ep4
練習室にひとり、私は歌い続けていた。
汗が額を伝い、声はかすれてもまだ止められない。
——そのとき、ドアが開く音。
「愛ちゃん」
振り向くと、事務所の社長と、見知らぬ青年が立っていた。
「しゃ、社長。お疲れ様です」
思わず背筋を伸ばすと、社長は軽く笑って言った。
「今日はね、愛ちゃんに話したいことがあって」
「話したいこと?」
「今度の新曲なんだけど、大和じゃなくて、この子に頼むことにしたから」
「え……?なんでですか?大和は?」
胸がざわつく。私の声を一番知ってくれているのは大和のはずだ。
社長はためらいもなく答えた。
「今年ボーイズグループをデビューさせることになってね。そのメンバーに大和が入るんだ。自分たちの曲を作ることになったから、しばらくは愛ちゃんの曲は書けないんだよ」
「……そう、なんですね」
口ではそう答えながら、心臓がきゅっと締めつけられた。
「ごめんね?」
「いえ、大丈夫です」
青年が前に出て手を差し伸べる。
「UKです。よろしくね」
UK?UKってあのUK?
UKさんは、優秀なクリエイターだ。
この業界で彼の名前を知らない人などいない。
彼に楽曲を作ってもらえるなんて光栄なことだ。
それなのに…
私の胸の中は、喜びよりも悲しみの方が勝っていた。
⸻
廊下を歩きながら、私は自分を責めていた。
(10年間も夢に向かって走り続けてきた大和。やっと彼が叶えようとしている夢……本当なら心から祝うべきなのに。私はただ、自分の曲を彼が作ってくれないことが寂しいだけ。なんて自分勝手なんだろう、私は)
気づけば、私は男子練習室の前に立っていた。扉の向こうから大和の歌声が響いてくる。
「……大和の声だ」
思わずつぶやいた自分の声に、心臓が跳ねた。
そっとドアの隙間から覗くと、そこではデビュー候補生たちが汗を飛ばしながら歌い、踊っていた。真剣なまなざし、揃ったステップ。まるで舞台の本番のような迫力に、私は思わず息をのむ。
やがて練習は終わり、彼らがぞろぞろと練習室から出てくる。慌てて植木の影に身を潜めた私の前を、数人の女子練習生が通り過ぎる。
「大和くん。お疲れ様。これ、よかったら飲んで」
1人の女子練習生が差し出した水を、大和は笑顔で受け取った。
「ありがとう」
その一言に、女子たちの悲鳴が重なる。
「よかったね、あすかちゃん。受け取ってもらえたじゃん」
「毎日頑張った甲斐あったよ。大和くん、モテるから敵が多いんだもん」
「ほんとカッコいいよね。歌もラップもダンスも、作詞作曲までできるし」
「だよね。私、今度告白しようかな」
あすかの声が、廊下に澄んで響いた。
(……大和がモテる?)
愛は目を瞬かせる。頭の中に浮かんだのは、ロングの前髪を下ろし、分厚いオタクメガネをかけた大和。人に話しかけられても「はい」しか言えず、音楽の話題になると早口で止まらなくなる――そんな姿ばかりだった。
(ないない。ありえないでしょ。あの大和が、モテる?)
呆然とした思考の隙間を、デビュー候補生のメンバーたちが通り過ぎていく。
「絶対、あすかちゃん大和のこと好きだと思うな」
からかうように笑ったのは彼の親友である太一くんだ。
「いや、それはないだろ」
大和は淡々と返す。
「大和は鈍感だから気づかないんだよ」
「……そんなことは、ない」
大和がふと目を伏せた。
「好きな人に好かれていないことくらいは、俺もわかってる」
(……好きな人?大和に、好きな人?)
愛の胸が急にざわめいた。
その瞬間、握っていたスマホが指先から滑り落ち、乾いた音を立てて床に転がった。
「……愛?」
大和がこちらを振り返る。
「愛ちゃん?何してんの、そこで」
太一くんまで目を丸くした。
「いや、たまたま目の前通って……挨拶しようかなと思ったんだけど」
心臓を押さえ込みながら、愛はぎこちなく答える。
「なんで隠れてるんだよ?」
「いや、その……お取り込み中かなと思って」
「どういうことだよ?」
「だって女子たちとイチャイチャしてたし。私がいたら邪魔かなって」
大和は小さくため息をついた。
「……なんだよ、それ」
太一が楽しそうに割って入る。
「愛ちゃん愛ちゃん!最近大和、ほんとモテるんだよ。女子に毎日キャーキャー言われてさ。あの大和が」
「おいやめろって」
大和がムスっとする。
太一くんは肩をすくめて笑った。
「じゃ、俺はお邪魔だから先行くわ。ごゆっくり」
「いや全然邪魔じゃないんだけど! ちょっと、太一くん!」
愛が呼び止める間もなく、太一くんは手を振りながら廊下の向こうへ消えていった。
取り残された二人の間に、気まずい沈黙が落ちる。
「……で、どうしたんだよ」
不意に大和が切り出した。
「どうしたって?」
とぼけるように返すと、大和は少し眉をひそめる。
「なんか用があったんだろ?」
「あ、そうだった」
思い出したように愛は声を上げた。
「社長から聞いたよ。大和、デビューするんだって。おめでとう」
「……あ、ありがとう」
けれど返ってきた言葉は、驚くほど淡々としている。
「え?そんなに嬉しそうじゃないじゃん。念願のデビューだよ? 10年以上かかったんだから、もっと喜ばないと」
大和は肩をすくめ、視線を宙に泳がせた。
「なんか実感が湧かないんだよな。これまでずっとデビューを目指して走ってきたから……いざなくなると、不安になる」
「え、メンヘラ彼女じゃん」
愛は口元を緩める。
「……おい、馬鹿にしてんだろ」
「ごめんごめん」
ほんの一瞬、空気が和らいだ。けれど次の言葉でまた違う色に染まる。
「それに……愛の曲、書けなくなった」
「お、残念?」
冗談めかして返したが、大和は素直に頷く。
「うん」
「珍しく素直じゃん」
愛は目を丸くしながらも微笑んだ。
「でもね、実はUKさんに曲書いてもらえることになったんだ。あの《devil》作った人。大和も好きだったでしょ?」
「……うん。でも正直言うと、他の人の曲を歌う愛は見たくない」
「何それ。他の人に私の魅力を引き出されるのが悔しいってこと?」
「……まあ、それもある」
「それもあるけど?」
大和は一瞬言い淀み、そして首を振った。
「……いや、いいや。とりあえず、良かったな」
「ありがとう」愛は柔らかく笑った。
「大和もおめでとう。これからはライバルだね」
「……そうだな」
ほんの少しの沈黙を、二人の笑い声が埋めた。廊下の空気がやけに心地よく感じられる。
――こんなに二人で時間を忘れて話したのは、デビュー以来初めてだったと思う。
こんな何気ない時間が、ただ幸せだった。
だけど、この時が最後だった。
こうして笑い合えたのは。




