第四章 タルムの関所
第四章 タルムの関所
ノクトの洞窟がしばらく立ち入り禁止になる、という話をディーンとリエラが耳にしたのは、再びモルスと教会領の関所を訪れたときだった。岩盤崩落の危険性があるため、と説明されていたが、明らかな嘘であることは明白だった。
しかし、それは同時にリエラの言葉がちゃんとモルスの王にまで伝わったことを意味しており、あれだけ大規模に行われたリエラとディーンへの襲撃もピタリと止んだ。モルスが2人から手を引いたこともまた明白になった。
2人が再び教会領に入った時点で、旅立ってから35日が経過していた。行程のおおよそ半分が過ぎた時点で期限の3分の2が残っているので、旅は順調と言ってよかった。
ノクトの洞窟を出た後も、リエラのディーンに対する態度に変化はなかった。おおよそ聞くこともなくなっただろうとディーンは思っているのだが、ディーンに関することなら剣術の訓練や教会の騎士団内の人間関係から食べ物の好き嫌いまで、他にも他国の情勢や名産品についてなど、リエラは尽きることなくディーンにいろいろと質問をしてきた。決して話題に困っているからというわけではなく、外の世界について純粋にリエラは知りたいようだった。
「教会領を通って今度はアガートに向かう。ゴーダの丘はアガートの王都にある。これまでの集団に囲まれて襲撃されるというより、人ごみに紛れた暗殺的な狙われ方をされるはずだ。それで聞いておきたいんだが……リエラは毒に対する耐性はあるのか?」
教会領の見知った道を歩く中で、ディーンはリエラに尋ねた。
教会領に戻るとアガートの者と思しき襲撃は再び始まったが、そこまで激しいものではなく、アガートに入る前に少しでも消耗させておこうとするような2人からすると地味なものばかりだった。
「試したことがないので何とも……食事に毒が混ぜられていたら感知できるので、毒が入っていたものは避けていましたし、あえて毒を体内に取り入れようとはしなかったので……」
その言葉は毒による暗殺未遂があったことを示していた。
この世界に無味無臭の毒というものは存在する。それを使ってなおリエラは暗殺できなかったのだ、とディーンは察した。
「仕込み針みたいなもので刺される、みたいなことは?」
「そういう場合は相手に殺意があるので、自動で弾いてしまいます。ノクトの洞窟でも何本か飛んできていました。剣で斬りかかってくる方が囮で、その隙に背後から、というような。」
「それなら、人ごみの中でもそこまで警戒する必要はないか。」
それを聞いて、ディーンは少しホッとした。ディーン自身暗殺対象になったことはないから、仕込み針のようなもので襲われることに慣れていない。しかし、リエラがそれを回避できるというのであれば、ディーンが警戒する必要はなさそうだった。
旅も半ばを過ぎたが、ディーンは自分の無力さを自覚し始めていた。
傭兵時代も、教会の騎士団に入った後も、戦いで誰かの足を引っ張ったことはなかった、という自負がディーンにはあった。白き異端者として誰からも一目置かれていることがわかっていたからこそ、努力も怠らなかったし、失敗した任務もなかった。
今も任務に失敗はしていない。リエラは五体満足でいる。しかし、今のディーンに出来ていることはリエラの道案内くらいだった。魔力がなくとも、大抵の敵であれば退けられる自信があったのに。これほどの無力感は、生まれた村が野盗に襲われたとき以来だった。
敵に関しては全てをリエラに任せて、自分は道案内に徹するとは、ディーン自身まだ割り切れなかった。
◆
「モルスが神の巫女から手を引いたって、本当!?」
カーラはアガートに戻り、神の巫女がアガートに入った後の暗殺計画についての指示を待っていた。神の巫女がモルスに入ってしまうと、カーラにはモルスにいる間者から教会領経由でもたらされる情報を聞くことしか出来なくなっていた。そのため、カーラはもたらされた情報をもとに暗殺計画を練って上司に進言するなどして日々を過ごしていた。しかし、カーラが提案する作戦について上層部は特に精査した様子もないまま却下の知らせがカーラの下に届き、ただひたすらに無為な日々が過ぎ去っている、とカーラは感じていた。
そんなカーラの下にモルス撤退の情報がもたらされたとき、カーラはそれをすぐに信じることができなかった。神の巫女がモルスの追跡を振り切ってアガートに入ってしまい、モルスが今のカーラのように簡単に神の巫女に手出しができなくなってしまったというのであればわかる。しかし、まだモルスに神の巫女が滞在しているというのに手を引くということは、あり得ない選択肢だった。
よってカーラはすぐにその情報を持ってきたハックに詰め寄ることになった。
神の巫女がモルスに入り、モルスの最精鋭の兵士たちが神の巫女を暗殺しようとノクトの洞窟で総攻撃をかけたが失敗した、というところまではカーラも知っていた。カーラやハックとは別のアガートの神の巫女暗殺部隊の隊員がノクトの洞窟を見張っていたが、神の巫女は1人で洞窟に入り、1人で出てきたということだった。
ノクトの洞窟内にモルスの兵士が潜んでいるだろうことは暗殺部隊の誰しもがわかっていたことだったが、神の巫女は普通にノクトの洞窟の最奥にある地底湖を見て帰ってくる時間程度しかノクトの洞窟の中にいなかったという。
神の巫女がまだモルスに滞在している間に、またモルスの誰かが神の巫女の暗殺を試みるだろうとカーラは考えていたが、ノクトの洞窟以降モルスは一切神の巫女に手出しをせず、神の巫女はモルスを出国して再び教会領に入ったという。
