その三
羽にどんな秘密があるのかしらと考え事をしながら歩いていたファンファーナは、前から走ってきた人影に気づかなかった。
「……っ」
思い切り尻餅をついたファンファーナは、その痛さに顔を歪めた。
「ご、ごめんなさい。急いでたから」
声変わり前の少年らしい少し高めの声。
よく知った声に、ファンファーナはどきりとした。
「大丈夫ですか?」
心配そうに手を差し伸べてくる少年。
だがファンファーナはその手を掴む余裕などなかった。
(ど、どうしよう……!)
俯けた顔を上げることができない。
嫌な汗が流れてくるようだった。
身じろぎもしないファンファーナを不審に思ってか、少年が屈んで顔を覗き込んできた。
「!」
息を呑んだのはどちらだっただろう。
「ひめ、さま……?」
「……っ」
ばれた!
ファンファーナの顔からざっと血の気が引く。
変装していても、親しい人にはわかってしまうのだろうか。
なにも答えられず黙っていると、相手が困惑したように言った。
「えっと…もしかして隠してました?」
「……なぜ、わかったの?」
「俺はなんでも知っていますよ。姫様が姿を変えて商いをしていることもね。あそこで働いているといろいろ耳に入ってくるんです。でもよかった。ご無事で。俺が悪知恵しちゃったからちょっと責任感じてたんです」
本当に入れ替わっちゃうし、とおどけたように語った少年ロイスは、ファンファーナの腕を優しく掴むと引き上げた。ファンファーナと同じくらい華奢な容姿とは裏腹に、その力は成人男性のように強い。
目を白黒させているファンファーナをおかしげに見つめたロイスは、ふふふっと笑った。
「きっと、俺のお守りのおかげですね」
「ええ、ちゃんと身につけているわ」
ファンファーナは、魔を退ける石を見せた。加工して貰った石は、淡い光を放ちながら、細い鎖に繋がれて右手首を彩っていた。
「うわっ。見事な装飾品になりましたね。……あれ? 姫様、だれと会ったんです?」
「だれって? 人ならいっぱい会っているわ」
「……まあ、いいです。そんなことより、一人は危険ですよ! 危ないってお話ししたでしょ。セルヴィックさんも傍にいないのに……。姫様の身になにか遭ったら……」
「シッ。ロイス、わたしのここでの名前はファナよ。ファナって呼んでちょうだい」
「ファナ様、ですね。了解です。では、僭越ながらロイスがひ…いえ、ファナ様の警護をしますっ。セルヴィックさんのようにはなれないけど、ファナ様が心配なんです」
「でも、急いでいたのでしょ?」
「料理長から香料を買ってくるよう頼まれたんですけど、いいんです。使用人の食事の心配より、ファナ様のほうが大事ですから。それに、今屋敷は葬式のように静まり返っていますよ」
「兄様方に変わった様子はない?」
「ええ、ばれていませんよ」
ロイスは心得たようにニィッと笑った。
それが唯一気がかりだったファンファーナは、ホッと胸をなで下ろした。
「……ねぇ、ロイス」
「はい?」
「あなたはわたしよりずっとこの街のことを知っているでしょ。どう思う?」
ちょうど昼時とあって賑わう大通りを真面目な顔で見つめていたファンファーナは、えっ…と言葉をつまらせるロイスに目を向けた。
「いいの。正直な気持ちを教えてちょうだい。あなたの目には、この街がどう映っているの?」
「……ええっと、そうですね、平和、だと思います」
視線をさまよわしながらロイスがそう答えると、ファンファーナの眼差しがきつくなった。
それに、肩を揺らしたロイスは諦めたように睫を伏せた。
「ファナ様、俺は王都の生まれではありません」
「知っているわ。北にあるフェーベル地方の小さな村で命を宿したのでしょ?」
「ええ。クルヴェスター国と国境が近いせいか、境界線を巡っていつも争いが絶えませんでした」
そう語るロイスは当時を思い出してか、こみ上げてくる感情を押し殺すように淡々と続けた。
「笑顔で挨拶してくれた人が、次の日には亡骸となって境界線付近に捨てられている現実。彼らが崇める聖ヴァーヌ河で魚を釣ったからって、たったそれだけでクルヴェスター国の兵が殺したんです。村が敵国に蹂躙されても、陛下は僕たちに救いの手を差し伸べては下さいませんでした」
「!」
「だって、知らなかったんです」
言葉を失ったファンファーナを辛そうな顔で見つめたロイスは、すっと視線を外し、晴れ渡った青空を仰いだ。
「領主がもみ消していたんです。今の王さまは争いごとが嫌いでしょ? 前王さまの時代に冷え切っていたクルヴェスター国との関係が、今の王さまのおかげで友好関係を取り戻せたのに。もめているってわかったら、領主の権限を剥奪されるって思ったんでしょうね。たまに巡回に来る王立警備団に賄賂を贈って、それを隠し続けたんです」
「……っ」
ぞわりと肌が泡立った。
嫌悪感、だろうか。
許しがたいという気持ちと、気づけなかった悔しさで、胸がきゅぅっと痛くなる。
亡くなった罪なき人たちのことを想うと、泣きそうになった。
ロイスたちが苦しんでいる間、自分はなにをしていただろう?
