第三章
「ああ! ボクの薔薇の蕾ちゃん。ご機嫌は麗しいかな?」
離宮へと戻ったファンファーナが息を吐く暇もなく、来客があった。
黄金の髪をなびかせながら入ってきたのは、太陽神かと見まごうばかりの美貌の持ち主だった。
一気に室内が華やぐ。
彼の周りは、金粉が舞っているようだった。
流れるような動作で長いすに腰掛けるファンファーナに目を留めた彼は、なにかを見極めるかのように目を眇めた。
たったそれだけで、空気が硬質なものへと変わる。
「兄様……?」
心の底まで見透かされるような双眸を前に、けれどファンファーナは緊張感もなくゆっくりと小首を傾げた。
訝しむファンファーナを黙って見つめていた美貌の青年は、ようやく表情を和らげた。
が、それも一瞬のことで、すぐに形のよい眉を潜めた。
「ああ、いけないよ。まだ本調子ではないのだから、寝台に横になっていなければ。兄に会いたくて急く気持ちは理解できるのだけど、無理はいけない。病弱なお前のことだからね。また寝込んでしまうよ」
「ありがとうございます、兄様」
天蓋付きの寝台に身を沈ませたファンファーナは、弱々しい笑みを浮かべた。
黄金の髪と瞳を持つことから太陽神の化身と称される彼は、三番目の兄であった。名をレクサックスという。
争いごと厭い、音楽や芸術を好む優しい兄だが、見た目ほど頭の回転は鈍くない。
兄たちのだれよりも鋭い勘の持ち主だろう。
「……ごめんなさい、昨日は体調が優れず。せっかくお越しいただいたのに……」
「ああ、可愛いことを言う。おまえの体が第一だよ。兄様は、おまえに会うためだったら毎日でも山を越え、海を渡ってもいいよ」
「まあ、兄様ったら」
ふふふ、とファンファーナが笑うと、寝台の横にある椅子に腰かけたレクサックスはまなじりを落とした。
なにも追及してこない兄に、ファンファーナもほっと胸をなでおろした。
昨日離宮を訪れたレクサックスを影が仮病を使って追い払ったらしい。よほど、疑惑の目に耐えきれなかったのか。
あの探るような目が怖い! と影は言っていたが、ファンファーナにはそれがちっとも理解できなかった。
目の前にいる兄を神々しいと感じることはあれど、恐怖を感じたことは一度もない。海原のように広い心を持ち、糖蜜よりも甘く甘やかしてくれる兄だというのに。
「さ、何か必要なものはないかい? おまえが欲しいといえば、西でも東の果てからでも取り寄せるよ。それとも、ドレスを新調しようか。おまえの美しい髪を飾る宝飾も捨てがたいね」
「お気持ちだけ頂戴しますわ」
ファンファーナは、苦笑した。
離宮で暮らすファンファーナを不憫に思ってか、兄たちは過剰なくらい世話を焼く。
それこそ望めば城の一つでも建ててくれるだろう。
――自由以外は、すべて手に入るのだ。
自由を与えられない代わりに、何不自由ない、真綿にくるまれた心地よい檻の中で暮らすことができるのだ。
「それはそうと、セルヴィックの姿が見えないようだね。病に臥せるおまえを残してどこへ消えてしまったんだろうか」
「お使いを頼んでいますの。しばらく戻らないと思いますわ」
「ああ、そうだったのか……」
セルヴィックを探すように周囲に視線をやっていたレクサックスは、至極残念そうに肩を落とした。
「セルヴィックに用事でしたの?」
「ああ、いや……」
言葉尻を濁したレクサックスは、病人とはいいがたい健康そうな肌色のファンファーナをまじまじと見つめた。
「兄様……?」
「なにか、近頃変わったことはあったかい?」
「変わったこと、ですか……?」
「ああ、ないのならいいのだよ。うん、大丈夫だ。おまえが幸せに暮らすことが、ボクたちの望みだよ。嫌なことがあったら、なんでも言いなさい。……この離宮からは出してあげられないけれど」
