勇者か魔王の子供か
「あははー!」
「坊ちゃま、お待ちください!」
無邪気な声が、響き渡る。それは幼い子供のもので、今坊ちゃと呼ばれた人物のものだ。庭を走り回る小さな人影を、一人の大人が追いかけている。それは、とても平和な一枚の光景だろう。
「やだよー、悔しかったら捕まえてみろっての!」
追いかけられる子供は、まるでいたずらっ子のような表情を浮かべながら走り回る。子供ゆえに小柄で素早い。だから、大の大人一人から逃げ切るなどわけないことだ。それに、この子供は一般的な子供よりも身体機能が高かった。
だから、ただの鬼ごっこではそう簡単には捕まらない。
「……いい加減に、しなさい!」
……そう、ただの鬼ごっこだったら、だ。
「! うわ、わ! わぁー! ひきょーだぞリーズロット! 魔力で動けなくするなんて!」
「悔しかったら捕まえてみろ、とおっしゃったのは坊ちゃまではないですか」
先ほどまで元気に跳ね回っていた子供は、まるでなにかに捕まってしまったかのように動けなくなってしまっている。なんとか動こうともがく子供へとゆっくり近づいてくるのは、子供を追いかけていた……リーズロットと呼ばれた女性だ。
年季の入ったしわを顔に刻み、眼鏡の奥にある瞳は鋭く子供を睨みつけている。背中から生えた黒い羽根が印象的だ。
「くっそー!」
「坊ちゃま、元気なのは大変結構ですが……もう少し、魔王様のご子息であるという自覚を持ってください。坊ちゃまは、次期魔王の候補者なのですから」
「だからオレは、魔王になる気はないって何度も……!」
「お黙りなさい!」
動けない子供を脇に抱え、リーズロットは子供のズボンをずらす。その体勢のまま、平手でお尻を叩いていく。いわゆる、お尻ぺんぺんだ。無論、一回二回ではない。
「いってぇ!」
「まだそのようなことをおっしゃっているとは。魔王様からは、坊ちゃまの魔力向上、肉体の強化、品行改善……そして、魔王にならないなどと妄言を吐く意識改革を仰せつかっています。私リーズロット・ホーマンが坊ちゃま専属の使用人となったからには、その辺りビシバシいくと言ったはずです」
「わ、わかったから! いっ……だから、もう、ゆるっ、してぇ……!」
自らのお尻がひりひりと痺れていく感覚を覚え、もう解放してくれと懇願する。解放されたころには、もうお尻が真っ赤になってしまっていた。
それでも子供は、みっともなく泣き出すことはしない。すでに涙目ではあるが。
「まったく……魔王様のご子息ともあろう者が、こんな。……聞いていますか? ユークドレッド・ボンボールド」
赤くなってしまった自分のお尻を優しく擦る子供……ユークドレッド・ボンボールドは、納得いかないといった目でリーズロットを見つめ返す。反抗的なその態度に、リーズロットは軽くため息。
だが、ユークドレッドのこの態度にも、ちゃんと訳はある。魔王の子息にして、次期魔王に乗り気でない理由、それは……
(だってオレは、ユークドレッド・ボンボールドじゃねえ。カイゼ・ヴァーミリアだっつーの)
彼は、確かに魔王から……正確には魔王の伴侶から産まれたが、彼の記憶の中には、とある記憶があるのだ。その記憶とは今より五年前……魔王を倒すために旅に出た、勇者カイゼ・ヴァーミリアのものであった。
あるはずのない、生前の記憶……それはつまり、魔王の子息ユークドレッド・ボンボールドは、勇者カイゼ・ヴァーミリアの生まれ変わりということだ。それも、ただの生まれ変わりではない……生前の記憶を引き継いだ状態でだ。
最初は、なんの冗談だと思った。物心がつくにつれて、自分が産まれてから育ったものとは別の……しかし確かに自分の物だと確信できる記憶が頭の中に流れてきたのだから。
魔王との最終決戦では、勇者と魔王のぶつかり合いにより世界は光に包まれた。その後の記憶は、自分が魔王の子供としてのものだ。つまり、勇者カイゼ・ヴァーミリアはあの時、魔王との衝突で命を落としたのだ。しかも、今自分の父だという魔王……それは、カイゼが倒すに至らなかったあの時の魔王だ。
魔王を倒すため、世界を救うため困難に立ち向かった勇者が……魔王を倒せないばかりが、その子供として生まれ変わってしまうとは、笑える話だ。
「そもそも坊ちゃまには、魔王様のご子息どころか魔族としての自覚が……」
(ねえよそんなもん!)
自分は人間だ。ユークドレッド・ボンボールドのこの人間の子供のような体や、リーズロットのような老婆など、一見すると人間には見えるが……それは形だけだ。その中身には、邪悪でどす黒いものが渦巻いている。
だから、魔王の子供だとか魔族だとか言われても、カイゼには受け入れがたい事実であった。それに、世界を平和にするために殺し合いにまで発展した相手を、なにが悲しくて父親を呼ばなければならないのか。
ひどいのが、あの魔王ガラゼル・ボンボールド……かなりの親バカなのだ。魔王と呼ばれ世界を震撼させた相手に溺愛されるなど、吐きそうだ。
ここから逃げようとしたことは、一度や二度ではない。だが所詮は子供の体……外の世界どころか城の外に出ることすら叶わない。それに、ここから逃げてどこに行くのか……という疑問も浮かんできた。
自分の生まれ育った村に行って、正体を明かすか? 五年経っても未だ自分でも完全には信じられていないこの話を、いったい誰が信じるというのか。そもそも魔族というだけで、殺されること間違いない。
そうして、考えがまとまらないうちに……勇者だった男は、魔王の子供として、次期魔王としての教育を叩き込まれていた。溺愛親父のせいで専属使用人までつけられ、ユークドレッドには自由などなかった。
時系列としては、勇者と魔王の戦いから三年後→第一部のラストの描写。
その二年後がこれとなります。
つまり勇者と魔王の戦いから五年の時が経っていて、人間の年齢で言うなら今ユークドレッドは五歳です。ただ、人間と魔族では成長の度合いが異なります。