「モルス城にいる仲間からの連絡で、ノクトの洞窟から1人だけ生きて帰った兵士が、絶対に神の巫女に手を出すなと進言して、王もそれを受け入れたらしい。」
「それだけで手を引くものなの?」
カーラは少しイライラしながら足を組んで椅子に座り、テーブルの対面に座るハックに言葉を投げかけた。
イライラしているカーラを落ち着かせるため、ハックは落ち着いた言葉で説明を続ける。
「その生き残った兵士というのが、あのアデール将軍なんだってさ。」
「アデール将軍て、あの?」
「あのアデール将軍だ。モルスの英雄と呼ばれている、アデール将軍。」
カーラもその名前は知っていた。1年前の大戦で、神の巫女が戦場に乗り込んでくるという情報をいち早くつかんだアデール将軍が前線部隊を後退させたことでモルスの被害をかなり抑えたのだという。反面、アガートはそれを好機だと思い込んで前線を押し上げ、結果として元の最前線位置に現れた神の巫女の魔法によって被害が拡大した。
アデール将軍の使う部隊は情報収集能力に長け、アデール将軍はその解析が得意だと言われている。それ故に暗殺などの暗部も担っていると噂されており、何かしらの策を施して神の巫女をノクトの洞窟で迎え撃つというのであれば、適任だったと言える。
「どこまで情報が正しいかはわからないけど、アデール将軍はノクトの洞窟で部隊の精鋭を集めて神の巫女を待ち伏せしていたらしい。70人規模だったっていうから、ノクトの洞窟に配置できるだけ配置したんだろうな。でも、まるで歯が立たずに部隊は全滅。アデール将軍以外は全て肉片になって誰だ誰だか区別がつかなくなった上に、神の巫女に部下全員の眼球を抉り出されてそれを持ち帰らされたっていう話だ。」
「え……なに、それ……」
話を聞いただけでカーラは背筋が凍る思いがした。
そもそも、人体を肉片化するだけの瞬間的な爆発力を持った魔力を持つ者をカーラは知らない。水の魔法で人の体内の血を急速にかき混ぜるとか、火の魔法で血を沸騰させるとか、人を肉片にする魔法はいくつか考えられるが、現実的ではない。しかも、眼球だけを抉り出すなり残すなりするという妙に器用な魔法の使い方をしているということは、神の巫女が単純に魔力だけが強いというわけではないことを意味している。
「カーラを襲ってきたときもそうだったけど、神の巫女はかなり力を繊細に使いこなせる。ノクトの洞窟での滞在時間から考えて、1人1人の眼球を順番に抉り出したというより、まとめて殺して眼球だけ選ぶとか、眼球を残して体を爆発させるとか、そんな感じだったと思う。最悪ノクトの洞窟ごと神の巫女を生き埋めにするつもりもあったかもしれないけど、その前にやられてしまったってことだろうな。」
ハックの考察もカーラが考えていたこととほぼ同じだった。
先ほどまでモルス撤退の情報について半信半疑だったカーラだったが、ここまで具体的なおぞましいことを聞かされると、撤退もやむなしと思えてくる。
「そんなの、まともに相手するなんて無理でしょ。」
「だから、これからまともじゃない方法を考えろってさ。上からのお達しだ。」
ああそういうことか、とカーラはようやくここ最近の上層部の動きについて納得ができた。
これまでカーラが考えてきた暗殺作戦は、それなりに正攻法のものばかりだった。それではもう絶対に神の巫女に通用しないというのを上層部は知っていたのだ。
考えを丸きり切り替える必要がある、とカーラは感じ取った。
「他に情報は?」
「ノクトの洞窟は封鎖されていて、今現在、中がどうなっているかはわからない。一応岩盤崩落の危険性があるから、という理由になっているけど、まあ後処理だろう。あとは、アデール将軍が神の巫女から王に向けて何かしら伝言があったらしい。アデール将軍が王にだけ直接伝えなければならないって言ったらしくて、内容までは調べようがなかった。」
「そうなんだ……」
それからしばらく、カーラは腕を組んで無言で考えを巡らせた。
話を聞く限り、神の巫女には全く死角がない。近接戦闘では爆発を起こして数十人を一度に消し去り、遠隔からの攻撃は逆に追跡して殺しにかかる。閉鎖空間でも傷一つ付けられない。
「そういえばさ、神の巫女と一緒にいる白き異端者は何なの?」
カーラはふと最初に傭兵を使って神の巫女を襲撃したときのことを思い出した。
あのとき、差し向けた傭兵は白き異端者によって簡単に切り伏せられてしまったが、その直後にカーラが直接神の巫女に攻撃されたせいで、白き異端者の印象そのものが薄れていた。
「教会が付けた護衛という話だ。白き異端者には魔法が効かないから、魔法に特化している神の巫女と組めばより完璧ってことなんじゃないのか?道案内も兼ねているようだし。」
「でもさ、神の巫女って1人でもあれだけ強いんだから護衛なんていらない気がするけど。逆に護衛を付けるなら1人だけっていうのもおかしくない?普通最低でも4、5人は付けるでしょ。」
「確かに、言われてみれば……ノクトの洞窟ではなぜか洞窟前に残って神の巫女を1人で行かせているし……神の巫女に気を取られ過ぎてあまり考えてなかったな。あの白き異端者について少し調べてみるか。」
「今わかっていることって何?」
「名前はディーン。階級は騎士長。年齢は28。白き異端者だからか、最年少の騎士長という話だ。教会の騎士団に入る前は傭兵をしていて、それなりに名前も売れていたらしい。わかっているのはこの程度だ。」