レクサックスは、澄んだ眼差しを悲しげに曇らせた。
「気になさらないで、兄様。わたしは十分幸せです。だって、兄様たちもときおり遊びに来て下さるでしょ?」
「ああ、ボクの可愛い薔薇の蕾ちゃん! なんて健気で、純粋なんだろう。ボクは毎日でもおまえの顔を見たいよ。父様も、おまえのことを心配しておいでだよ」
「! 父様が……?」
ファンファーナの顔色が変わった。
パッと喜色を浮かべてファンファーナは、おずおずと問いかけた。
「父様は息災ですか?」
「もちろんだとも」
「そう、ですか……」
ファンファーナは安堵の息を吐いた。
「やれやれ、悲しいことだね。ボクら兄弟がいくら愛情を注いでも、おまえは父上の一言で一喜一憂するのだから」
「だって、父様はこの国で一番偉大で格好いいですもの」
「ふむ、それは焼けるな」
そう嘯いたレクサックスは、ファンファーナの絹糸のような美しい髪の毛を優しく撫でた。
「さ、少しお休み。ボクは、おまえの顔を見たかっただけだからね」
「はい、兄様」
女人のような白く細い指先が心地よくて目を細めていたファンファーナは、従順に頷いた。
いい子、と柔らかく笑んだレクサックスは、顔を近づけるとファンファーナの額に口づけを落とした。
「おまえに太陽神の加護があらんことを」
染みひとつない白皙の美貌を間近に拝んでいたファンファーナは、くすぐったそうにはにかんだ。
いつまで経っても、小さな子供に見えるのだろう。
幼いころ、夜を怖がってなかなか眠れなかったファンファーナ。
夜が来るたびに怖いと言って泣きじゃくるファンファーナを、城から駆け付けた彼があやしてくれたものだ。
『泣かないで、ファーナ。ほら、暗闇の中に、太陽が輝いているでしょ? もう、怖がらなくていいんだよ。ぼくがいるから……そう、安心していいんだよ』
そう言って、ファンファーナの丸くて白い頬や額にキスをして、ファンファーナが眠るまで手をぎゅっと握って傍にいてくれたものだ。
もちろん、勝手に城を抜け出した彼は、こっぴどく乳母たちに叱られていたけれど、ファンファーナが闇を怖がらなくなるまでそれは続いた。
変わらない兄の優しさにほっこりと胸が温かくなっていると、もう一度ファンファーナの髪を撫でたレクサックスが静かに腰を上げた。
兄が行ってしまうのがなんだか寂しくて、姿が見えなくなっても残像を追いかけるように扉を見つめていたファンファーナは、再び光が消えてしまった室内を見まわしため息を吐いた。
淡紅色の女の子らしい部屋には、兄たちの贈り物が所狭しと並べられている。
どの調度類も一流の職人が数年を費やして作り上げた大作ばかりだ。収集家が見れば大枚をはたいてでも購入しただろう。
少しでも居心地がよいようにと、細部までこだわった品々は、年頃の娘ならばだれでも憧れるものばかり。
けれど、ファンファーナには、なんの感慨もわかない。
静まり返った部屋では、豪奢な家具も色あせて見えた。
「あら、王子様はお帰りですか……」
残念ですわ。せっかく、お茶の用意をしましたのに、と残念そうに嘆きながら侍女たちが入ってきた。
甘酸っぱい匂いが鼻腔をくすぐる。
「! 木苺の焼き菓子ね! 兄様が一番好きなお菓子だわ」
「せっかくですから、あとで本宮へお届けいたしましょうか」
「あ、でも、まだ、いるかもしれないから探してくるわ」
ぱぁっと表情を明るくさせたファンファーナは、止める侍女たちを振り切って部屋を飛び出した。
レクサックスの喜ぶ顔を思い浮かべるだけで、胸がわくわくした。
きっと、だれもが見惚れるような笑顔を見せてくれるはず。
