その二
ハイラントの禁断の発言によって重苦しい空気が流れる中、それを切り裂いたのはファンファーナの明るい声だった。
「だったら、変えればいいわ」
「なにを言って……」
「ここに、副団長のハイラントがいるじゃない」
「俺にはなにもできないさ」
「できるわ。だってあなたは弱き者の頼れる味方だもの。今回の悪党たちを一網打尽にしたら、きっと昇進するわ。そしたら、はびこる腐敗を消すことができるでしょ? 欲にまみれていないハイラントが上に立てば、変わるわ。すぐには難しいかもしれないけど、いつかは染まった黒も白へと変わるはずよ」
「簡単に言うね」
ハイラントは苦笑した。
「……ハイラントはどうして王立警備団になったの? 弱き者を救いたかったからじゃないの?」
「そうだな……俺には目の前にいる人しか救えなかったけど」
「十分じゃない。ハイラントのおかげで救われた人がどれだけいると思うの? 昨日も言ったけど、賢王だって、すべてに手を差し伸べることなんてできないわ。それができるのは神だけよ。わたしたち人間は、神のように全部を見通すことができないから、少しずつ解決するしかないわ。そのときは小さな事柄でも、いつかは大きな力となって未来を変える手助けとなるはずよ。だって、正義は最後に勝つのよ? これって決まり事よ」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑ったファンファーナは、腰に両手を当てて立ち上がった。
「アランも過ぎ去った過去は水に流せとは言わないけれど、ここはしっかり協調性を持って協力してね。大きな悪に立ち向かうには、結束が大事よ」
「ファナ様……相手が悪すぎですよ」
苦々しく顔を歪めたアランは、はぁっと大きなため息を吐いた。
何を言ってもファンファーナの意志が変わらないのはわかっているのだろう。
「大丈夫よ。わたしをだれだと……コホンッ、まあ、そのね、悪事はいつか暴かれるものよ。陛下がお許しにならないわ。正義が枯れなければ、いつだってそこに光が差し込むものよ」
「ふっ……本当に君は変わっている。怯むどころか恐れもしないなんて……やっぱり俺には眩しいな」
後半の言葉は小さすぎて、ファンファーナには届かなかった。
「どこに行きやがった!?」
「早く捕まえろっ」
殺気立つ声。
日の陰った薄暗い路地裏を見るからに人相の悪い男たちが闊歩する。
「邪魔だ、退けっ」
「ひっ」
杖をついて石畳を歩いていた老人の肩を勢いよく押した男たちは、あっちだこっちだと指示を出し合いながら駆けていく。
「大丈夫?」
「ああ、ありがとよ」
「酷いわね。近頃、ほんと治安がよくないんだから」
ボロ布をまとった老人は、ファンファーナの手に掴まりながら立ち上がった。
「……ッ」
「足を捻ったの? 大変っ。お医者様を呼びましょうか?」
「いや、なんのこれしき。すぐに治るさ」
「でも……」
「お嬢ちゃんもそうじゃろ?」
「え?」
老人がすっと顔を上げた。
皺が刻まれた顔に深い闇を感じさせる双眸が暗く瞬いた。
「気をつけなされ。無知はその身を滅ぼすこととなろう」
老人はファンファーナの手を振り払うと、片足を引きずりながら歩き始めた。
「待って!」
ハッと我に返ったファンファーナが角を曲がった老人を追いかけたが、そこに彼の姿はなかった。
まるで夢幻のように溶け消えてしまったのだ。
行き止まりとなっている壁を呆然と見つめたファンファーナは、ふと真っ白な羽が一枚落ちていることに気づいて手に取った。
「綺麗……」
ファンファーナの掌よりもさらに長い。
穢れのない純白が、薄暗い空間の中で淡く輝く。
思わず魅入っていると、「ファナ様ぁぁぁぁっ」とアランの悲愴な声が響き渡った。
「いっけない……っ」
大通りで待っているように言われていたファンファーナは、慌てて来た道を戻った。
「お、脅かさないでくだせぇ。心の蔵が五年も縮こまったかと」
「大げさね」
「ファナ様になにか遭ったらあっしの命がありませんので。……んん? なんです、そりゃ」
「さっき、拾ったの。綺麗でしょ?」
ファンファーナがアランの鼻先に突きつけて見せびらかすと、彼の顔から笑みが消えた。
「ファナ様、店に戻りやしょ」
「用事は済んだの?」
「ええ、最近羽振りのいい奴らが出入りしてる酒場なら見当ついたところでっせ」
「だったらそこへ行きましょ」
「尾行は貴族の坊やに任せりゃいいんですよ」
「もぅっ、やる気がないんだから。日頃の仕事もイーシスに任せきりで、アランは寝てばかりじゃない。イーシスは失せ物探しから調査、尾行まで文句も言わずにやっていたわよ」
