からない現状が不安というのが正しいのかもしれません」
「あの、またぶった切っちまってすんません。戸上の先輩。俺、バカだからアンタが何を言いてぇのか分かんねっすけど。要するに、影郎さんの力を使って八神ってのをカレシにしてえって話なんすかね?」
「ち、違います! そういうのじゃないんです! ただ、私はこの甘怠い環境に溺れたまま青春を終わらせてしまうのはどうなのかなって悩んでいるんです。このままでいるべきならば、もちろんそうします。でも、もしも他に道があるのなら――」
戸上先輩は、真っ直ぐに影郎君を見つめた。
「戦ってもいいんだって、そう思えたなら、私はまた走りたいんです。その答えを、どうか恋を知らない私に教えて欲しいんです」
ソーサーごと紅茶を手に取り、上品に啜る影郎君。そんな余裕ぶった態度に業を煮やしたのか、またしても月乃さんが口を開く。
「話は分かりました、支援委員はあなたに力を貸します。けれど、これだけは聞いておきたいの。いいかしら」
「なんでしょうか」
「戸上さん。あなたたちと八神君は、愛し合っているの?」
「……恐らく、いいえです。私たちの恋は、みんな一方的なものです」
「そう、ありがとう」
違和感。
戸上さんは、周囲の環境も、自分の想いも、八神先輩のことについても、すべてを客観的に見られている。不器用ながら、苦手ながら、言葉にして人に伝え、自分勝手に突っ走らない節度を持っている。
今までにここへ来た恋する乙女とは、まるで違う。都合のいい方向へ妄想を膨らませ、根拠のない自信に身を任せてしまう彼女たちとは根本的に何かが違っていた。
「それでは、戸上さん。今日のところは、一度お開きに致しましょう。こんなふうに気持ちを話した後では冷静でいられないでしょうし、我々の方で調べたいこともあります。明日の放課後は、お時間よろしいですか?」
「はい」
「では、お手数ですが、またこちらへいらしてください。ひと気のあるところで大っぴらに話す内容でもないですからね。おいしい菓子も用意しておきますよ」
影郎君は、気取り過ぎなくらい紳士的な態度で戸上先輩を送った。




