第六章
「アラン、そんな怖い顔していたら燃えが逃げるわよ?」
「ファナ様……」
「人生は、『燃え』よ! 心に火がついたとき、最高の興奮を味わえるのよ。それがなくして、生を味わうことなんてできないわ」
生き生きと語るファンファーナに、げっそりとした顔でパンの欠片を呑み込んだアランは、ちらりと横にいる人物に視線をやった。
「なにか?」
窓から差し込む朝日に照らされた爽やかな笑顔は、それこそ王子のように気品があり、美しかった。
だが、陽が昇る前に帰宅したアランには、その嫌味のない笑顔が眩しかったようで、小さく悪態を吐くと、珈琲をがぶ飲みした。
「……ぶはっ、甘っ!」
吐き出された珈琲が、食卓を彩っていたレースの布を汚す。
真っ白な掛布が茶色く染まったのを見たファンファーナは、眉を潜めた。
「作法がなっていないわ」
「あ、あの、お気に召しませんでしたか?」
おずおずと口を挟んだのは、腫れた頬が痛々しいアイリシアであった。
事情を聞いたハイラントが手当てをしてくれたおかげで、昨日よりはよくなっていたが、まだ口を開くのは辛そうだ。
家に戻るのは危ないから、しばらく店に泊まればいいというファンファーナの勧めに従って、一夜を明かしたのだ。
「珈琲は、苦いモンだろっ」
「ご、ごめんなさい。珈琲を淹れるのは初めてで……」
「謝ることはないわ。珈琲に蜂蜜を入れて飲むのが今流だもの」
「これだから金持ちは……」
アランはひくりと頬を引きつらせた。
「つぅか、ファナ様。ここに寝泊まりしたんで?」
「そうよ」
「ああ、陰険野郎にまた怒られる……」
アランは頭を抱えたが、ファンファーナは気にしなかった。
三階の客室に泊まるのは、初めてではない。
セルヴィックがいつも手配している貴族専用の豪華な宿泊施設よりも、すきま風があるような客室の方が好きだった。
「陰険野郎?」
ハイラントが不思議そうに小首を傾げた。
「ファナ様の……付き添い? いや、護衛か? まあ、腹の底が真っ黒な野郎のことさ」
「アラン。それはあんまりだわ。本狂いの変わり者だけれど、そこまで厭うことはないと思うの」
「ファナ様はアイツの本性を知らないから言えるんでっせ」
「つき合いは、わたしの方が長いわ。だって、セルヴィックは、わたしが物心ついたときには側にいたもの」
得意げに語ったファンファーナは、少し温くなってしまった珈琲を飲んで顔をしかめた。
「もぅっ、アランが余計な茶々をいれるから冷めてしまったわ。熱石をいれてちょうだい」
「へいへい、仰せのままに」
疲れているだろうに文句一つ言わずに台所へと向かったアラン。
それをファンファーナは当然のように見送った。
「あの、わたしが……」
「気にしないで。あなたはお客様なんだから」
アイリシアを隣に座らせたファンファーナは、にっこりと笑った。
「なにからなにまで……ありがとうございます。なんとお礼を言ったらいいか……」
「言ったでしょ? すべてが解決したら、素敵な笑顔を見せてちょうだい。それで十分よ」
「ファナさん……」
アイリシアの薄い色の瞳がほんの少し潤んだ。
二人のやりとりを興味深げに見つめていたハイラントは、話が途切れたところで口を開いた。
「そういえば、ファナのご両親はなにをしている人? 一緒には暮らしていないようだけど」
「え…、えっと、」
一瞬、言葉を詰まらせたファンファーナだったが、舌は軽やかに動き出した。
「遠い西の地で商いをしているの。わたしは、父様のような立派な商人になるために故郷を離れて勉強をしているのよ。セルヴィックはお目付役。ファンファンのなんでも屋を有名にして、父様に一人前になった姿を見せてあげるの」
「へぇ、立派な志だ。だから君は真っ直ぐできらきらしているのか」
「……ぅっ」
甘く微笑まれたファンファーナは、罪悪とトキメキを交互に感じて、開きかけた口を閉じた。
(い、言えないわ。本当のことなんて……)
ファンファーナのでたらめな話を信じ切っている彼を見ると、胸が小さな針で刺されているようにチクチクと痛んだ。
しょうがないこととはいえ、ハイラントに嘘を吐くのは気が進まなかった。
とはいえ、彼が真実を知ったら、こんな風に気さくに話しかけてくれないだろう。
セルヴィックのように義務的に接せられるのも、敬意を払われるのも、なんだか嫌だ。
彼とは、ただのファンファーナとして会いたいのだ。
じれんまを抱えていると、ぎしりと床を軋ませてアランが厨房から戻ってきた。
「へぃ、お待たせしやした」
熱石を鉄製の掴み器で持ってきたアランは、橙に色づくそれをファンファーナの珈琲へ入れた。
じゅわっと音があがり、芳ばしい匂いが広がった。
ぐつぐつと泡立つカップの取っ手を優雅に掴んだファンファーナは、ハイラントの視線から逃げるように口に含んだ。
かぁっと臓腑から燃え上がるような感覚が心地よい。
痺れるような熱さがつま先まで広がって、全身が炎をまとったようだ。
ふつふつと涌いてくる激情は、ファンファーナに勇気を与えてくれた。
「いいこと? セルヴィックたちを一刻も早く救い出さないといけないわ」
兄たちも音信不通になったことを不審に思っていることだろう。
もし、秘密裏に捜索しているとしたら厄介だ。
わざわざ使用人であるセルヴィックのために私兵を動かすとは思えないが、可能性は零ではない。
「あっしには、あの野郎が大人しく捕まっているほうが不思議ですけどね」
「そうね……なにか考えがあるのかしら。それとも、動けない状況下にいるのかしら。どちらにせよ、このまま、人の命を物のように軽々しく扱う闇の売人なんて野放しにしておけないわ。だって、おと…いえ、賢王の名の下に、悪事は白日の下にさらされるべきだもの」
正義感あふれるファンファーナの発言に、苦虫を噛み潰したような顔でがしりと頭を掻いたアランは、吐き捨てるように言った。
「ファン様、そりゃ無理ですよ」
「アラン?」
「正義は偽りの正義に潰されて終わりですや」
「意味がわからないわ」
だがアランは鋭い目でハイラントを一瞥するだけで、答えを言う気はないようだった。
「なんなの? 民が不当に虐げられる狂王の時代は終わったのよ? 確かに、世の中から悪を根絶するのは難しいことはわかっているけれど、正義が消えてしまったらなにを信じればいいの? どこに救いを求めればいいの?」
ファンファーナの純粋な問いかけに、三人は一様に口をつぐんだ。
ハイラントの目が迷うように揺れる。なにかと葛藤しているように辛そうに眉を寄せた彼は、そっと息を吐き出した。
「ファナ……前国王の御代には、多くの血が流れすぎた」
「ええ、罪なき民の命がたくさん失われたわ」
「そのときに根付いた腐敗は、地中深くに根を張り、決して腐ることはない」
「それはわかっているわ。でも、そのためにあなたたちがいるんでしょ? 内は親衛隊が、外は王立警備団が護ることで、国の平穏は保たれるのよ」
「……では、」
言いよどむようにそっと視線を自分の手へと落としたハイラントは、ぐっと握りしめた。
「そこが悪の根源だとしたら?」
「え?」
なにを言われたのか一瞬理解できないファンファーナとは違い、アランの表情は堅く強ばり、アイリシアはひゅっと息を詰めた。
「王立警備団こそ、諸悪の根源だ」