08 白銀ヒビキと人を笑顔にするキャラクター 1
ワガハイはギャグマンガの主人公である。名前は小林リン。こことは違う世界の商店街で、肉まん屋の店主などしていたが、ある日突然、日本に転移させられてからは、賀茂あきらというお姉さんの家にやっかいになっている。
人の笑顔を見ると、ワガハイは幸せな気持ちになる。
逆に、悲しそうにしている人がいたら、笑わせてあげたくなる。
きっとそれは、ワガハイが人を笑わせるために生まれた、ギャグマンガのキャラクターだからだと思う。
ちなみに今、ワガハイの目の前には原田という名のおっさんが、鬼のような形相で怒っていた。
怒られているのは、ワガハイと、その隣にいるあきらの2人だった。
「それで? 次に白銀ヒビキが現れた時には、彼女を捕縛、あるいは撃破することができるんだろうなぁ?」
すごむような声で、原田が言った。
リンは「ふんっ」と鼻を鳴らして笑う。
「愚問だ、偉い人。次はきっとうまくいくのだ」
「偉い人に愚って言わないの」
横からあきらに注意された。この原田というおっさんは、あきら直属の上司らしいが、こんな上司の下にいて、あきらが疲れたりしないかとても心配だった。
「だいたい、お主は何でそんなに偉そうなのだ? そもそもワガハイはお主の部下じゃないのだ」
「偉い人呼ばわりもだめだけど、目上の人をお主って言うのもやめようね」
その後、リンはあきらと一緒に、原田の説教を三十分ほど聞く羽目になった。
まったくついていないと思う。
説教の後、リンとあきらは遅めの昼食を摂りに外へと出かけた。
昨日の白銀ヒビキの襲来から、ほとんど丸1日が経っていた。書類整理や上司のお小言に付き合っていたあきらは、さぞお腹が減っていることだろう。
「ワガハイのせいであきらまで怒られてしまったのだ?」
「リンのせいじゃないよ。それに、あれぐらいの年代の官僚は、説教臭いことを言わないと生きていけない生き物なんだよ」
そんなことを言いながら、二人はチェーン店のカフェに入った。
明らかに量より質をもとめた店だったが、
「お腹すいてるでしょ。好きなだけ食べていいよ」
というあきらの言葉に甘えて、リンはハンバーガー5人前注文した。
対面の席に、サンドイッチとコーヒーのセットを持って、あきらが座る。
その後は会話はなく、あきらは5分でコーヒーとサンドイッチを胃に流し込んだ。
「さて。じゃあ、私は仕事に戻るけど、リンはゆっくりしていくといいよ」
机の上に一万円札を乗せてあきらが席を立った。
「もう仕事に戻るのか?」
「うん、やること沢山だからねー。リンとお昼が食べられて、楽しかったよ」
そう言うと、あきらは急ぎ足にカフェを出て行った。
会話もろくにできない食事だったが、あきらは本当に楽しめたのだろうか。霞が関の官僚は、本当に働きすぎなのではないかとリンは思う。
その後、リンはあきらが残してくれた一万円を使って、追加でスコーンを8個注文した。
「やはり食後の甘いものは格別なのだ!」
両手にスコーンを持って、モグモグと美味しそうに食べる。
そんなリンの姿を見て、店員が「あのお客さん、かわいい」とクスクス内緒話をしていた。
リンは地獄耳なので、色んな音が聞こえたが、本人に特に気にした様子はなかった。
「ねえ」
耳元で、誰かが呼ぶ声がした。しかし、近くに人の気配はない。空耳だ。
リンはスコーンを飲みこむと、アイスコーヒーをひと口、飲んだ。
「ねえったら」
再び、声が聞こえた。
女の声だ。
まさか、誰かいるのかと思い、リンが背後を振り返った。
しかし、リンの背後の席には壁があるだけ。そこには誰もいなかった。
「幻聴なのだ?」
「幻聴じゃない。ああ、もうっ」
そんな声が聞こえると、目の前の景色が急に霞んだ。
そして、霞んだ視界の中。突然、目の前に――白銀ヒビキが現れた。
ヒビキはリンの向かいの席に座ると、彼を睨みつけながら言った。
「……私が誰だか、名乗る必要はないよね?」
唐突なヒビキの出現に、リンは驚いて手にしたスコーンを握りつぶしてしまった。
砕けたスコーンが自由落下していく。
「おっと、もったいない!」
リンは抜群の反射神経で、スコーンのかけらをすべてキャッチしながら、目の前のヒビキの睨みつける視線を、緊張した面持ちで見つめ返した。
「……ここで、ケンカをおっぱじめるつもりなのか……?」
リンの目が周囲をうかがう。先日の溝の口駅とは違い、周りには大勢の人がいた。カフェの中には、親子連れもいる。子供を巻き込むわけにはいかないと、なんとかこの場を切り抜ける手段を、リンが模索し始めたのもつかの間。
「今日は争うつもりはない。あなたにお願いがあってきたの」
「お願い……何なのだ?」
「これ以上、私の邪魔をしないで」
ヒビキがリンに申し出た。
「邪魔とは……お主の街を破壊する行為のことなのか?」
