第一章
眼下に広がるのは、目映いばかりに輝く光の渦。
今まで経験にしたことのない光と音の洪水に、それを見つめていた黄金の瞳が天空へと向けられる。
くすんだ三日月の光は、汚れた空気のせいで本来の輝きを失いながらも、ただじっと遙か彼方から地上を見下ろしているだけだ。
「ここに、いるのか」
どことなく苦々しさを含んだ呟きを放つと、それを肯定するかのように青年の白金の髪を風が揺らす。
腰まである長い白金の髪は一見して無造作に伸ばされているが、その美しい輝きを見る限りはそうととらえられることは出来ない。精悍な顔立ちの中でも一際目立つ黄金の瞳は凛とした強さを誇り、細いように思われる(青年の)体躯は、見た目とは裏腹に鍛え上げられている事が一見して分かる。青年はその身を薄布で隠し、腰には一降りの細身の太刀が下げられていた。
もしもその姿を見る者がいたならば、その衣服や青年の容姿に驚愕したであろう。
だが、彼がいるのは地上より数百メートルは離れている天上であり、ネオンによって光る街の中からはその姿を見ることは不可能なことだ。
無論、何者かに見られることを懸念して、青年は自身の力を使って周囲に溶け込むよう細工している。とはいえ、それすらも最低限の力を使用してのことだなのが。
「始まるのだな」
ぽつりとした呟きは、闇に溶け込む。
己の言葉に苦く笑うと、青年はふと頭上の月を見上げた。
「ようやく、あの御方との約定が果たされる刻が来た、か……」
どれだけの時間が流れようとも、あの時に交わされた言葉は、今もすぐに思い出すことが出来る。
あの言葉があったからこそ、待ち続ける苦渋と忍耐に精神が幾度となくすり切れそうになりながらも、青年はそれに耐え続け、そして待ち続けることが出来たのだ。
そう考えていた刹那、何かに気づいたように青年は眼を細める。
「存外、早かった、と言うべきなのだろうな」
皮肉に溢れた言葉は、『彼等』には届いてはいないだろうが、それでもそう呟いてしまうのは仕方が無い。
自分の気や力は隠してこの世界に降り立った。だが、青年達の『敵』である彼等は、この世界に自分達が降り立つことを前々から察知しており、細かい編み目のようにあちこちに自分達の気配をかぎつける術を取り付けていた。
たとえどれほど力を隠していようとも、この世界では自分は異質な存在だ。そのため、すぐにも彼等は自分の存在に気がついたのだろう。
そして……。
「今まで平穏に暮らしていた者達が、突如戦に巻き込まれる……果たして無事に済むのやら」
ふとよぎった考えに、苦々しい表情が青年の顔に浮かぶ。
自分達の存在意義を考えれば、戦いは当たり前のことでしかない。けれど、目覚めたばかりの者達が、その事実を簡単に受け入れることが可能なのだろうか。
どれだけ熟考しても、簡単に答えなど出るはずもない。短い溜息とともに青年はそれを打ち切り、今までとは違う冷ややかな雰囲気を纏った。
もしも見る者がいたならば、その姿に畏怖を抱いただろう。まさしく鬼神と呼ぶに相応しい空気が、青年を中心に広がっているのだから。
「貴様らの思い通りに、全てが運ぶと思うなよ。
我らは、決して負けはせぬ」
小さく吐き出された声とともに、青年の身体から言いしれぬ感情が迸る。
憤怒、悲哀、それらが渾然となった殺気が青年の身体を包み込んだ。
それに同調したかのように、ふわり、と青年の白金の髪が揺らめきながら空に浮かび上がる。
だが、すぐにその感情を抑えつけ、青年は眉根を寄せた。
「しかし、今の皆では、あの御方達の意を次ぐのは重いことかも知れんな」
封じられた記憶を全て思い出した時、皆が皆それを受け入れるかどうかが分からない。
その為に、青年はどう対処すべきか今だに判断出来ない事柄なのだ。
しかし……。
「皆それを乗り越えてもらわなければならんのだが……どうなることやら」
微かな溜息が、青年の唇からこぼれ落ちていく。
自分達がこの世界に存在出来るのは、奇跡でもなどでは無い。ただただ、全ての犠牲の上に成り立っているのだ。
この世界に生まれた意味。
それは、散らざる得なかった者達の意思であり、願い。
自分達をこの世界に逃すためだけに、死を厭うことなく戦った者達や、全ての命をかけてここに送り込んでくれた主の希望だ。
彼らは、自分達の命をかけてそれらを託して逝ってしまった。
その思いを受け取ることは、今の『彼ら』にとっては重圧になるかも知れない。
けれど……。
「それもまた、宿命というか」
この事は、他の誰にも代わることは許されない。それこそが『彼ら』に与えられた使命であり、そして自分達の悲願なのだから。
それをもっとも受け入れなくてはならない存在。
その顔を思い出し、青年は僅かに眉を寄せた。
「重さに、潰れてくれるなよ」
青年がこの世界に降り立った理由。それは、この地に『彼』の気配が明確化した為だ。
無論のこと、それが青年達と対立する者達にも感づかれているのは、ほぼ確定しているといっても過言では無い。
この世界に生まれ落ちる前の『彼』は、青年と同等の力をもつだけではなく、かの御方の、青年達の王の嫡子として生まれた。
それ故に、『彼』は他の者達よりも重い責任を負い、敵対している者達にとっては真っ先に殺さなければならないと考えられているといっても良いだろう。
だからこそ、『彼』には全てを乗り越え、戦ってもらわなければならないのだが……。
もう一度、青年は視線を下界へと移す。
全てが、動き出した。
回り始めた歯車を止めることは、もはや誰にも出来ない。
幾分か鋭い光を込められた黄金の瞳が、射貫くように夜を忘れた街並みへと注がれる。
だが、すぐにそれを閉ざすように瞼を閉じた後、不意に青年の姿がその場からかき消えた。
後に残されたのは、静かに輝く三日月と柔らかく吹き抜けていく風のみ。
鈍く輝く月は、まだ何も知らぬ彼等の戦いを見守るように、緩やかに下界を照らし出していた。