その三
ファンファーナを店へと送り届けたロイスは、なにも言わずに背を向けて歩き出した。
「待って、ロイス!」
「なぁに?」
「わたしは、父様が理想とする平和な世の中を望むわ」
「……」
「そのためには、悪が平然とのさばる世の中なんて許せない。そんなのちっとも燃えないわ」
「それで? それって、宣戦布告? ファナ様がどう足掻こうと、俺たちは俺たちの道を進むだけだよ。だって、それが俺たちの正義だからね」
「正義で人を殺すの?」
ファンファーナの脳裏に浮かぶのは、躊躇無く命を奪ったセルヴィックの姿だった。
無慈悲で、冷酷で……今思い出しても、怖いと感じる。
けれどそれが、セルヴィックの本来の姿なのだ。
「正義のためには、多くの犠牲が伴うものでしょ? 陛下がどうやって統治したと思うの。逆らう重鎮は武力を持って押さえつけ、汚職にまみれた臣下は切り捨てて……そこに、血が流れなかったと思うの? 大業を成し遂げるには、非情さがなければ駄目なんだ。ファナ様のように甘っちょろい考え方じゃ、なにも変わらない」
「でもっ」
「ファナ様になにができるの? 日陰の中でひっそりと暮らすあなたに。表舞台にも立てないファナ様に語る資格なんてない」
言いたいことは言ったとばかりに身を翻したロイスは、そのまま路地の角を曲がって見えなくなってしまった。
「わたしが間違っているの……?」
確かに、今のファンファーナに出来ることは少ない。
兄たちのように後ろ盾も、権力すらないのだから。
名ばかりの姫君。
そして、それはひっそりと消えていく運命にあるのだ。
「お前は、お前の成すことを考えていればいいんですよ」
「! セル……ラ」
「セラですよ。まったく、物忘れも酷いんだから」
男を感じさせない柔らかな笑みを浮かべたセルヴィックは、走ったせいか乱れた長い髪を邪魔そうにかき上げた。
「ロイスも余計なことを……。アレの言葉は忘れなさい」
「忘れられ、ないわ。忘れることなんてできない!」
ファンファーナがそう叫ぶと、店の前の扉が開いた。
「さっきから騒がしい……っと、これは、ファナ様じゃねぇですか」
面倒ごとはご免だとばかりに、がしがしと短髪を掻きながら姿を見せたアランは、驚いたように目を見開いた。
「んん? そちらさんは、どちらさんで? こりゃまたべっぴんさんで」
アランの顔がやに下がる。
美人には目がないだろう。
真実を告げるべきか一瞬迷ったファンファーナは、引きつった顔でセルヴィックを紹介した。
「あ、新しい教育係のセラよ」
「おおっ、ということは、セルヴィックの野郎はとうとう解雇ですかい!」
「……ま、まぁ、そうね」
これで平穏が戻ってくると狂喜乱舞するアランを横目に、セルヴィックの顔を窺うとひっと小さく悲鳴をあげた。
口元は緩やかに持ち上がっているが、目はちっとも笑っていなかった。
人を射殺せそうなほど鋭い眼差しに、ファンファーナの顔から血の気が引いた。
アランの命が危ない。
「ア、アラン。いつまで立たせておくの? 中へ通してちょうだい」
「はっ、こりゃぁ、すんません」
店の中へ入れたアランは、まだ片付けが終わってなくて……と苦笑した。
「酷い……」
「あっ、ファナさん、……っと、初めましてのお嬢さん、こんにちは」
箒で砕けた木の破片をかき集めていたイーシスは、顔を上げると破顔した。
暴れ馬によって破壊されたかのような惨状に眉根を寄せると、イーシスが困ったように首を傾げた。
「なんか、ガラの悪い連中がいきなり押し入ってきてこの有様です」
「どういうこと?」
ファンファーナが口調に険を滲ませると、アランが観念したように肩をすくめた。
「いやまぁ、よくあることですよ。表立って動けねぇヤツらが、裏で男たちをけしかけてここから追い出すって手法は、常套句ですさぁ」
含みを持たせた物言いに、ファンファーナはすぐにヤツらがだれを指すのか勘づいた。
ファンファーナたちが逮捕できないのなら、この街から追放させるつもりなのだろう。
逆らう者には容赦しない。
その冷酷さと悪質さに、これまでどれくらいの者たちが犠牲になったのかとぞっとした。
声を上げることもできずに堪え忍んできた民衆を思うと、ファンファーナの胸は痛んだ。
「ねぇ」
ファンファーナが声をかけると、真剣な響きを感じてか、二人とも手を止めて顔を上げた。
「逃げたいなら逃げてもいいわ。わたしはとめたりしない。今日までのお給金だってちゃんと払うし……」
「ファナさん、なに言ってるんです?」
「そうですさぁ、んな心にもないことを……」
「本気よ。ハイラントが軟禁されている以上、だれも助けてなんてくれないわ。これからもっと酷い目に遭うかもしれない。濡れ衣着せられて捕らえられるかもしれないわ。そんなの嫌。二人をそんな目に遭わせたくない」
「でもファナさん、一人前の商人になるんでしょ?」
「は……? あ、ああ、そうね」
うっかり設定を忘れていたファンファーナは、セルヴィックからコホンと咳払いをされて引きつった笑みを浮かべた。
「おいらは、ファナさんに夢を叶えて欲しいです! おいらはそんなキラキラした野望は持ってないから、ファナさんがいつも羨ましくて。そんなファナさんだから一緒に働きたいって思ったし、おいらはここが好きなんです。仕事っていったら、ほとんど失せ物探し出し、アランさんにはこき使われてばっかだけど、おいらはここを離れたくないんです」
「イーシス……ありがとう。アランは?」
「あっしもイーシスと同じです。それに、ここで出て行ったら、それこそヤツらの思惑通りでしょ? それは絶対に我慢できねぇです。死ぬまでここに居座って、歯ぎしりして悔しがる連中を嘲ってやらぁ」
豪快に笑い飛ばすアラン。
「大丈夫ですよ。ああ見えてアランは腕が立ちます。喧嘩ふっかけるしか脳のない連中には負けませんよ」
「セラ……」
耳元で囁くように言われたファンファーナは、それでようやく安心して眦を緩めた。
「そうね……。ここで逃げたら、悪をのさばらすだけね。正義が悪に負けるなんて、やっぱり許せないわ」
「その意気ですぜ、ファナ様!」
アランがにっと口の端を上げ、親指を立てた。
(わたしも、覚悟を決めないと……)
掃除を再開した彼らを見つめながら、ファンファーナは胸が高鳴っていくのを感じた。