教会の騎士団の中にもアガートの間者が紛れ込んでいるが、騎士団は縦の繋がりが強く横の繋がりは薄いため、同じ部隊にならないと情報は得にくい。教会の騎士団は約100の部隊に分かれているから、特定の誰かの情報を探るのは難しいことだった。
「傭兵から教会の騎士団って結構珍しい経歴だよね。教会の騎士団ってほとんど教会領出身の騎士団家系から集めるっていうのを聞いたことがあるし。白き異端者だからなのかな……あたしは知らなかったけど、名前が売れていたならちょっと調べれば何か出てくるかも。」
「それじゃあ、それぞれ調べて後でまとめよう。神の巫女がアガートに入るまでまだ時間はある。」
「わかった。あたしは傭兵の知り合いとかあたってみる。」
言いながらカーラは立ち上がり、外へと飛び出して行った。
◆
ディーンとリエラが教会領とアガートの国境に辿り着いたのは、最初に教会を旅立ってから43日目のことだった。
1年前の大戦でアガートの領土が一部教会領のものとなったことで国境線が南に移動しており、関所も新設され、その場所は新たにタルムの関所と呼ばれることとなった。
モルスと教会領の国境は川の中央だが、アガートと教会領の国境は開けた平地だった。アガートがきちんと整地した場所が今は教会領となっていることは、アガートにとって何よりの屈辱だった。いくらアガートが自分で蒔いた種であるとはいえ。
タルムの関所を越えるとそこにはうっそうとした森と王都まで続く1本の街道があり、その途中にいくつかの宿場町が存在していた。
タルムの関所からアガートの王都まではディーンの足で3日ほどで、比較的近い場所にあった。
タルムの関所に辿り着いた時点で夕方を迎えていたため、ディーンはタルムの関所があるタルムの街で宿を取ることにした。
いつものように教会が運営する宿に入る頃にはすっかり日が落ちていた。
ディーンが自分の部屋で荷物の整理をしていると、部屋をノックする音がディーンの耳に届いた。
これまでの旅の中でリエラがディーンの部屋を訪ねてくることはなかった。警戒したディーンが剣を取り、扉の外の気配を探っていると、もう1度扉がノックされた。
「すみません。この宿の者ですが、お客様に手紙をお預かりしております。」
その言葉を聞いてディーンは少しだけ警戒心を解いたが、帯剣したまま部屋の扉を開ける。
「あ、あのこちらを……この宿にいる白き異端者の方に渡してほしいと言われまして。」
ディーンが厳しい表情をしていたせいか、扉の外にいた宿の従業員は少しひきつった顔をしていた。
従業員が差し出したのは何も書かれていない封筒だった。何かが仕込まれている気配はない。
「これを渡してきたのはどんな奴だった?」
差し出された封筒を受け取りながら、ディーンは尋ねた。
宛名が書かれていないということは、教会からの届け物ということはなさそうだった。そもそも、教会に対しては毎日報告書を送ってはいるが返事はしないと予め言われてもいる。むしろ、教会から送られたものだと言われていればそれだけで罠を疑ったかもしれない。
「女性の方でした。髪は薄い赤色で、年齢は20代くらいかと。それでは、失礼します。」
言うだけ言うと従業員は扉を閉めて去って行ったが、ディーンの頭の中にはルルが瞬間的に浮かんだ。もうこの世界にはいるはずがないのに。
ディーンはルルの残像を頭から振り払い、ゆっくりと封筒を開けた。中には紙が折り畳まれて入っていたのでそれを取り出すと、紙と一緒に何かが袋から飛び出して床に転げ落ちた。それは、鎖に通された指輪だった。
まさかという思いでディーンがそれを拾い上げて指輪の内側を見てみると、ルルとディーンの名前が刻まれていた。かつてディーンがルルに婚約の証として送ったものと同じだった。
ディーンが慌てて紙を開くと、こう記されていた。
『ディーンへ
今まで連絡できなくてごめんなさい。
誰もいない場所で、2人きりで話したいことがあります。
今夜、アガート側の街の入り口で待っています。
ルル』
[絶対に罠だ。この状況で、このタイミングで、この場所でルルが現れるのかおかしすぎる。]
ディーンは思わず手紙を握りつぶしたが、それをゴミ箱に放り込む前にもう1度広げて読み返してみる。
ルルの筆跡に似ていた。書いてある文字が少ないために断定はできなかったが、女性にしては筆圧が強く紙がめり込むような書き方はルルのそれだった。
同封されていた指輪ももう1度よく見てみる。
ルルに贈った指輪は市販品で、特注品のように世界に1つだけしか存在しないものではなかったが、デザインも内側の文字もディーンがよく見知ったものだった。
[思い出せ。婚約したとき、ルルは誰に婚約のことを話していた?]
ルルと婚約したのはもう7年も前になる。ルルのことは何かのきっかけで事ある毎に思い出すことは多かったが、思い出さないようにしていたということもあり、記憶があまり定まらない。
『何この指輪、ぶかぶかじゃない。そういうところに気が回らないのがディーンだよね。』
『いいのいいの、このままがいいの。指にはめるのも鎖に通して首にかけるのも身に付けていることに変わりはないんだから。』
『夫婦で傭兵やるっていうのもいいよね。連携取りやすいし。』
プロポーズをした時のルルの反応は覚えている。照れくさそうで、嬉しそうで。しかし、その記憶が強力なせいで、その直後に傭兵仲間とどう接していたのかが、どうしても思い出せなかった。
[どうする?罠とわかった上で行くべきか?]
