その二
「ふあ~、久しぶりの空気! この適度に澱んだ感じがいいわね」
丘の上に建つ離宮は、周りを森林に囲まれているせいか空気が清々しい。
胸いっぱいに吸い込むと、青っぽい草花の薫りが満たし、澄んだ大気が体を包み込む。朝方はまだ冷たい大気は、まるで神々の息吹のようだ。まばゆい日の光とともに触れれば、憂えていても心が晴れ、浄化された心地がするものだ。
でも、ここは違う。
いつだって、人々の生活の匂いで溢れているのだ。
清らかさの欠片もない饐えた匂いも。
風に乗って舞い上がる埃やゴミも。
それが生きている証かと思うと、好ましく感じられた。
ファンファーナは、慣れた足取りで馬車道を突き進むと、パン屋の角を右へ曲がって細路地へと入っていった。
五階建ての建物が並ぶ通りに、錆びた看板がひっそりとぶら下がっているのが見えた。
『ファンファンのなんでも屋』と書かれた看板を目に入れたファンファーナは、看板に負けないくらい古い戸を開いた。
ぎぃっと戸が軋み、カランと来客を知らせる鈴が鳴る。
「ぅあ~い、いらっしゃーい……」
なんともやる気のない声が、奥から聞こえてきた。
急ぐ素振りも見せない声の主に、ファンファーナのこめかみが緩く波打つ。腰に手を当てると、声を張り上げた。
「店番がいないでどうするの!」
店中に響き渡る怒鳴り声を耳にして、奥から人が飛び出してきた。
余程焦ったのか、細長い勘定台にも気づかず、がんっと勢いよく突っ込んだ大男は、げふっと呻いた。しかしそれも一瞬のことで、すぐに復活した彼は、台を上にあげると、愛想笑いを浮かべながらやってきた。
手入れもされていないぼさぼさの髪に、無精ひげの、およそ印象のよろしくないクマのような大柄な男は、気まずさを紛らわすように手をこすりつけながら言った。
「こ、こりゃ、ファナ様、お久しぶりで」
ファナとは、もちろんファンファーナの偽名だ。
堅苦しいのを嫌ったファンファーナは、ヴィクトール国の第一王女としての身分を隠して過ごしていた。
ばれないように、変装もしっかりしている。
背中まで届く艶のない栗色の鬘を三つ編みにして、頬にそばかすを散らせば、愛嬌のある容姿の完成だ。たったそれだけで、雰囲気はがらりと変わる。少し野暮ったくなった今の姿を見て、王女だと気づく者はいないだろう。
「雇われ店主のくせして、ずいぶん呑気ね。わたしがいないからって楽しようとしてたんじゃないでしょうね?」
「い、いやぁ、まさか!」
めっそうもねぇ、と乾いた笑みを浮かべる大男。
元々浮浪者だった彼をファンファーナが気まぐれで雇ったのが、付き合いの始まりだ。
好き勝手生きてきたせいか、身だしなみを整えることもせず、いつも不衛生な形をしていた。
一度、髪を切り、ひげを剃った姿を見たことがあったが、まるで別人だ。身ぎれいにすれば野性味あふれる男前だというのに、それを隠すのはなんとももったいない。
だが、そんなズボラな彼に母性をくすぐられるのか、近所のおばさま方には評判がいい。
『ファンファンのなんでも屋』は、色男揃いね、と太鼓判を押されているが、それが商売と直結しないところが辛い。
「まったく、目を離すとすぐこれなんたから。……それはそうと、イーシスがいないわね。仕事?」
「はぁ、まあ、いなくなった猫を探してやす」
「また猫探し、ね。いい加減、失せもの探し以外に大きな依頼はないものかしら……」
ファンファーナは、八日ぶりの店内を見回した。
小ぶりの窓からは光もあまり差し込まず、薄暗い。
掃除もこまめにされていないようで、埃だらけだ。
元より客の入りは悪かったが、こんな環境ではますます人気は遠のくばかりだろう。
「アラン。ちょっと出かけてくるから、わたしが戻るまでには、ピカピカに店内を磨き上げおきなさい!」
「ええっ、あっしがですか?」
「当たり前でしょ。イーシスばかりに仕事を押しつけて、あなたときたら昼寝ばかり……。たまには店主らしく、店にも愛着を持ちなさい」
「はぁ……まあ、……で、ファナ様はどちらに?」
「そりゃ、体感的燃えの探索よ!」
「ああ、買い食いですかい」
合点がいったように頷いた大男は、はて、とファンファーナの背後に目をやった。
「あのいけ好かない……じゃなくて、セルヴィックの野郎はどちらに? 雛みてぇに、ファナ様の後ろを引っ付いて離れない野郎が珍しい」
「ランタンの古書堂よ。まったく、セルヴィックったら、活字中毒なんだから。お金をすべて本に注ぎ込むなんて、信じられない」
セルヴィックは、ファンファーナの護衛だというのに、ランタンの古書堂の前を通りかかると必ず姿を消すのだ。
毎回のことなのでファンファーナも小言を並べたりしないが、兄たちにばれたら彼は確実にクビになるだろう。
