Chapter0-1 人類が滅んだ日
すでに八月も半ばだというのに、北半球は東アジアにある小さな島国では気温が氷点下を下回る日々が続いていた。
灰色の雲が空を分厚く覆い、太陽はその姿を完全に隠し、日光に代わって地表には大量の放射性降下物が届けられる。地上に立ち並ぶ高層ビル群はどれも損傷激しく、真っすぐ天に向かって伸びていたはずのその姿は、今や大きくその身を傾かせているような有様であった。かかる負荷に耐え切れなくなったものから崩壊し、その度に辺りには大規模な土埃が巻き起こる。倒壊の余波が近くの別の建物にも伝わると、窓枠が砕け、そこに収まっていたガラスが飛び散った。
がらがらと大きな音を立てながら、地上数十メートルの高さから大量の瓦礫とガラス片が落下していく。衝撃音が辺りに響き、そしてすぐに立ち消えた。かつて『都庁』と呼ばれていた、このエリアでも一際大きな建物が崩れ去ったのだ。しかし幸いなことに、この災害に巻き込まれた者は一人もいなかった。
街から人々の喧騒が無くなってすでに久しかった。かつてここにあった栄華はもはやどこにも残っておらず、広い範囲にわたって巨大な建造物の立ち並ぶその景色に、辛うじてこの地上を支配した者たちの存在が窺えるくらいのものであった。
この街に人間と呼べる生物は残っておらず、それどころか、この島国のどこを探してもただの一人も出会うことはないのだ。
時を同じくしてこの日、島国から遠く離れたどこかの洞窟で、最後の地球人が命を絶った。深い絶望と諦めに満ちた自死がその最期であった。亡骸は埋葬されることなく捨て置かれ、やがて腐り消えていくのを待つ以外の未来はない。
世界はこの惑星の原生種たる人類の絶滅をただ静かに受け入れていく。それを観測する者はどこにもいなかった。
もはや旧支配者の存在やその趨勢など、この惑星の現在の支配者達にとっては取るに足らない出来事でしかなかったのである。
大陸の片隅にある古い街の、その地下に設けられた薄暗い部屋の中に、ぼんやりとした光の筋が浮かび上がった。それは何度かの明滅を繰り返した後に人型のシルエットへと変わり、数秒ほどもすると、白衣を着た一人の男性の姿を映す立体ホログラムとなった。
男の見た目は二十代後半から三十代前半とみられる年頃。彼は自分の映り方でも気にしているのか、何度も手を伸ばし、撮影カメラの位置を調整しているようであった。カメラが動かされる度にホログラムが乱れる。およそ一分ほどにわたってそれが続くと、ようやく男は納得のいく位置を見つけたのか、それとも妥協することにしたのか、カメラのレンズを見つめながら悩まし気な声を漏らし、頷いてみせた。
それから男はカメラから顔を逸らし、また黙りこむ。時折口を開いては、逡巡した様子でその口を閉じる、というのを数度繰り返して、ため息をついた。
『ああ、まったく』と彼は呟きながら頭を乱暴に掻いた。
その溜息がきっかけだったのだろうか。彼は何か決心した様子でカメラの前に改めて向き直った。
『――その…人類は今、どんなに控えめな言葉を尽くしたって、最悪とか、絶望なんてフレーズでしか表現のしようがないような状況にある。あらゆる理論を置いて楽観的に言えば、次のクリスマスは迎えられるかもしれないけど…ニューイヤーは、どうかな。ちょっと厳しいような気がする。はは、カレンダー業者は今頃返品の山だろうね』
男は自嘲気味に小さく笑って言った。
『……人類はその数を、八割も減らしてしまった。それもこれも宇宙からやって来たあいつら、コスモリアンの仕業でね。地球人はかの者たちによる侵略を受けて、まさに実写版宇宙戦争状態というわけだ。ノンCG、ノンスタント。キャストは僕ら自身ってところかな』
やってられないよ、と男はそこで一度言葉を切った。