守られた中で、窮屈だと軽口を叩きながら過ごしていたに違いない。
「ああ……そんな顔をしないでください。困ったな。ファナ様を悲しませるつもりはなかったのに……」
「だって、ロイス。わたし、なにもわかっていなかったんだもの。表面上のことしか見ていなくて、苦しんでいる人がいるってわかっていたのに……」
アランだけでなく、ファンファーナの影として生きている少女も、楽な人生を送ってきてはいない。
それを救ったのはファンファーナだ。
でも、ほかにももっと悲惨な目に遭っている人がいるなんて考えもしなかった。
「ロイス。わたしが兄様に言うわ。見過ごせないもの。だれかの悲しみの上にみんなの幸せがあっていいはずないわ。幸せはみんなで感じるものだもの」
「ファナ様……ふふっ、あなたならそう言うと思いました。安心してください。俺はこうして城仕えをしているでしょ? 問題は、もう解決したんです。偉大な方が。俺を……俺たちを救ってくれたんですよ」
ロイスの子犬のような目がきらきらと輝く。
恩人を心の底から敬愛しているのだろう。
ファンファーナも見たことなかった笑顔に驚きながらも、笑みを返した。
「素敵! ハイラントのほかにも、聖ウィルトン一世のような方がいらしたのね」
「はい、本当にすごい方です」
「どんな方なの? 兄様方は知っていて?」
「それは……」
ロイスが答えようとしたそのとき、低い声が割り込んできた。
「見つけたぜ、お嬢ちゃん」
「な……っ」
ファンファーナが声を上げようとした刹那、口元を布で塞がれた。
甘い香りにくらくらとする。
次第に遠のく意識の中で、ロイスの笑顔だけが印象的だった。
「……ん、……ファ……っ」
だれかが自分の名前を呼んでいる。
深淵に沈んでいた意識を浮上させたファンファーナは、ゆっくりと瞼を開けた。
「ファナさんっ、……あぁ、よかったっす!」
「イ、シス……?」
ぼんやりと視線をさまよわせたファンファーナは、自分を覗き込む人物に気づいて大きく目を見開いた。
「! ど、して……つ、ぅ……ぁ」
勢いよく上半身を起き上がらせると、ずきりとこめかみが痛んだ。
甘いあの匂いがまだ残っているようだった。
眠りを誘う薬でも嗅がされたのだろうか。
「ロイスは……、なんでここに……」
状況が把握できなくて混乱するファンファーナの背をイーシスがなだめるように叩いた。
「落ち着くっす。ファナさんもアイツらに捕まったっすよ。おいらが不甲斐ないせいで……すまねぇっす」
ファンファーナは、ゆっくりと辺りを見回した。
地下、なのだろうか。
天井近くにある小窓から差し込む光が唯一の明かりだ。
ファンファーナたちのほかにも囚われている人たちはいるらしく、片隅で身を寄せ合いじっとしていた。
その中にロイスの姿はなかった。別の場所に入れられているのか、それとも逃げられたのかは定かではなかったが、少し安心した。
大人が十人も寝そべれば窮屈に感じる狭い檻に閉じこめられたファンファーナは、同じく囚われているイーシスを見上げた。
「わたしはどれくらい眠っていたの?」
「えっと……多分、丸一日っす」
「そう……」
よかった。
約束の七日を過ぎていたら大変なことになる。
だが、ここを抜け出す術が見つからないなら、大問題に発展することには違いないのだが。