「ねぇ、兄様はもう帰ってしまわれた?」
玄関に飾ってあった花瓶の花を入れ替えていた使用人に尋ねると、手を止めた彼女は小首を傾げた。
「いえ、こちらには……」
「そう、どこへ行かれのかしら……」
肩を落として憂うファンファーナに、声をかけられた若い使用人は、姫様の一大事とばかりにくわっと目を見開いた。
「姫様、少々お待ちくださいませっ」
鼻息荒く告げた使用人は、はしたなくも裾をたくし上げてファンファーナの目の前からいったん消えた。
ファンファーナが大きな目をぱちくりとさせていると、先ほどの使用人が戻ってきた。
「……っ、第三王子様が外回廊へ行かれるのをお見かけした者がおりますわ!」
「! ありがとう」
感謝を込めて使用人に抱き付いたファンファーナは、足取りも軽く外回廊へと急いだ。
離宮を出て行かれたら、ファンファーナに追いかける術はない。
王宮にも自由に出入りできたなら、簡単に届けることができるのに……。
「――いいか、何があってもファンファーナを離宮から出すな」
険しい声と共に聞こえてきた自分の名に、角を曲がったファンファーナは足を止めた。
外回廊へと続く入口には、大きな支柱が二本建てられていた。天使が踊る彫刻が施された影に思わず隠れると、そっと顔をのぞかせた。
庭園の東屋へ繋がる外回廊の中ほどに、ファンファーナが探していた兄の姿があった。
その足元には、額を大理石の床にこすりつけている侍女頭。
失態を犯して叱責されているような物々しい雰囲気に、かける言葉を失ったファンファーナは、ごくりと唾を飲み込んだ。
明るい陽ざしが降り注ぐ、晴れやかな天候だというのに、二人の間に流れる空気はぴりぴりとしていた。
「もし、ファンファーナの身になにかあったら、そなたらの首だけではすまないぞ」
「……っ!」
あまりにも冷酷で容赦のない言葉に、侍女頭だけでなく、ファンファーナも身をすくませた。
今の彼を見て、太陽神の化身と崇める者はいないだろう。
感情を消し去った声音は、聞いている者を震え上がらせるには十分だった。
兄の知らなかった一面を見てしまったファンファーナは、その場から立ち去ることもできずに呆然としていた。
いつも冷静に周囲を見渡し、てきぱきと業務をこなす侍女頭が、体を震わせながら兄の暴言を受け止めていた。そこに、有能な侍女頭としての彼女はいない。絶対的な権力者を前に、無力な子供のようだった。
「セルヴィックが戻り次第、ボクの元へ来るよう伝えろ。……まったく、使えない男だ」
かすかな苛立ちを含んだ声音がファンファーナの耳に届く。
どきりとした。
侍女頭と同じく、セルヴィックも叱られるのだろうか。
自分が無理なお願いをしたから……。
どうしようと動揺していると、後ろから声が掛かった。
「あれ? 姫様?」
「!」
「ふふ、びっくりさせちゃいました? ……っと、あっちは取り込み中みたいですね~」
悲鳴を飲み込むように口に手をやったファンファーナは、見知った顔を見つけてほっと肩から力を抜いて手を下した。
あちこちに跳ねた茶色の髪に、大きな榛色の双眸。
ファンファーナよりは背は高いが、まだ成長途中のしなやかな体。
どこか子リスのような愛らしさ漂う少年だった。
「ロイス……」
「ここは、空気悪そうですから」
ロイスと呼ばれた少年は、声を潜めると苦く笑った。
レクサックスの普段とはかけ離れた姿を見ても驚かないところをみると、知っていたのだろう。
なにも知らずにいたのは、籠の鳥のように守られて暮らしているファンファーナだけなのだ。
ロイスに手を引かれてその場をあとにしたファンファーナは、近くの空き部屋に連れてこられた。
窓を揺らす風の音さえも聞こえない静かな空間。