罠としては見え透いている。明らかにリエラとディーンを分断しようとしている。
ルルが残した傭兵時代の報告書を見れば筆跡は真似できる。
わざわざ手紙を宿の従業員に渡したことも疑問が残る。ディーンの居場所を知っているなら直接会いにくればいい。わざわざ呼び出す理由がわからない。
婚約指輪のこともルルが周囲に自慢していたら、当時の傭兵仲間なら覚えている者もいるだろう。
ただ、指輪のデザインや彫り込んだ文字まで詳しく覚えていて偽造できる者がいるかと言えば微妙だ。
完全なる罠だとは言い切れない。
既にもう日は暮れている。手紙に記された時間帯に入ってしまっている。考える時間を与えないのは詐欺の常套手段だ。おそらくディーンを罠に嵌めようとしている誰かは、罠だとわかった上で、それでもディーンが動くと思っている。同封された指輪が本物なのか、それはどこで手に入れたものなのか、万が一にもルルが生きているということはあり得るのか、それを確認しにやって来ると。
[リエラと一時的に離れたとして、リエラは自分の身は自分で守れる。ここは教会が運営する宿で敵も派手なことは出来ない。それに、俺に魔法は効かない。ルルの幻覚を見せられたとしても、効果はない。魔法で姿形を変えられても見破れる。それでも万が一俺が罠にかかって殺されるなり拘束されるなりしたとして、リエラの足止めとして機能はしないはずだ。教会に現在位置は知らせてある。俺の代わりが教会から派遣されてくるだろう。ルルの生死が明らかになるなら……]
ディーンは剣を携え、部屋を出て行った。
◆
タルムの街は1年前に新設されたということもあって、さほど広くもなく栄えてもいない。教会が運営する宿と周囲に数件の店がある程度で、街に住んでいるのも店の関係者くらいだった。
ディーンとリエラは今晩タルムの街に滞在するが、既にアガートへの入国手続きは済ませてある。
入国手続きを済ませた宿の宿泊客であれば、アガート側の街の入り口に行くことも可能だった。
門番に通行証を見せ、ディーンは1歩2歩と街の外へと足を踏み出していった。
アガート側の街の入り口を出るとそこはもう深い森で、街の明かりが届く範囲を出ればその先は暗闇が覆っていた。
「……ディーン……」
ディーンがタルムの街を出て少し進んだところで、森の奥からディーンを呼ぶ声が聞こえた。
明らかに若い女声ではあったが、ルルの声なのかどうかは判別がつかない。
明らかに光の届かない場所から声が発せられているのがわかる。
「お前は誰だ?」
ディーンは剣の柄に手をかけ、警戒しながら暗闇に話しかけた。すると、森の木々の隙間からぼんやりとした人影が現れた。
「誰って、そんな……わたしの声を忘れたの?」
ディーンの位置から人影の髪の色は確認できない。ただ、体格はルルに近しいと感じた。
「あのときからもう7年だ。今の俺はもう傭兵じゃない。お前は今まで何をしていた?」
「あの事故で大怪我をしたけど、ギリギリで助けられたの。でも、記憶を失くしていて……最近になってやっと思い出したんだよ、ディーンのこと。だから、会いに来た。」
話し方もルルに似ている。しかし、声の主をルルだと思い込みたいからそう聞こえるのかもしれない。
魔法で姿や声を似せているのであればディーンには効かない。しかし、単純に声色を真似ているのであれば、距離がありすぎて見破ることは難しい。
「なぜこの場所で?」
「2人きりで、誰にも邪魔されたくなかったから。」
「なぜ俺の前にちゃんと姿を現さない?」
「だって、ディーンは臨戦態勢に入っている。少しでも疑わしいところがあるなら、斬られるのがわかる。そうじゃなくて、もっと落ち着いて話がしたい。剣から手を放してくれたら、もっと前に出るから。」
どう判断すべきか、ディーンは迷った。
ルルと思しき誰かの言っていることはもっともらしいが、ありふれ過ぎてもいる。何か、2人だけしかわからないことはなかったか、考えを巡らせる。
「俺のプロポーズの言葉は?」
「……これからもずっと、一緒に戦って行こう。」
「正確に。」
「えっ……これからもずっと、一緒に戦って行こう。でしょ?」
[そうか、やはりそういうことか……]
ディーンは一瞬だけ天を仰ぎ、次の瞬間暗闇に向かって剣を振るった。微かに肉を裂いた手応えが剣から伝わってくる。
「ちょ……何するの!?」
「ルルがどれだけ俺のことを傭兵仲間に話していたかは正確には覚えていない。ただ、俺がいない場所で婚約祝いをしてもらって根掘り葉掘り聞かれたと言っていたことは覚えている。プロポーズの言葉もそこで教えてしまった、と。ただ、俺はプロポーズのとき、最後にルルを本名で呼んだ。ルルは書類上も仲間からの呼ばれ方も全てルルで統一していたが、本名は違う。俺にだけ教えると言っていた。それがお前に言えるのか!」
ディーンは気配が移動する方向に向けてもう1度剣を振った。剣はルルの偽物とディーンの間にある木に当たったが、木がそのまま切り倒され、枝が折れる音が周囲に満ちる。
『わたしの名前、本当はルルカトラルっていうの。でも、長いし呼びにくいでしょ。だから普段はルルで通してる。傭兵なんてやってると死亡届ですら傭兵としての登録名だから、本名を使うことなんてもうないかも。でも、結婚届を出すことなんてあったら、本名を使ってもいいかな。』
付き合い始めたばかりの頃、ルルはそう言って笑った。だからこそ、プロポーズのときは最後に本名を付け加えた。
