その二
いろいろ考えることが多すぎて、ファンファーナはため息を吐いた。
自分のこと。
セルヴィックのこと。
ハイラントのこと……。
「前までだったら、燃えねって叫んでいたのに……」
どうしてときめかないのだろう。
どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。
本当は、ハイラントのことだってすぐにここを抜け出して駆けつけたい。
なにがあったのか事情を聞きたいのに、侍女頭はそれを許してくれない。また兄が命じたのだろうか。
危険は去ったというのに、心配なようだ。
「姫様、お茶の時間ですよ」
「ありがとう……」
振り向くと、見たことのない顔があった。
新入りだろうか。
彼女はファンファーナの視線に気づくとにっこりと笑った。
ちょっと冷たい、硬質な面立ちの美人だったが、笑うと目尻が下がり優しい印象になる。
彼女は慣れた様子でお茶を淹れていく。
それをぼんやりと眺めていたファンファーナは、漂ってきた芳ばしい匂いに頬を緩ませた。
「これ、ウグイネス山の頂上に生えている葉を煎ったものね」
「心身を和らげてくれる効用があるようですので」
ファンファーナ好みの熱々のお茶を差し出した侍女は、円卓の上に色鮮やかなお菓子を並べていく。
「ねぇ、あなた、どこかで会ったことがない?」
「……いいえ。こうして姫様のお世話をさせていただくのは、初めてです。もしかしたら、清掃しているところをお見かけになったのかもしれませんね」
「そう、かしら……」
小首を傾げながらお茶を飲んだファンファーナは、「熱っ」と舌を出した。
すかさず、水が手渡される。
「どうぞ」
彼女が動いた瞬間、ふわりと鼻をくすぐった匂い。
香水、だろうか。
お水を飲んで舌を冷やしたファンファーナは、ああ、と納得した。
がしりと彼女の腕を掴む。
「姫様……?」
「わたし、そんなに頭は良くないけれど、人を見る目はあると思うの」
「はぁ……?」
「つい最近まで、わたしには教育係兼護衛がいたのだけれど、彼がずっと傍にいてくれるなんて思ったことなかったわ。だってセルヴィックの中には義務しかなかったから。わたしを見ていたことなんて一度もなかった。だから、裏切られたのは辛かったけど、納得もしたのよ」
「……」
「憎まれているのは気づかなかったけど……わたしは別に、いいと思うの。翼が欲しいならあげる。わたしは人として生きてきたから、翼があってもなくても関係ないわ。彼が欲しいなら退職金代わりにあげる。だって、わたしにはそれしかできないもの」
「どうしてわたくしにそのようなことを?」
「どうしてだと思う?」
困惑する侍女に、ファンファーナはおかしげに問い返した。
悩んでいたのが嘘みたいに心は晴れやかだった。
「考えたの。どうしてセルヴィックは、わたしのことを組織に黙っていたんだろうって。ロイスも仲間なんでしょ? でも、ロイスは知らなかった。わざわざ魔除けと称した石を持たせて確認するくらいだったから……。だからなんでかなって思ったの」
本に載っていたのだ。
石の秘密が。
あれは、魔除けの石ではなく、有翼人かどうか判別するものだったのだ。有翼人の血が流れていれば、色が変わる。
ロイスから受け取ったあのとき、光の具合で変化したと思っていたが、あれはファンファーナが有翼人だから色が変わったのだ。
きっと、金に目がくらんだ昔の人たちが生み出したのだろう。
「……」
ずっと侍女の顔を保っていた彼女からすっと表情が消えた。
「……いつかはいなくなるって覚悟していても、いざ傍からその存在が消えてしまうとなんだか胸がぽっかり空いたようになるの。憎まれてもいい。傍にいてくれたら……って思ってしまうわたしは変わっているのかしら」
ファンファーナは、くすりと笑った。
「……まったく、お前は呆れるくらいに馬鹿ですね」
「いいじゃない。変わった主従関係のほうが、燃えるでしょ?」
がらりとまとう雰囲気を変えた侍女。
声音は変わらないというのに、その口調は、ファンファーナがよく知るものだった。
「なぜ、気づいたのです?」
「まあ、セルヴィック。わたしを見くびらないで。姿形こそ違っていても、お茶の淹れ方や体臭は、変わらなくてよ?」
「お前を殺しに来たのかもしれないというのに、なんと呑気な」
「あら、あなたはわたしを殺さないわ。本当に殺したいのなら、あのときに殺していたでしょ?」
「……お前は本当に私の毒気を抜くのが上手いですね」
苦笑したセルヴィックからは憎しみも感じなかった。
どういう心境の変化かはわからなかったが、なにかを吹っ切ったような顔で熱いお茶を淹れ直すセルヴィックの顔に陰りはなかった。
それをファンファーナは、嬉しそうに見つめていた。
どんな事情があろうとも、再びセルヴィックを得たファンファーナの行動は早かった。
出歩くのは危ないと渋る侍女頭を新しい侍女を連れて行くからと説き伏せて、影と入れ替わった。
「わたしが行くわ!」
「お前が行ったところで門前払いをくらうだけですよ。大人しく、店にいなさい」
王立警備団の詰め所に行くと駄々をこねるファンファーナを諭したセルヴィック。
「だったら二人でいけばいいじゃないの」
「馬鹿ですね。火に油を注ぐようなものですよ。ただでさえ、彼らから目を付けられているというのに」
「……ぐっ」
そう返されては、なにも言い返せなかった。
店の前を王立警備団の連中がうろついていたのは記憶に新しい。