差し込む陽の光が、整然とした室内を穏やかに照らす。
「姫様、ちょっと元気なかったみたいだから。……俺でよかったら話を聞きますよ?」
「……っ、だ、大丈夫よ」
必死に平静を装うファンファーナを訝しげに見つめたロイスは、そばにあった丸椅子に座らせると、その場で両膝をついた。
「ロイス……?」
ロイスを見下ろす形となったファンファーナは、わけがわからず小首を傾げた。
そんなファンファーナに対して含んだ笑みを浮かべたロイスは、懐から小さな石を取り出した。
「姫様にあげます。綺麗でしょ? まるで、姫様の瞳みたいだって思ったんだ」
照れくさそうにもう片方の手で鼻の下をこすったロイスは、驚くファンファーナの手に無理やり握らせた。
「ほんと、綺麗ね……」
ファンファーナは、掌に転がすと嬉しそうに表情を綻ばせた。
光に当たってか、色が変わった。
海のように深い蒼から、鮮やかな天空の青へと。
――まるで青玉のようだ。
こんな美しい石が道端に落ちているとは考えにくい。
もしかして、わざわざ買ってきてくれたのだろうか?
心づかいが嬉しくてロイスを見つめると、真剣な目で石を眺めていたロイスは、視線に気づいたように顔をあげた。
「やっぱり姫様に似合います」
そう言って、にっこりと笑った。
雑用係であるロイスの主な仕事は買い物だ。食料品から調度品まで、様々な買い付けを担当している。
前任者から引き継いで二年になるが、その目利きは前任者以上である。
ファンファーナと年は変わらないというのに、すでに離宮内で信頼を勝ち得ているのだからすごい。
「それ、魔を退ける石なんです」
「魔を、退ける……?」
「ほら、なんか、外がちょっと騒がしいので……お守りがあったら安心でしょ?」
不安に瞳を揺らすファンファーナに気づいたロイスは、取りつくろうように言った。
「それって、わたしが外出禁止となった理由が関係あるの?」
先ほどの兄の言葉が脳裏をよぎった。
くりっとした目をさまよわせたロイスは、んん~っと小さく唸った。言うか言わないか迷っているようだ。
「教えて、ロイス」
「あ~、うぅ…っ、えっと、俺もよく知らないんですけど、今、人狩りが流行ってるらしくて」
「!」
「なんかもう、手当たり次第って感じで目を付けた人間をさらっていくらしいですよ。まあ、この国で一番安全な場所に隔離されている姫様には関係ない話なんですけど……、外の世界は危険ということで」
依頼人の夫も、その狩りに巻き込まれたのだろうか。
そうだとしたらますます見逃せない。
ファンファーナが難しい顔で押し黙ると、ロイスが慌てたように言った。
「だ、大丈夫ですよ。ここにいれば危険なことはありません」
だから安心してくださいと勇気づけるロイスに、ファンファーナは表情を和らげるどころか顔をしかめた。
確かにこの離宮に押し入る強者はいないだろう。
外観こそ白亜の優雅な城だが、その実、二重の城壁に囲まれた鉄壁の要塞だ。
そこを百戦錬磨の兵士たちが昼夜を問わず脇を固めている。
厳重な警備を潜り抜けて忍び込める者など、ほとんどいないはず。
まさしく、ファンファーナを閉じ込めるためだけに作られた檻なのだ。
ここにいる限り、安全は保障される。
けれど――。
(ちっとも燃えないわ)
自分の立場を考えれば、危険を承知で燃えさかる炎の中へ飛び込むわけにはいかない。
静観に留めるしかないのだ。
それは重々わかっていたが……。
ファンファーナは、きゅっと石を握りしめた。
痛いのだ。心が。
自分だけが蚊帳の外で、真綿のようにくるまれて守られている現状が、辛くて、苦しい……。
だから離宮を飛び出したというのに、なにも変わっていなかった――。