『これからもずっと一緒に戦って行こう、ルルカトラル。』
ルルがこれを忘れるはずはなかった。
「なぜルルの指輪を持っていたのか、教えてもらおうか。」
怒りに満ちた声でディーンが気配のする方に向けて声をかけたとき、首筋にチクリとした痛みを感じた。
すると次の瞬間、ディーンは膝から崩れ落ちた。
「しまった、毒か……いや、これは……リエラ……」
急速に失われていく意識の中で、ディーンは1人取り残されたリエラのことを考えていた。
◆
時を遡ること2日前。
未だ教会領をアガートに向けて歩いているディーンとリエラを仲間に監視させつつ、カーラとハックはそれぞれが調べたディーンの情報を持ち寄り、作戦本部内の会議室で2人顔を突き合わせていた。
「モルスの辺境にあった村の生まれで、15歳の時に村が野盗に襲われて全滅。その後、教会領にある傭兵団に入って傭兵として様々な依頼をこなし、成績は優秀だったが、22歳で傭兵を辞めて教会の騎士団に入団。27歳で最年少の騎士長に任命される。これが白き異端者ディーンの主な経歴。」
「あたしが調べた結果も大体そんな感じ。ディーンが騎士団に入る前、教会領の傭兵団所属だったから運がよかった。モルスの傭兵団だったら調べるのにもっと時間がかかってたところだった。」
「全くもってな。ディーンは白き異端者だから、10年近く前のことでも覚えている傭兵仲間も多かった。」
「じゃあ、このことも知ってるよね?ディーンは傭兵時代に1度婚約していた。」
「ああ、傭兵の間では割と有名な話だったらしいな。ルルという1歳年上の傭兵で、仕事仲間。ただ、婚約してから間もなく任務中の事故で死んでいる。」
どの国でもどの傭兵団でも、傭兵の入れ替わりは激しい。
小規模な傭兵団であれば数年で廃業するところも多いし、廃業した傭兵団の記録を辿ることは容易ではない。けれど、ディーンが所属していた傭兵団は教会領の中でも比較的規模が大きく、50年以上続いている傭兵団だった。カーラもハックも傭兵の知り合いの伝手をたどって過去の記録を見せて貰ったり、任務を共にした傭兵から話を聞いたりしていた。
こればかりは本当に運がよかったとしか言いようがなかった。
「よくある話と言えばそうだよね。洞窟を探索中、崩落事故に巻き込まれて、一緒に任務に当たっていた仲間を含めて遺体が原形を留めていなくて判別がつかなかったって。特筆する経歴はこれくらいだった。」
「僕の方もだ。神の巫女との接点は、今回の任務以外であったか?」
「神の巫女自体、1年前の大戦で大魔法を使ったっていう以外の情報がないのよね。ディーンの方から攻めてみても、特になかった。1年前の大戦のとき、ディーンは前線に出ていないみたい。やっぱり単純に白き異端者だから護衛に選ばれたのかな。」
教会にいる間者からの情報をカーラは伝えたが、内容的には何もわからなかったと伝えたようなものだった。2人がどういうルートで旅をするのかという情報は明確なものが出てきたのに、なぜディーンが共に旅をするのか、そもそも旅の目的は何なのか、その辺りの情報は全く出て来なかった。
「まあ、理由はともかくとして、神の巫女が傍に置いていることに意味があると考えてみよう。僕たちが知らない接点が何かしらあって、神の巫女はディーンに執着しているから傍に置いている。そういう角度で考えてみるのはどうだろう?」
「ちょっと考え方として飛躍しすぎな気もするけど……執着があろうがなかろうが、例えばディーンを捕らえるなり何なりして神の巫女がディーンを置き去りにして旅を続けるならそれはそれで別の作戦を考えるし、人質として使えるなら儲けものだし、やるだけやってみる価値はあるかも。神の巫女の方を崩すことはできないっていうのは、モルスの事例を見れば明らかだもの。」
「問題は、どうやってディーンを人質に取るか、だな。白き異端者とまともにやり合っても勝てる見込みはない。新しい死体が増えるだけだ。」
ここで2人はしばらく沈黙して考え込んだ。
神の巫女を正攻法で殺そうとしても無理なことはもうわかった。
そして、それは神の巫女が常に近くにいる限りディーンも殺せないことを意味している。
また、それに加えて白き異端者は単独でも恐ろしいほど強いと言われている。魔法が効かず、筋力は素手で大木をなぎ倒せるとか岩を砕けるとも。
どう捕らえるかは別としても、まず単独行動をさせる方法を考える必要があった。
「あのさ……死んだ婚約者のルルって使えると思うの。」
「ルルの容姿を調べて魔法で変身して近付くとか?白き異端者はそれを見破って来るぞ。」
沈黙後の第一声にしてはあまりに当たり前のことをカーラが言うので、ハックは少し呆れ気味に返した。
それがカーラにも伝わってきたので、カーラはいつしかモルスが神の巫女から手を引いたという情報をハックが持ってきたときと立場がまるで反対になったな、と考えながら言葉を続ける。
「別に魔法は使わない。というか、白き異端者は魔法を見破れるっていう自負があるから、逆に単純な変装に弱いと思う。ルルが傭兵として働いていた頃の報告書を手に入れているから、それを見て筆跡を真似て、変装して人伝に手紙を渡してもらってどこかに呼び出して捕まえるっていう感じはどうかな。」
「そんな単純な罠に引っかかるのか?」
ハックは少し語気を強めた。カーラの提案する作戦は子供でも罠だと気付くような幼稚なものだと思えた。