「セルヴィックはどこ?」
「! す、すまねぇですっ」
イーシスが突然土下座をした。
何事かと驚く周囲をよそに、イーシスは額を冷たい地面にこすりつけた。
「どう、したの?」
「おいらが悪いんです。セルヴィックさんは、おいらを庇って……っ」
「!」
ファンファーナの胸が不安にざわめく。
「まさか、死、んだの……?」
「い、いいえっ! けどっ、背を斬りつけられて……。ファナさんが来るまで、ここにいたっすけど、ろくに治療もされないまま放置されて……」
高熱が続いていたっす、と沈痛な面持ちで語った。
ファンファーナと入れ替わるように連れ出されたセルヴィックの姿は、それ以降見ていないという。
(そんな……)
ファンファーナの体から力が抜けた。
倒れ込みそうになったところをイーシスが片腕で支えた。
「ファナさん……っ」
「だって、セルヴィックは強いもの……」
死なない。
死ぬものですか。
でも、どうして心が晴れないのだろう。
怖いのだ。
彼が死ぬかもしれないという現実が。
「大丈夫よね? 大丈夫と言ってちょうだい……っ」
「ファナ、さん……」
おいらのせいですんません、と謝り続けるイーシス。
ファンファーナの目からはらはらと涙がこぼれ落ちた。
(嘘つき! わたしの傍にいるって言ったじゃないっ)
ファンファーナの脳裏に、初めて彼と会ったときの姿が浮かぶ。
美麗な長兄に伴われて現れたのは、兄に負けるとも劣らない端麗な顔立ちの少年だった。
長兄と同じ年だというが、ずっと大人びて見えた。
『貴女がファンファーナ姫ですね。私はセルヴィックと申します。この命果てるその日まで、貴女を護り、導くことを誓いましょう』
『まもり、みちびく……? どういうことですの? にいさま』
『可愛い俺の妹姫。きっとこの者はお前の役に立つ。安心しろ。兄様たちがお前を護ってあげるから』
『まあ…! それでは、こたえになってませんわ』
『ははは、そうかな』
むくれるファンファーナの頭を十も離れた大きな兄の手が撫でた。
この日を境に、離宮に新しい家族が加わったのだ。
新しい家族は、外へ出ることも禁じられ、退屈な日々を送るファンファーナに、本を読むことの楽しさを教えてくれた。
『セルは、ずぅっとわたしの傍にいてくれるの? とうさまやにいさまたちのようにいなくなってはしまわない?』
『ええ……貴女が望むのならばいつまでも』
幼いファンファーナの前に跪いた彼は、彼女の手を取ると指先に口づけを落とした。
『我が命は永遠に貴女の元に在りましょう』
幼いファンファーナには、その言葉の意味が理解できなかったが、ただセルヴィックが一緒にいてくれるというのが嬉しくてきゃらきゃらと笑った。
今のセルヴィックからは想像できないが、あの頃は生真面目で優しかったのだ。
セルヴィックはだれよりも強く、だれよりも頭が良く、ファンファーナ付きでなければ宰相にだって登りつめることができるほど有能な人物だった。
家柄はいいとはいえないが、国王の信頼も厚い。
もし彼が亡くなったら、悲しむのはファンファーナだけではない。
彼に好意を寄せる数多の女性をはじめ、多くの者が嘆き悲しむに違いない。
ファンファーナは、指先で乱暴に涙を拭った。
(泣いてなんかいられないわ。セルヴィックを助けないと)