けれど、セルヴィックが傍にいないおかげで自由に動き回ることができる。
街での飲食のときは、セルヴィックが毒味してからでないと食べることができないのだ。
そのため、熱々の品もちょっと冷めていることが多い。
王族として生まれた定めとわかっていても、やっぱり熱いものは熱いうちに食べたい!だから、屋台で売られているものを食べるときは、一人で出かけるに限る。
これ幸いにと店を離れたファンファーナは、鼻歌まじりに大通りへ移動した。
食の市場と名付けられたこの通りには、様々な屋台が並んでいた。
街の人たちは、自分で料理することが少なく、ほとんどを屋台で買ったものですませている。そのため、品数も豊富で安価、かつ手軽に食べられるものが多い。
中でもファンファーナのお気に入りは、具だくさんのスープだ。
「おじちゃん、激熱一つちょうだい」
「あいよ! ……おっ、久しぶりじゃねぇか」
ファンファーナは、一つの屋台の前で足を止めると、さっそく顔見知りの男に注文した。
でっぷりとした腹を揺らしながら大鍋をかき混ぜていた男は、ファンファーナに気づくと嬉しそうに眦を下げた。慣れた手つきで、足元にある鉢の上で焼いていた石を鉄で挟むと、大鍋の隣にあった小鍋へと放り込む。
まるで溶岩のようにブクブクと泡立つスープは、色も真っ赤である。
肉のついた短い指先を器用に操りながら木筒へスープを注ぐと、さらに焼いた石を中へ落とした。ジュワッと音を立て、芳ばしい香りが周囲に広がった。
「今じゃ、お前さんだけだよ、激熱スープを好んで飲んでくれるのは」
「ええっ、そうなの? こんなに美味しいのに……」
唐辛子を大量に入れた激辛スープは、辛いだけではない。新鮮な魚介のだしをとっているから旨味がしみ込んでいるし、刻んだ野菜がいっぱい入っていて、一杯でも満足感がある。
しかも一杯たったの五シリングだ。セルヴィックから買った燃えよりも安い。
「だよなぁ。オレもそう思うんだが、売れるのは牛乳入れてまろやかにした白スープときたもんだ。まあ、けど、オレは負けないさ。熱くて辛いスープこそ、本当のスープってもんさ!」
スープ修行と称として一年間姿を消していた彼は、遠い西の地でこのスープと出会ったという。うだるような暑さが続くその地域では、気力をつけるため辛いものが好まれているらしい。
スープとしての常識を変えた味に衝撃を受けた男は、作り方を学んで揚々と持ち帰ったようだが、売れ行きは芳しくなかった。
最初こそ、物珍しさから長蛇の列が出来ていたようだが、火を噴くような辛さとなかなか冷めない熱さにやられて倒れる者が続出した。今じゃ、死のスープと恐れられるほどだ。
気候が温暖なこの地の住人には、受け入れられなかったようだ。
いつかは……と夢見る男に、ファンファーナだけは理解を示した。
「そうよ! 負けないで、おじちゃんっ。ここの体感的燃えがなくなったら、悲しいわ」
「たいかんてきもえ……? よくわからんが、任せておけ。っと、いけねぇ。喋ってる間に冷めちまう。さ、食え食え」
狭い屋台の中で窮屈そうに丸い体を動かした男は、心得たように台の上に水袋を置いた。
ふぅっと息を吹きかけたファンファーナは、まだぐつぐつと煮立つスープを一口含んだ。
火の塊が喉をすべり落ち、胃に届くと、カッと全身が熱くなった。
「熱い……っ、でも美味しいわ!」
体中から汗が噴き出すようだった。
慌てて水を飲んで胃を落ち着かせる。
でも、いくら水を含んでも辛さは一向に引かない。それよりも増しているように思えるから不思議だ。
喉がひりひりするのを心地よく思いながらもう一口飲もうとしたそのとき、ドンッと後ろから押された。手に持っていた木筒が宙を舞う。
あっと思ったときには遅かった。
「アッ、ちぃぃぃ……っ!」
すぐ傍で悲鳴が上がる。
「ご、ごめんなさいっ」
ファンファーナは慌てて水袋を手にすると、中身をふりかけた。
だが、熱さに身もだえる男を冷やすには十分ではなく、赤く染まった手を振り回していた。
「ってめぇ、なにしやがる!」
そう凄んできたのは火傷した男ではなく、運よく被害を免れた男の仲間だった。眉間にしわを寄せ、声を荒らげた男は、ざわつく周囲を威嚇した。
「んだぁ、ゴルァァッ! 見せもんじゃねーぞっ」
とたん、男のせいで飛び散ったスープを悪態つきながら拭っていた通行人たちは、関わり合いたくないとばかりにそそくさと去って行った。
ケッと唾を地面に吐き捨てた男は、どう落とし前つけるとファンファーナを睨めつけた。
人ひとり殺してきたような眼光の鋭さに、けれどファンファーナは動じることなく、小首を傾げた。
「落とし前ってどういう意味かしら? 困ったわね。こういうときにセルヴィックがいたらよかったのに。役立たずなんだから」
