その二
店をアランに任せて屋根裏部屋へと足を踏み入れたファンファーナは、小さな窓から漏れる光を頼りに壁際にある机へと向かった。
主が不在の部屋は、案外に綺麗だ。毎日掃除をしていたのだろう。
綺麗好きなイーシスらしく、無駄な物が置かれていない。
「……本?」
イーシスの失踪の手がかりを掴もうと整頓された机をあさっていたファンファーナは、分厚い古書を見つけた。
孤児院育ちのイーシスは、読み書きがあまり得意ではない。
幼子が好む童話で精一杯だというのに、こんなに難しい本を読めるのだろうかと手に取った。
セルヴィックに借りたのだろうかと訝しく思いながらめくると、目印のように差し込んである紙切れに気づいて手を止めた。
その頁を開くと、背に美しい翼を生やした人間の絵が飛び込んでくる。
「有翼人……」
悠々と空を駆け、地上を見下ろしながら微笑む姿は、天の使いのような優麗さがあった。
とても同じ人間とは思えない清廉さをまとっていた。右手に黄金の錫杖を持ち、それを振り上げている姿は、まるで神罰を下すアウリヴァーン神のようだ。
遠い昔、人々の過ちによって魔物がはびこるようになった頃。
信仰心を失った彼らの目を覚ますために、アウリヴァーン神が稲妻を落としたという。
地面が割れるほどの激しい稲妻により、数多の命が失われた。
けれど、のちに神の審判と呼ばれる稲津のおかげで、聖ウィルトン一世が誕生したのかもしれない。
「神か、人か…ね」
絵の題名を指先でなぞったファンファーナは、ぽつりと呟いた。
イーシスなりに有翼人のことを調べていたのだろう。
小さな紙切れには、下手くそな字で、店や通りの名前が書かれていた。
おそらく捜索した場所らしき名前には、バツ印があった。
手にとって紙を眺めたファンファーナは、まだバツ印がつけられていないところを探ってみようと思ったが、字が汚すぎて読めたものではなかった。
ほかになにかないかと部屋中を探してみたが、特になにも出てこなかった。
「……どこに行ったのよ」
セルヴィックだけでなく、イーシスまでいないという状況が怖かった。
大切な人たちが突然消えてしまった。
こんなことなら依頼を引き受けなければよかったと考える醜い自分がいて、それも嫌だった。
しょせん自分は甘やかされて、鳥籠の中で大事に育てられただけなのだ。
『燃え』を求めて動き回っても、いざ事件が起こるとなにもできない。
イーシスのように捜し物が得意なわけでもなく、セルヴィックのように冷静に物事を判断する力量もない。
(どうすればいいの……?)
わからない。
どうしたら二人を見つけられるかなんて。
火の消えた心は、まるで木枯らしが吹いているように寒々しかった。
しばらくの間、ぼんやりと佇んでいたファンファーナだったが、なにかを振り払うように緩く首を振った。
(駄目……っ、ちゃんと考えないと)
考えて、考えて、しっかり行動しないと。
もしかしたら彼らは自分の助けを待っているかもしれないのだから。
きゅっと紙切れを握りしめたファンファーナは、部屋を出ると階段を駆け下りた。
「アラン!」
「へ、へいっ」
「お茶を淹れて! とびきり熱いやつねっ」
片付けを終えて、暇そうに机に片ひじをついていたアランは、ぴんと背筋を伸ばした。まじまじとファンファーナの顔を見ると、「あっしがですか?」と戸惑いの色を浮かべた。
「ほかにだれがいるというの?」
「は、はぁ、まあ、やりますとも」
さも当然に言い放つと、気乗りしなさそうに腰を上げたアランは、奥へと引っ込んでいった。
面倒くさそうにぶつぶつ文句を垂れながらも、どこかその顔は嬉しそうだった。
「はい、どうぞ」
アランが淹れてくれたお茶は、不思議な匂いがするものだった。
薄荷でも入っているのだろうか。
胸がすぅっとする香りと、茶葉の芳ばしい香りが複雑に混じり合って、鼻こうをくすぐった。
もくもくと湯気が立つお茶をこくりと一口飲んだファンファーナは、その後味の良さに驚いた。
「美味しい……ちゃんと淹れられるのね」
「そりゃ、あっしも独り身が長いですからね。ファナ様と一緒にせんでくだせぇ」
照れたように頬に朱を走らせたアランは、それをごまかすかのようにこほんと咳払いをした。
ファンファーナは、凍えていた心が春の陽気を取り戻すのを感じていた。
ああ、そうだ。
一人じゃない。
火傷したらしいアランの指先に目を留め、ちょっとだけ涙が出そうになった。
考えもなしに一人で突っ走ろうとするのは、きっとファンファーナの悪いクセ。
熱さをもろともせずに飲み干したファンファーナは、アランを見上げた。
「アラン、お店はしばらくの間、臨時休業とするわ」
「それは……」
「駄目って言わないで! わかっているわ。危険なことくらい。でも、決めたの。わたし自身の手で二人を……ううん、依頼人の旦那さんも見つけるって。そのためにここに来たんだから」
「ファナ様……」
困ったようにがしりと頭を大きな手で掻いたアランは、うぅーと小さく唸った。
セルヴィックの野郎が~とか、ぶつぶつと呟く。
が、意志の固いファンファーナの顔をちらりと見ると、ああ! と声を上げた。覚悟を決めたのか、ぐっと表情を引き締める。
「わかりやしたよ。ファナ様がそう言うんだったら、あっしもお手伝いしやしょう。……ファナ様を野放しにしておくほうが怖いですからね」
「失礼ね。珍獣じゃないわよ」
ぶすっと頬を膨らませるファンファーナに、がしがしと頭を掻いたアランは苦く笑ったのだった。