その二
「セルヴィック!」
王宮から戻ったとの知らせを受けたファンファーナは、玄関口へと急いだ。
そこには、ずぶ濡れになったセルヴィックの姿があった。
急な雨を凌ぐことができなかったのだろう。
使用人から布を受け取りながら、濡れた髪を片手でかき上げるセルヴィックに、周囲から感嘆としたため息がこぼれ落ちた。
雫が顎を伝うさまでさえ色香が漂い、濡れて乱れた髪の毛がいつもとは違った艶を生んでいた。
素敵……とセルヴィックに見惚れる使用人たちとは違い、ファンファーナは顔色一つ変えずに彼に詰め寄った。
「なんです? 私の出迎えにしては、怖い顔ですね。可愛らしく、笑顔の一つでも浮かべてみればいいものを」
「とぼけないで。兄様のところへ行っていたのでしょ?」
「やれやれ、耳ざといですね。どこから仕入れてきたのか。困った姫君ですね」
「なにを言われたの?」
「決まっているでしょ。いつも通り、お前が大人しくしているようにと釘を刺されましたよ」
過保護なんですから、と肩をすくめるセルヴィックは呆れているようだった。
「本当に? 本当にそれだけ?」
「……どうしたんです。お前にしては珍しくしつこいですね」
「だって……」
「少しの間です。すべてを私に任せ、この離宮で静かに過ごしていなさい」
暗に有翼人の捜索の件を言っているのだと気づいたファンファーナは、悔しそうに唇を噛んだ。
「……おやめなさい。傷がつくでしょ」
濡れたせいで冷たくなった指先が、すっとファンファーナの小さな唇に触れた。
クセで、つい噛んでしまうファンファーナは、こうしていつもセルヴィックに注意をされていた。
でも、それはファンファーナを思ってのことではない。
(わたしが怪我をしたら、セルヴィックが兄様方に怒られるから……)
そう、すべてはそのためだ。
セルヴィックの中で自分はただの護る対象で、忠誠を誓う相手は雇い主である兄様たちだけだ。
きっと兄様たちがセルヴィックをクビにしたら、彼はなんの感慨も持たずにファンファーナのもとを離れるだろう。
それは予想ではなく確信であった。
「……っ、もぅっ、セルヴィックなんて知らない!」
ファンファーナは彼に背を向けると駆け出した。
そのまま自室に閉じこもる。
「わたしだけ仲間はずれ……」
こぼれ落ちた言葉が、小さなトゲとなって心臓に突き刺さる。
少しくらい話してくれてもいいのに……。
ファンファーナに伝える内容ではないと判断したら、セルヴィックは絶対に口を割らないだろう。
そして、秘密裏に事を進めて解決してしまうのだ。
ファンファーナには事後報告として説明されるだけ。
これでは、なんのために『ファンファンのなんでも屋』を設立したのかわからない。
寝台のシーツにくるまって拗ねていると、部屋付きの侍女たちが入ってきた。
「――姫様、お茶の時間帯ですわ」
「熱石をちゃんと使いましてよ」
「今日は趣向を凝らして花びらを浮かべてみましょう」
さあさあ、こちらへ……と慣れた様子でファンファーナをシーツの中から引っ張り出すと、続き扉から隣の部屋へと連れて行った。
蝋燭の明かりが照らす室内に、激しく窓をたたく雨音が響いた。ときおり薄暗闇から黄金の線が走っては消える。
雷雨とは珍しい。
まるでファンファーナの心情を表しているかのようだった。
窓際の椅子へと座らされたファンファーナは、真っ白な円卓に並べられたものを見て目を見開いた。
「これ……」
口の中でとろける砂糖菓子、甘酸っぱいジャムをたっぷり塗ったクッキー、生クリームがたっぷりかかったシフォンケーキに、サクサクのアーモンドパイ。
色鮮やかに盛り付けられたお菓子は、どれもファンファーナの好物ばかりだった。
いつもは一種類だけなのに、今日は豪勢だ。
「さ、お熱いうちにお飲み下さい」
花びらを浮かべた香り高い紅茶は、東にある国から取り寄せたのだろうか。
いつもより甘い香りがする気がする。
ファンファーナ好みに、熱々のものを用意してくれたのだろう。ゆらりと立ち上る白い湯気がいつもより濃かった。
「天気がよければ、東屋で楽しめたのですけれどね」
「明日になれば雨も止みましょう。雨粒が朝露のように光って、それはそれで趣がありますわ」
「あら、それは楽しみですわね。ねぇ? 姫様」
ああ、そうだ。
ファンファーナが塞いでいるとき、彼女たちはこうして慰めてくれる。
言葉には出さない気遣いが嬉しかった。
「……そうね、楽しみだわ」
ありがとうと感謝を伝える代わりに、ファンファーナはにっこりと微笑んだ。
美味しいと紅茶やお菓子を口に含めば、侍女たちも口元を緩ませた。
ほのぼのとした空気が流れる中、ファンファーナを退屈させないようにと侍女たちが王宮のおかしな噂話を持ち出した。
まあ、そんなことが? と笑い声が広がる。
楽しげな声を聴きながら、アーモンドパイをほおばった。
ここで働く者たちの大半は、ファンファーナが離宮の主人となったときからのつき合いだ。
気心も知れ、まるで家族のような存在だ。
節度は弁えつつも、時には姉のように叱ったり、甘やかしてくれる彼女たちが大好きだった。
ふっと兄の言葉を思い出したファンファーナは、少しだけ瞳を曇らせた。
だからこそ、彼女たちの命を脅かしたくない。
セルヴィックに言われた通り、ファンファーナはただ待つことしかできないのだ。