「なにぶつくさ言ってやがる!」
ファンファーナが何か言い返そうと口を開きかけたそのとき、声がかかった。
「ほら、水だ」
「ありがとう、おじちゃん」
屋台の主人は、親切にも水を桶に入れて持ってきてくれたようだ。
ファンファーナは嬉々としてそれを受け取ると、悪人面の男を無視して、火傷を負った男にかけた。勢いがついて、上半身にもかかってしまったのはご愛嬌。
「さあ、これで楽になったでしょ! 火傷は早く冷やさないとね」
びしょ濡れの男を満足げに見つめたファンファーナは、にっこり笑った。
「「……っふざけんな!!」」
怒りが倍増した様子の彼らに、ファンファーナはわけがわからないと眉を寄せた。
「失礼ね。感謝をされることはあっても、怒られる理由はないわ。確かに、肉体的燃えは辛いでしょうし、わたしも好きではないけど、男なんだから少しくらい我慢しないと」
「なにをワケわかんねぇこと言ってやがるっ!?」
「ぶち殺してやる!」
殺気立つ彼ら相手でも、ファンファーナは慌てる素振りもみせずに小首を傾げた。
「あらあら、乱暴な言葉遣いはよくないわ。怒りは顔を歪めてしまうもの」
「笑顔で怒るヤツがどこにいる!」
「あら、いるわ。セルヴィックがそうだもの。口元は優雅に弧を描いているのに、目の奥はちっとも笑っていなくて、自分が悪くなくても謝りたくなってしまうのよ。あれは恐ろしいわ。要は、雰囲気よね。絶対零度の眼差しを受けたら、背筋が凍りつくんだから」
得意げに語るファンファーナに、今にも殴りかかりそうだった男たちは、気がそがれたように肩を落とした。
「てめぇと喋ってると頭がおかしくなる」
「同感だ」
「まあ、ほんと失礼ね!」
ファンファーナが気分を害していると、笑い声が聞こえてきた。
何事かと顔を向けると、そこには、手の甲を唇に当て、おかしそうに笑う青年の姿があった。
「……っ、ああ、すまない。君たちの会話があまりにも面白かったものだから」
見られていることに気づいた青年が、柔らかな笑みを浮かべて謝ってきた。
ファンファーナは、思わずその笑みに見とれてしまった。
セルヴィックや兄たちもたいそう美しいが、彼もまた洗練された高貴な雰囲気をまとっていた。
陽に透けてきらきらと輝く白金の髪。涼やかな紫色の双眸。すらりとした肢体を包む、深紅のマントがよく映えた。
育ちの良さそうな品の良い顔立ちは、この街の中でどこか浮いていた。
容姿だけならば、美しさでは敵う者はいないとされる宮廷楽士か、家柄と美貌を兼ね備えた国王直属の近衛兵に相応しい。
「げっ、王立警備か」
「ちっ、行こうぜ」
男たちは、青年を目に入れた瞬間顔色を変えて去っていった。
「王立警備……。初めて本物を見たわ!」
ファンファーナは、目を輝かせた。
王立警備団の証である深紅のマントを見れば、荒くれ者もしっぽを巻いて逃げ出す。
日々鍛練を積む彼らに敵う者などいないだろう。
近衛兵が王を護っているのならば、王立警備団は民を護る存在だ。
ファンファーナの真っ直ぐな目で見つめられた青年は、照れたように頬をかいた。
「……そんなに見つめられると穴が空きそうだ」
一つ一つの仕草も絵になる青年だ。
ファンファーナがうっとりと見惚れていると、大きな声が響き渡った。
「ハイラントさん! こっちに来て下さい! 殴り合いの喧嘩が……っ」
「ああ、今行く!」
ハイラントと呼ばれた青年は顔を引き締めると、ファンファーナに視線を落とした。
「今回は俺の助けはいらなかったようだけど、無茶はしちゃ駄目だよ。危なくなったら俺たちを呼びな。すぐに駆けつけるから」
笑顔でファンファーナの頭をさらりと撫でた彼は、颯爽と去っていった。
中々の有名人のようで、若い娘たちの間から「ハイラントさまぁぁぁっ」と黄色い歓声が上がった。
残されたファンファーナは、頭を片手で押さえると、かぁぁっと顔を赤く染めた。
走ったわけでもないのに胸がドキドキする。
「……カッコイイ」
「やめときなさい。あんな顔だけの男」
いつの間にか買い物を終えたらしいセルヴィックが横に立っていた。
いつからいたのだろう。
気配を殺すのが上手い彼に気づかないのはいつものことだが、独り言を聞かれて少し気恥ずかしい。
「い、いいじゃない! トキメキも、心が猛る燃えの要素よ。だいたい、あなたのほうが顔だけじゃない。立派なあの人と比べるなんておこがましいわ」
「……そうですか。では、新たな燃えはいらないということですね」
「! なっ」
「買い食いするお金があるのなら、情報料は値上げしても大丈夫そうですね」
「~~~っ」
ファンファーナは、ぱくぱくと口を動かした。
いつから見ていたのだろう。
さっきは荒くれ者にも啖呵を切っていたファンファーナだったが、彼相手では何も言い返せなかった。