「あなただって、物語のキャラクターなら分かるでしょう? 見世物にされた悔しさとか、理不尽を強いられたことへの憎しみとか。……それとも、あなたの世界はそんな感情を抱く必要がないぐらいに、良い世界だったの?」
ヒビキの質問は、リンの原作である『リンリン☆彡しょーりんじっ!』の内容を問うものだった。
「ワガハイの世界は、ギャグマンガなのだ」
「ずいぶんとほのぼのとした世界で生きてきたのね? じゃあ、あなたには日本人に対する憎しみの感情はないってわけ?」
そう口にしたヒビキの目に、確かな敵意が宿る。
「うむ。ワガハイの世界は、ギャグマンガなのだ。ワガハイはその世界で、肉まん屋の店主をやっていたのだが、毎回オチで店が大爆発することに目をつぶれば、決してひどい目にあったりはしていないのだ」
「結構ひどい目に合ってるじゃない! 家を燃やされたんでしょう!?」
「大丈夫なのだ。燃やされたと言っても、次の回までにはもとに戻るのだ。……まぁ、家の修理代を借金して、毎回なおしていたのだがな……」
「その若さで借金を抱えているの⁉」
「うむ。借金を返すために、いろいろするうちにどんどん膨れ上がってな。元の世界では、2400億円ぐらい借金があるのだ」
「…………」
唖然とした目で、ヒビキがリンを見ていた。
「それだけひどい目にあわされて、日本人が憎いと思わないの?」
念を押すように、ヒビキがきいてきた。
「思わぬな」
リンが即答した。
「確かに、ワガハイは見世物にされていたのだろう。空の上から、誰かが見ているような気配はいつも感じていた。ワガハイが理不尽な借金を背負わされたのは、その者たちを笑わせるための手段だったのだろうな」
「だったら、日本人を憎く思ったって」
「思わぬ」
そう答えたリンが、少しはにかむような顔で笑った。
「何と言えばいいか分からないのだがな。空の上から見ている誰かが、笑ってくれると、ワガハイも気分が良かったのだ。胸が、スッとする感じがしたのだ。だから、ワガハイを見て笑ってくれた日本人に、感謝こそすれ、憎しみなど到底抱くことはないのだ」
「…………」
そう言ったリンの顔を、ヒビキはしばし茫然と眺めていた。
「そっか……。あなたは、優しい世界から来たんだね」
ヒビキのリンに対する、とげとげしい雰囲気が、わずかに軟化した。
「お主もスコーンを食べるのだ? 話し込んでいる内に冷めてしまいそうなのだ」
思いついたように、リンはスコーンの乗った皿を、ヒビキの方へ差し出した。
リンは手に乗ったスコーンのかけらを口に流し込む。ヒビキは、スコーンを受け取ることを一瞬、躊躇したが、やがて「ありがとう」と短くお礼を述べて、スコーンを一つ受け取ると、口へと運んだ。
「少し長くなるけど、私のいた世界の話を聞いてもらえないかな? その上で、あなたに……小林くんに、戦いに関わるのをやめてほしいの」
そう言って、ヒビキは自分の生い立ちを。自分のいた世界『楽園ブレイクアウト』で起きたことのすべてをリンに話し始めた。
自分が乗り越えてきた冒険の数々。強いられた過酷な運命。そして、無残に殺された妹の事――――それらのすべてを、リンに話した。
「運命だったなら、諦めることもできた。でも……それが強いられた悲劇で、見世物にまでされていた……私はこの世界が許せなかったんだ。だから、私はこの世界を壊すの」
そこまで言い切って、ヒビキがリンが顔を上げた。
「ここまでが私の事情。分かってもらえた……?」
「ふっ、うぐぅっ」
ヒビキの話を聞きながら、リンは大粒の涙を流していた。
「すごい泣くじゃん」
あまりの号泣っぷりに、ヒビキは少し引いていた。
「すまぬ。これはワガハイが流すべき涙ではないのに。どうしようもなく止まらなくなってしまったのだ……」
そう言ったリンは、テーブルの上の紙ナプキンを手に取って、涙を拭き、「ちーんっ」と鼻をかんだ。
それでも、まだ涙はダバダバと出てくる。
「小林くんが泣かなくてもいいじゃない……」
少し困ったような声で、ヒビキが言った。
***
同時刻。
警察庁特殊部隊の巡査部長、荻野が街を歩いていた。
ようやく午前の仕事が片付いたので、適当な定食屋で食事を摂るつもりでいた。
お腹を空かせた若手警察官には、若干量が足りない喫茶店が目に留まった。
ガラス越しに見せの中の様子が見える喫茶店だ。優秀な警察官である荻野は、喫茶店の中に居たその人物を見逃さなかった。
荻野に緊張が走った。
しかし、彼は一切取り乱すことなく、群衆に身をまぎれさせると、対象から少し距離を取ったところで、PHSを取り出した。
「こちら荻野。本庁、賀茂警視正に繋いでください」
電話交換の女性に短く告げると、ワンコールとして待たずに、賀茂あきら警視正が電話に出た。
「こちら荻野。霞が関駅前の喫茶店にて、――白銀ヒビキを発見しました」
荻野の報告に、警察庁舎内が騒然とした。