アランの話では、不審なものはないかと店中を引っかき回されたようだ。叩いてもホコリしか出てこない清廉潔白な店に、違法なものなど置いてあるはずもない。
謝罪もせずに、舌打ちして立ち去ったというが、いわれのない罪を着せられるよりはマシなのだろう。
「――ロイスにでも送ってもらいなさい」
「え?」
セルヴィックはそう言うと、人混みに紛れて姿を消した。
「ロイス……?」
どこにいるんだろうと見回した刹那、ぎゅっと背中から抱きつかれた。
「あ~あ、ばらしちゃうんだもん。つまんない」
「な…、ど、どうしてここに?」
「もちろん、姫様……おっと、ここじゃファナ様だっけ。ファナ様の監視に決まってるでしょ。セルヴィック兄さんだけじゃ、いつ裏切るかわからないし」
くすくすとおかしそうに笑うロイス。
ファンファーナに正体がばれてるのを知っているのか、かぶっていた猫を外したロイスは口調までがらりと変えた。
「裏切る……?」
セルヴィックを兄と呼ぶ親しげな様子よりも、不穏な単語のほうが引っかかった。
「だって、そうでしょ? ファナ様の秘密も黙ってて」
「ひゃっ」
背中から肩胛骨まですぅっと撫でられたファンファーナは、くすぐったさに思わず声を上げると、「可愛いっ」とロイスがますます抱きしめた。
「ふふふ。ファナ様は俺の大嫌いな支配階級の人間だけど、殺したいとは思わないよ。翼さえ奪えれば、あとはどうでもいいし」
「……っ、わたしを狙っているのが大悪党の集団ね」
「ファナ様から見れば悪者かもしれないけど、俺らのように助けられた人間にとったら神のような存在だよ。すがれるのなら、悪魔でもかまわない」
「でも、それで自分の手も汚れていいの?」
「恩義のあるあの方の支えになるのなら、死んでもいい」
「よくないわっ」
「ふふ、ファナ様ならそう言うと思った。でも、それは偽善だよ。口先だけならなんとでも言える。俺の覚悟も知らないで、そんな軽々しく言わないで。……ああ、俺の話より、兄さんのことだっけ? ずっと一緒にいて情でもわいたのかな。あの方に隠し事するなんて、ね」
一瞬、声が冷たくなるが、すぐにいつも通りの明るさを取り戻す。
「兄さんがちっとも教えてくれないから、俺が単独で調べたんだ。まさか、ファナ様自身が気づいていないなんて思ってなかったけど。ほんと、馬鹿な王族だよね。黄金の鳥を隠し通せるなんて思ってるんだから」
「兄様たちのことを悪く言わないで!」
「かわいそうな姫様。しょせん籠の中の鳥は、閉じこめられたまま息絶えていくんだ。周りはみんな敵だらけ。だれも信じられずに孤独のうちに死んでいくんだね」
憐れみを含んだ声が耳を震わせた。
思わずファンファーナは、ロイスの巻き付いた腕を振り払っていた。
「そんなことないわ。兄様たちが隠していたのは、わたしのためを思ってのこと。セルヴィックのことだって……わたしが傍にいてくれるだけで嬉しいからいいの。裏切られたっていい。ロイスだってそう。たとえ本心じゃなくたって、演技だったとしても、あなたに励まされたのは本当。わたしはそれが嬉しかった。それでいいじゃない。それじゃ駄目なの? 疑心暗鬼になっていたらなにも出来ないわ」
ファンファーナは、すっと目を細めるロイスを真っ直ぐに見つめた。
なにか言いたげに口を開きかけたロイスだったが、それは声に乗ることはなく口の中で溶け消えた。きゅっと唇を引き結ぶと、前髪をくしゃりと潰した。
「……もう、やだなぁ。ファナ様を見てると、自分がどんなに罪深いか思い知らされる。これが、忌まわしい天界人の血ってやつなのかな。お綺麗すぎて反吐が出るね」
「そんなにたいそうなものじゃないと思うけれど」
「だから焦がれるんだよ。自分では決して手の届かない尊い存在を感じたくて、人は翼を求める。……っと、ちょっと話し過ぎちゃった。さ、セルヴィック兄さんが戻る前に送るよ。俺が怒られるし」
はぐれないようにとファンファーナの手を取ったロイスは、いきなりファンファーナを腕の中に閉じこめた。
急なことに驚いて目を白黒させていると、どさっと何かが倒れる音がした。
「邪魔だ、退け! 平民風情が、我ら王立警備第一番団の道を塞ぐなど言語道断っ。首が繋がっているのをありがたく思え」
民衆を見下したような野太い声が空間を切り裂いた。
周囲に漂う緊張感。
ただ事でない様子にファンファーナが身じろぎをしてロイスの腕の中から抜け出そうとするけれど、彼は許してくれなかった。
「じっとして。ファナ様の顔を見られたらまずいから」
そうなだめるロイスの声もいつもと違って固かった。
「この場にハイラント様がいて下すったら……っ」
だれかが漏らした言葉に素早く反応したのは、王立警備第一番団の連中だった。
「だれだ、今、悪事に加担した犯罪者の名を呟いたヤツは? おい、引っ捕らえて牢屋へ連れて行けっ」
「きゃあぁぁぁぁ……」
「あ、あたしじゃないわっ」
「離して!」
逃げまどう民の悲鳴がファンファーナの耳にも届いた。
「逃げるよ」
ロイスはファンファーナの耳元に囁くと、返事も待たずに駆け出した。
引っ張られるようにして走り出したファンファーナが振り返ると、そこに広がっていたのは地獄絵図だった。
王立警備団の証である緋色のマントが、陽の光を浴びて禍々しく映った。
王立警備団の団員たちに無様に地面に転がされた群衆を見下ろしながら、悠々と嗤う男を見た瞬間、ぞわりと怖気が走った。