人の痛み
皆さんは、きっとこういったことを道徳などで言われてきた人が多いと思います。
「もし自分がそういったことをされたらどう思う?」
これから私が書く言葉は、完全にただなんとなく思っただけの言葉です。人によってはそんなの駄目だと言う人なども多いと思います。ただ、ふと考えて思ったことですので、感想などに対し明確な返答ができないこともあると思いますが暇でしたら読んでいただけるとありがたいです。
よく、道徳の授業等で使われる自分がされたらどう思うかという言葉ですが、私はそういったことを気にし過ぎたら自分が壊れてしまうと思います。そもそも、友人関係等で気にしていても喧嘩などの相手を無意識に傷つけてしまうのです。人との関わりに、自分が傷つかないことなんて今の世界私はないと思います。よくなろうである、貴族系のものみたいに身分差がしっかりとある場所では、身分が上のものでしたら傷つけば処刑などできるかもしれません。しかし現実ではそんなことできやしません。何故なら、私達は一応は上下関係などないと教えられますから。まあ、だからといってリーダー格といういじめの主犯となり得て、また復讐などもしづらい相手というのはなくなりませんけど。
つまり、何が言いたいかと言うと自分がされたらなんて気にしすぎるなということです。そんなことに縛られて自分を壊してしまうのであればやめてしまえばいい。結局人は一人では生きれないですが、人と人がぶつかるというのは怪我しながらなんです。器用な人は、その怪我の回数が少なく済みますが不器用な人はたくさん怪我して傷付きながらやっていくしかないです。そうやって頑張るのは友人だけでも私はいいと思います。それ以外も頑張ったって、相手にそういう気がなければ成立しないのですし、自分を傷つける相手にまで気を使うのは辞めるべきです。そんなことで自分を傷付けるなら、普段相手に言わないようにしている言葉をほんの少し、嫌いな相手にだけぶつけてやればいいのです。
最初人は傷つき怪我しながら努力します。自分の為になるからです。自分の為にならないことに努力はそこまでする必要はないです。勉強は受験で自分の学びたいことのためにするものですし、仕事も自分が生きるため遊ぶためにするものです。そのために必要なことであれば、他者に気を使うのも大事でしょうが、そうでないのであれば、少し気を抜いた状態で接してもいいと思います。必要でないことにまで使いすぎて自分が倒れては元も子もないのですから。