「あからさまに罠だと思われた方がいいこともあるんだよ。その中に1つだけディーンの気を引くものを混ぜておけば、おびき出す方法は何だっていい。だから、これが使えると思う。ちょっと前に手に入れてたの思い出した。」
言いながらカーラは上着のポケットから1本の細い鎖を取り出した。鎖には指輪が通されている。
「これ、ディーンがルルに婚約の証で送った指輪なんだよね。」
「本物なのか?」
「そう、本物。」
「どうやって手に入れた!?」
ハックが机に投げ出された指輪を手に取り、その内側を確認すると確かにディーンとルルの名前が彫り込まれていた。
「話すと長いんだけど、ディーンとルルが婚約していたことって傭兵の間だとかなり有名だったみたい。ディーンは白き異端者だし、ルルもルルで女で腕の立つ傭兵ってことで目立っていたって。傭兵の知り合い何人かに聞いたらみんな同じことを言っていたから、確かなはず。
それで、2人が婚約したとき仲間内で軽くお祝いをして、ルルが結構自慢していたっていうんだよね、婚約指輪のサイズが合わなくて鎖に通して首にかけているとか、プロポーズの言葉とか。惚気たかったんじゃないかな。傭兵って任務で殺伐としていることが多いし、祝い事なんて滅多にないし。
そのすぐ後にルルが事故死して、傭兵の認識票は返って来たんだけど、婚約指輪は見つからなかった……わけじゃなかった。」
「なるほど、死体漁りか。」
それは、傭兵の中で黙認されているある種の副業だった。
任務に失敗した傭兵の死体や認識票を回収する任務を受けた傭兵は、死体が身に付けていたアクセサリーなどを届け出ることなく横流ししたり転売することがよくあった。そもそも死体回収の任務は請け負う者が少ないので、傭兵団としてもあからさまに禁止することができていない。
「そういうこと。事故現場の処理をしていた人が価値のありそうな指輪を見つけてこっそり持ち帰って売ろうとした。でも、名前が刻まれている指輪っていうのはものすごく価値がつきにくい。しかも、刻まれているのは有名人の名前。表のルートで売り払おうとしても二束三文にしかならない。だけど、そういうのを買い取る裏の業者もいる。こういう場合、有名人の持ち物は逆に価値がつく。上手く行けば本人に高値で買い取らせることも出来るし、弱みとして握っておいてもいい。」
「それを買い取って来たのか?」
「これは本当に偶然だったんだけど、傭兵仲間の間であたしがディーンのことを調べているっていうのを聞きつけて、業者の方から接触してきた。こういうのがあるけどどうするって。傭兵の知り合いに見せてまわったら、ルルに見せられたものによく似ているっていうから本物なんじゃないかな。結構な値段を吹っ掛けられちゃったけど。」
そもそも作戦に使えるかどうかわからない物に対して軍は金を出さない。
作戦が成功すれば経費として認められるが、現時点ではカーラの持ち出しになる。
その値段はおおよそカーラの半年分の給料に相当した。
けれどカーラは、これは使えると判断して金を払った。その辺りの思い切りはいい。
「これでおびき出すってことか。」
「そういうこと。これが仮に偽物だとしても、本物と似ているならどうしてそれが用意できたのか気になるでしょ?死に別れた婚約者に贈った後で行方不明になった指輪を、婚約者に似た女が手紙と一緒に持ってきた。手紙の筆跡は婚約者のものに似ている。婚約者は死んだはずだけど、死体を確認したわけじゃない。万が一にも本物だったら……」
「確かめないわけにはいかない。しかも、偽者だった場合は見破る自信がある。僕が同じ立場だったら……多分誘いに乗る。」
「あたしも同じ。だから、作成はこう。神の巫女とディーンがアガートに入って最初の宿に入ったら、あたしがルルに変装して宿屋の従業員経由で手紙を渡してもらう。ディーンが誘いに乗らなかったらもうそこまで。死んだ婚約者に贈った婚約指輪で何も反応しないなら、何も未練がないってこと。他の手段を考えるしかないし、指輪も諦める。でも誘いに乗ってきたら街の外でディーン1人の状態を作って、あたしがルルの振りをしてディーンに話しかける。」
「いや、いくらなんでもそれは危険だろう。相手は白き異端者だぞ?」
「わかってる。でも、危険を冒さなければ神の巫女と分断できない。今回、ディーンの傭兵時代を調べていた中で、幸運だと感じたことは何度もあった。ディーンが所属していた傭兵団が健在で当時の記録を見ることができて、元婚約者に贈った指輪が手に入った。確実に今あたしたちに風が吹いてる。今が仕掛ける時だよ。
それに、絶対相手の間合いには入らないようにするし、騙しきれるとも思ってない。ルルについてはいろいろ情報を仕入れた。傭兵になってからの経歴や、ディーンと一緒になった仕事のこととか出会いとかプロポーズの言葉とか、いろいろ。でも、絶対どこかでぼろが出る。婚約までした相手なら、2人しか知らない何かがあって当然だもの。ただ、そういうところで絶対にディーンは怒る。侮辱されたと思う。絶対にあたしを死なない程度に痛めつけて、問い詰めてルルの情報を引き出そうとする。そのタイミングで、ハックに動いてほしい。」
「毒針とかの暗器系統の攻撃をすればいいってことか。」
ようやくハックはカーラの作戦の全貌が見えた。
白き異端者とまともに戦うなら少なくとも10人は用意しないといけない上に必ず犠牲が出る。
しかし、相手の怒りを誘って不意打ちをすれば、犠牲は出ないかもしれないし、人質として捕らえることも出来そうだった。