「あっしは、店を守る義務がありますからね」
「ああといえばこうという。ほんと口が上手いんだから」
呆れはてたファンファーナは、アランに急かされるままその場を離れた。
「おばちゃん、こんにちは~」
パン屋の前でそわそわと辺りを見回しながら立っている年配の女を見つけたファンファーナは、元気よく声をかけた。
彼女は、いつも美味しいパンを作っているパン屋の女将だ。
ふくよかな体を揺らしながら顔を動かした彼女は、大きく目を見開いた。
「ああ、ファナちゃんっ。よかった、心配してたのよ」
「?」
早足でやってきた彼女は、アランを見上げてほんの少し頬を染めた。
「あら、アランさん。今日もいい男ね。うちの旦那とは大違い」
はぁと熱い吐息を漏らした女だったが、すぐにファンファーナに視線を戻すと声を潜めた。
「今、店に戻らないほうがいいわよ」
「どうして?」
「王立警備団のヤツらが、店の前を陣取っててね。あんたなにかしたの? すごい形相よ。まるで重罪人を引っ捕らえるみたいに」
なにか事件に巻き込まれたのかと不安そうな顔をする女。
「悪いこと言わないわ。しばらく身を隠してなさいよ。アタシの息子も、無実だったのに、投獄されてね……」
「そんな……でも、すぐに解放されたんでしょ?」
女は、緩く首を振った。
「死刑さ。やってもない罪をでっち上げられてね……。きっと、真犯人は、道楽息子とかだろ。金を積めば、簡単に犯罪も帳消しさ。……まったく、嫌な世の中だね。罪を背負うべきヤツらがのうのうと生きてるんだから」
悔しさを堪えきれないように唇を噛みしめた女は、そのときのことを思い出したのか双眸を潤ませた。
「う、そ……」
信じられなかった。
いや、信じたくないというのが本音だろう。
「だから、ファナちゃんたちも同じ目に遭わないか心配してたんだ。よかったよ、ここで会えて」
「ありがとう、おばちゃん」
感謝を伝えるファンファーナの声は堅い。
知らなかった。
見えなかった。
というのは、ただの言い訳だ。
こんなにも身近に彼らの横暴さに苦しんでいる人がいながら、見過ごしてきたのだから。
狂王の恐怖政治は去り、賢王の平穏な日々を享受していると勝手に思い込んでいた。
民の表面の生活しか見ず、悟った気でいたのだ。
ふっとファンファーナの脳裏に、冷たい目をしたセルヴィックの姿が思い浮かぶ。
狂王の頃と同じではないと叫んだファンファーナに、彼は背筋が震えるような眼差しをくれただけだった。
きっと彼は知っていたのだ。
知っていて、ファンファーナの無知を、そして甘さを嘲っていた。
いいかい? 絶対店に戻るんじゃないよと念を押して女が去ると、黙って聞いていたアランが渋い顔で舌打ちをした。
「あの坊やが裏切ったか……」
「! なにを言っているの。そんなことないわ。絶対に」
ファンファーナはアランを睨みつけた。
ハイラントの話では、王立警備団の半分以上が闇組織と関わりを持っているという。
残りの半分は腐敗の進んだ現状を黙殺しているらしい。
民の味方であるべき王立警備団が闇と繋がっていたら、だれに相談をすればよいのだろう。
もはや、泣き寝入りするしかない。
「あっしよりあの男を信じるんで?」
「信じる、信じないとかの問題ではないわ。それに、失礼よ。わたしを試すの?」
「……」
「わたしはあなたを拾った。わたしはあなたに衣食住を与えた。わたしはあなたの雇い主だけれど、あなたのすべてではないわ。言ったでしょ? 人形なんていらないって。わたしは、わたしの考えで動くアランじゃなくて、アランの意志で動くアランが好きなの」
ファンファーナがアランを拾った当初は、本当に人形のようだった。
命じられた通りにしか動かない人形。
感情をなくした彼の目はいつも虚空を見つめていた。
ようやく人間らしい心を取り戻したというのに、また元に戻ってほしくなかった。
「……っ、申し訳ありません」
「まあ、いいわ。それより、アイリシアさんは大丈夫かしら」
「あっしが裏口から忍び込んで連れ出しますよ。ファナ様は、トートーの宿屋で待っていて下さい。あそこならガラの悪い連中もいないでしょ」
それと、拾った羽は絶対にだれにも見せないでくだせぇ、と真剣な顔で告げたアランに、ファンファーナは小首を傾げた。
「なにか問題あるの?」
「大アリです! ったく、なんだってこう次から次に問題が発生するんだか」
がしりと短い髪を掻いたアランは、「真っ直ぐ、トートーの宿屋に向かってくだせぇ」と念を押すと、店のほうに向かっていった。