海を見付けた者
書くんだ。僕の物語を。
唐突に、漠然と。
そう、思ったんだ。
僕もこんな話が書きたい。
胸が高鳴るような、呼吸さえも忘れてしまうような。
昔は何も思わなかった。
小学生か中学生か、確かそのくらいの時に読書感想文を書くため、適当に買った小説だ。
部屋を整理しているとどこからか出てきて、なんとなく開いた。
そのはずが気付くと読み終わっていた。
この一冊で完結の小説。
内容は単純で、主人公の男が小さな船で旅に出るんだ。
後先なんて考えたりせず、どこを目指すわけでもなく、宛てのない終着点へ飛び出す。
魚や鳥に力を借り、嵐を耐え抜いて。
どこかを目指す。
息をつく暇さえ無かったこの小説、あの頃の僕には分からなかった面白さ。
そう、気付いたんだ。
痛いほどの握り拳をゆっくりと解き、深呼吸しながら僕はノートパソコンの電源を押した。
床にあぐらをかいて、ノートパソコンの置かれた折り畳み机に腕を置く。
起動するまでの時間さえ、もったいないと感じるくらい僕は焦っていた。興奮していた。
この熱が冷めないうちに、一刻も早く、何か行動したい。
その一心だった。
もう少しで僕の熱をすべて受け止めるサンドバッグになろうとしているノートパソコン。
そのキーボードに指を置いて、無意味な催促をする。
先ほどまで本を読んでいた眼球に、軽く痛みをもたらす青色が僕を照らす。
ほどなくして起動が完了した。
僕は興奮で軽く震える親指でカーソルを操作し、メモ帳を開く。
スペースキー。
初めに一マス開けて、僕は物語を書き始めた。
いや、書き始めようとした。
しかし何を書けばいいかわからない。
あの頃の読書感想文と同じだ。
漠然と書きたいと思っただけで、僕は何を書きたいのか何も分からない。
白紙の上で適当な縦線が点滅する。
僕の熱はまだ僕の中、出口が無くてさまよっている。
何を書きたいのだろうか。
あの小説のような物?
だとしたら僕はあの小説を読んで何を感じ取ったのだろう。
一体何を書けば、僕が受けたような衝撃を、今から書く文字列の中に込められるのだろう。
何に衝撃を受けたのか、自分でもよく分からない。
僕の中に言葉にならない驚きがあるだけで、言葉としては何もない。
それらを言葉として理解できれば、僕も何かを書けるかもしれない。
何かを書き始められるかもしれない。
忘れ去っていた呼吸を取り戻すように、僕は大きく息を吸った。
まずは読書感想文でも書いてみよう。
そうすれば、僕があの小説を読んで何を感じたのか分かるかもしれない。
きっと、何を感じたのかがわからないままでは、僕自身もあの小説のような物を書けない。
あの頃、適当に書いた読書感想文。
今ならこの小説を理解できるかもしれない。
大学生になって、こんなにも真面目に感想文を書こうと思うなんて、僕は予想していなかった。
どうせまともに読まないだろうと思い、教授に提出した適当な感想文が最後だと。
まさかこんな形で、さらに自分の意志で書こうだなんて。
どれほどの時間がたったのだろうか。
小さなベランダに続く窓から入る光は無くなりつつある。
つたないながらも、僕の読書感想文が完成した。
部屋の電気を付けようと立ち上がる。
すっかり熱も引き、冷静になっている。
それでも僕はまだ、小説を書きたいという思いを失ってはいない。
読書感想文により、ある程度整理されたあの小説の衝撃。
あの物語は、きっと多くの人が共感できるような内容なのだ。
だからこそ僕も面白いと思ったのだろう。
自分の知らない目的地へ一人で赴かなければならないことは、恐らく誰にでもあるだろう。
新しい何かを始めたりした時。
今の僕だってそうだ。
きっと、たった一人船で飛び出す主人公と同じなのだ。
そして、主人公を助けてくれる魚や鳥。
困っている時、例え人ではなくとも何かが助けになったり。
目的地への進行を妨害する嵐も現れて、それらに耐え、超えた先に終着点がある。
読み取ってみると、拍子抜けにも簡単な物だった。
ありきたりで、それだけ聞いているととても面白そうだとは思えない。
誰にでもあること。
そんなお話の形を変えて書いただけだ。
しかし僕はそんな小説を、こんなにも面白いと思ったのだ。
結局何を感じたのか、いまいち分からない。
しっかりと理解することもできない。
しかし今の僕には恐らくこれが限界なのだろう。
だが、これなら書き始められそうだ。
小さな喜び。
それが電気を付ける指を、ほんの少しだけ強くさせた。