ハックは元々後方支援が多く、攻撃に参加するなら弓などの遠距離からの手段を用いることがほとんどで、必然的にその腕も上がっていた。
「そう。白き異端者は近接戦闘なら無敵に近い。昼の明るさがあれば遠距離攻撃だって暗器攻撃だって多分避ける。でも、街灯のない暗闇であたしにだけ神経を向けることになれば、遠距離から毒針を飛ばせば当たる。」
「責任重大だな。遠距離攻撃が得意なのは確かだけど、動き回る白き異端者に当てるのか。」
「またまた謙遜なんだから。ハックより遠距離攻撃の精度がいい人は見たことないよ。」
「まあ、やるだけやってみるか。」
2人の顔には、少しだけ笑みが浮かんだ。
◆
「まさか、こんなに上手くいくとは思わなかった。」
倒れ込んで気を失ったディーンを見下ろしながら、カーラは小さく呟いた。
上手くいったとはいっても、誤算だったこともいくつかあった。
まずは、ディーンの間合いが想像以上に広かったこと。通常の近距離攻撃で剣の届く範囲よりも更に倍くらいの距離をカーラは取っていたが、それでもディーンの刃はカーラに届いた。当たったのが腕だったので、再びすぐに距離を取ることができたが、もし足に当たっていたら、そのまま動けずにディーンの刃に捕らえられていたかもしれなかった。
次に、ディーンが剣で木を切り倒してきたこと。白き異端者が普通の人よりも筋力が強いということは知識として知ってはいたが、これほどまでとは思っていなかった。剣を思ったように振るえないようにするためにわざわざ木の多い場所を選んだのに、その意味がほとんどなかった。
白き異端者は素手で大木を倒すという噂は知っていたが、想像以上だった。
「上手く当たってホッとしたよ。」
ディーンとカーラのいる場所から少し離れて身を潜めていたハックは、カーラよりも少し遅れてディーンの倒れている位置までやってきた。
「斬られたんだろ、カーラ。傷を見せてみろ。」
「ああ、うん。ありがと。」
カーラがディーンに斬られた左腕をハックに差し出すと、ハックはすぐに回復魔法をかけ始めた。
「あの間合いでこの深さを斬ってくるのはさすがとしか言いようがないな。カーラの反応が少し遅かったら腕1本持っていかれてもおかしくなかった。」
「気を付けてはいたんだけどね。白き異端者が強いっていうのは知っていたけど、想像以上だった。今まで何人も刺客を送っていたけど、全然本気じゃなかったんだ。」
「同感だ。」
そうハックが言い終わるくらいのタイミングで、ハックの回復魔法によってカーラの傷は癒えた。いくら魔法で傷が回復するとはいえ、切断された腕を再びつけることは難しい。ギリギリ避けられて本当によかった、とカーラは胸をなでおろした。
「ハックが早めに毒針を当ててくれて助かった。それで、どの程度の毒なの?」
「殺さずに動きを封じるっていうのはなかなか難しくてね。普通の人間なら3日くらい目が覚めないくらいの調合にしたけど、白き異端者も同じなのかはわからない。なにせ、実験記録がない。」
「とりあえず、目が覚めそうになったら追加するってことで、拘束しようか。神の巫女に気付かれないうちに、先に王都に移送してもらうように手配はしてある。それで、次は神の巫女の方だよね……」
「ディーンを拘束したっていう証拠になりそうなものを持って、神の巫女と交渉……」
言いながら2人は少し暗い気持ちになった。
ここまでの作戦は順調に進んでいる。あまりにも順調にいきすぎて怖いくらいだった。
しかし、ある意味今回の作戦の本番はここから始まる。全ては神の巫女に対してディーンが人質として機能するのかどうかにかかっている。
ディーンを人質に取ったからといって、神の巫女がこちらの要求を呑んでくれるかどうかは、まだ未知数だ。まかり間違えば、その場で殺される危険性がある。神の巫女のこれまでの旅の中でどれだけの人が殺されているか、そろそろ数を把握したくなくなるくらいの人数に達している。
それでも、カーラとハックはやらなければならなかった。
白き異端者であるディーンを捕らえたという高揚感はもう消え失せていた。
今回の作戦はカーラとハックに一任されている。たとえ失敗しても国への損害がさほど考えられないということもあり、一切を任された責任がある。
自然と無言になってしまった2人の耳に、しばらくすると複数の近付いてくる足音が届いた。
ディーンを王都へ移送する部隊が到着したようだった。
◆
そろそろ就寝しようとベッドに入ろうとしたリエラの耳に部屋の扉をノックする音が届いた。
これまでの旅の中で、宿に入ってディーンと別れた後は、翌朝出発するまでディーンを含めて誰かが訪ねてきたということはなかった。
ディーンが言うには、教会が運営する宿はアガートやモルスの人間が手を出しにくく、その中でも最上級の部屋となればまず安全だということだった。ただし、敵が国際問題などを考えずに宿の従業員を全員制圧して乗り込んでくるなどの例外的な事態が発生しないとは言い切れないので、警戒は怠らないように、とも。
旅を始めて数日はそれなりに警戒もしていたが、教会運営の宿というのは本当に安全なようだったので、最近はそこまで気にしていなかった。宿に泊まるときは必ず部屋自体に結界を張って、リエラの許可がないまま侵入してくる者がいれば丸焼けになるようにはしていたが。
リエラが少し身構えて魔法で扉の外を見てみると、少しだけ見覚えのあるような男女が部屋の前に立っていた。一見すると傭兵のような服装をしていて、武器も携帯している。濃い緑の髪の女性と、濃い青の髪の男性といえば、旅を始めたばかりの頃に殺し損ねた刺客だったな、とリエラは思い出した。
もう少し魔法の範囲を広げて宿の中を見渡してみると、宿の従業員が何人か倒れているのが見えた。
そういえば、この街は新しくできたばかりで宿の規模も他と比べて小さい。ディーンの言っていた例外的な事例が起こっているようだった。
そして、ディーンの姿は宿の中のどこにもなかった。
[こうなることは、ちょっと想定外……]
そう心の中で考えながら、リエラは部屋の扉を開け放った。
「いつかの殺し損ねた刺客の方々とお見受けしますが、ディーンがここにいないことに関係が?」
リエラはディーンにいつも向けている笑顔を封印して、冷たくそう言い放った。殺そうと思えばいつでも殺せるが、まずはディーンの行方を知らなければならない。
ディーンは魔力がないから、魔力の気配で位置を確認することができない。一旦目を離してしまうと、魔法で探すことが難しくなってしまう。
「あなたが神の巫女ということでよろしいですか?僕はアガート軍のハック、こちらはカーラです。あなたが今おっしゃられたディーンについて話があります。」
ハックと名乗った濃い青髪の青年は、リエラを見て少し面食らったような表情を見せた。あえて隠す必要もないかと、普段魔法で濃い茶色の髪に偽っていたのを解いて黒髪になっていたせいかもしれない、とリエラは考えた。
「わかりました。お入りください。それと、私のことはリエラと呼んでください。一々神の巫女と呼ぶのは面倒でしょうから。」
リエラはわざと背中を見せて2人を部屋へ招き入れた。
攻撃してこないところを見ると、殺すというよりも交渉するつもりなのだろう、と考えられた。
「それで、ディーンをどうしたのですか?」
リエラはハックとカーラの方へと向き直り、殺気を放ちながら質問を投げかけた。
下手なことをすれば今すぐにでも殺すという意思表示として。
「こちらで拘束しました。現在、王都へ移送中です。神の巫女……リエラ様には我々と同行して王都へ来ていただきたいと考えております。」
言いながらハックはディーンが常に身に付けていた剣を差し出してきた。
リエラが毎日見ていたディーンの剣に間違いなかった。
「王都へ行って、どうするのです?」
「しばらくの間、王宮に留まっていただきたい、と考えております。」
[すぐに殺さない?教会と交渉するとも思えない……どういうこと?]
リエラはアガートの意図を測りかねていた。
ノクトの洞窟での一件がアガートに伝わっていないはずはない。それは確証が持てる。あれだけ派手に暴れたのだから、間者を通じてノクトの洞窟での顛末はアガートに伝わっているはずだった。しかし、モルスは手を引いたのに、アガートは姦計をもってリエラを拘束しようとしている。
ということは、神託が降りているという伝言がアガートに伝わっていないのではないか、リエラはそう思い至った。
ノクトの洞窟で生き残らせた指揮官は生真面目そうな男だった。
あのとき、
『王に伝えなさい。』
と言ったことを忠実に守って王以外の誰にも伝えなかったというのであれば、今の状況になることは考えられる。正攻法でリエラを殺すことは無理だと考えた結果、ディーンを人質に取れないかという結論に至ったのだとすれば。ディーンがリエラの弱点になっているのではないかと思われたのだとすれば。
「従わなかったら?」
「ディーンの命の保証はない、とだけ。」
「……そうなりますよね、やっぱり。」
ハックの申し出を聞いて、リエラは思わず溜息をついた。
リエラが短時間で導き出した答えは、おおよそ当たっていた。
実際、ノクトの洞窟でリエラの言葉を聞いたのは、モルスの中でもトップクラスの実力と名声を併せ持つアデール将軍だった。もっと地位の低い兵士であったなら、リエラの言葉がモルスの中で広まったかもしれなかったが、アデール将軍は王にのみリエラの言葉を伝えていた。その結果が今の現状を生み出していた。
[この人たちはどこまで気付いている?]
あらゆる魔法を使いこなせるリエラだったが、人の心を読むことはできない。
ディーンの命を握られたらリエラが迂闊に動けなくなることは知られてしまったが、それ以上のことをどこまで知っているのか、現時点では判断が難しかった。
また、ディーンは王都に移送されている途中だという。リエラはアガートの地理に詳しくはなく、今現在のディーンの同行者が誰であるかも知らない。ディーンが今現在も移動しているのなら、魔法で捜し出すのは極めて難しい。ここで2人を殺した後ですぐにディーンを助けに向かうのは不可能だった。
「わかりました。従います。」
言葉ではそう伝えたリエラだったが、心の中は怒りに満ちていた。
あっさりと敵に捕らえられてしまったディーンと、あまりに旅が順調すぎて警戒を怠っていた自分とに。
それが更なる殺気となって周囲に漏れ出したのか、近くにいたカーラは思わず小さな悲鳴をあげた。ただ、ハックは表面上は平静を保っているようにリエラには見えた。
「馬車を用意してあります。飛ばせば明日の昼過ぎには王都に着きます。その後、王城に滞在していただくことになります。」
ハックがリエラを先導するように部屋を出たので、リエラはハックの後について行くことにした。