すると彼は右手で頭を押さえ、少し足下をふらつかせはじめる。小さくうめき声をあげる彼は、頭を押さえていた手に違和感を覚えたように、手のひらの内に視線をやった。
手の中を見た男は少し驚いたような顔。映像を見ている側からは、彼の手のひらの様子を見ることはできない。しかし、彼がそれまで押さえていた頭の部分が赤黒く滲み、鼻から血のようなものが流れ出してきていることは映像から見て取れた。彼もそれに気づいたのか、手で顔を拭う仕草をとった。
それから男は何かを悟ったように、力なく腕をおろした。
『コスモリアンに対し人類は抵抗したが、結局勝つことはできなかった。それが全てさ』
そう言うと、男は近くにあった椅子を引き、そこに深く腰掛けた。その後で彼は億劫そうに上体を起こして、カメラの位置を調整する。冒頭の頃とは違い、カメラを一度下げるだけで彼はまた椅子の方へと体を戻した。映像からは、男が苦しそうに呼吸をしているのがわかった。
『ああ、くそったれめ……』
男は肩を大きく上下させながら、小さく悪態をついた。ホログラムの中の彼はどうにかして呼吸を整えようと努めているようで、そこから数十秒ほどの間、うまく喋れないといった様子でもがく彼の姿がしばらく続いた。
『……皆と同じように、きっと僕ももう長く生きることはできない。だから…、君の目覚めに立ち会ってやることもできないだろう。どうやら、この星に住む生物としての僕は負けてしまったらしい。…ああ、きっと、人類もそうさ』
男は言う。
『でも、君だけは、…最後に君だけは、奴らに勝つんだ』
男はもはやカメラの方に顔を向けるのがやっとであるという様子だった。その体は力なく椅子の上に沈んでいく。それでも彼は力を振り絞り、カメラに向けて言葉を続ける。
『ああ、僕の、僕達の"トレヴァース"。いいかい、君に出すオーダーはたった一つだ』
男はカメラをじっと見つめて言った。
『――あのコスモリアンどもを、皆殺しにしろ。そのために必要なものは全て君に与えてある。奴らのただ一人も、この地球上で勝者のままでい続けさせていい道理はない。…奴らに感情というものがあるのなら、ありったけの後悔を味合わせてやれ』
男はそう言って、それからゆっくりと天井を仰いだ。
『エリー』
ただ一言呟いて、それきり男は動かなくなった。映像は彼を収めたその画面のまま、録画上限に達するまで再生を続けた。役割を終えた立体ホログラムは収束し一本の光の筋となり、小型映写装置の中へと戻っていく。
光の無くなった部屋の中には背の高い、一人の青年が立っていた。
「トレ、ヴァース」
青年は手のひらに乗せていた映写装置をじっと見つめながら呟いた。それから装置を静かに懐にしまいこむ。すると彼の首筋に青白い光が灯った。光源は皮膚の内側にあるようで、細長く小さなその光は首筋をなぞるように頭部に向かって移動し、こめかみのあたりまで到達すると、そこで二度ほど点滅した後に一度強い光を放ち、ゆっくりと消えた。
「コードを確認。 ――未受理一件。こちらトレヴァース、オーダーを受理する」
自らをトレヴァースと名乗る青年はそう言うと、体の具合を確かめるように首を回し、部屋の中を歩き始めた。彼が歩く先には小さな扉がある。それは地下から地上へと続く長いエレベーターの乗車口であった。
「……?」
トレヴァースは扉の前に立つと、横に備え付けられたボタンを押した。しかし扉からは何の反応も無い。続けて何度か押してみたが、カチカチと乾いた音がするだけで、何も起こらなかった。よく見てみれば灯りの一つも点いてはいないようである。
トレヴァースは少し考えてから、扉中央の継ぎ目に腕を無理やりにねじ込んだ。扉が音を立ててひしゃげる。そのまま彼は腕を左右に開き、扉を開放した。
目の前に大きな縦穴が姿を現すと、どこからか吹き抜けていく風が彼の髪を揺らした。
トレヴァースは身を乗り出して穴の下を覗き込んだ。眼下の遥か彼方にエレベーターの箱と思わしき残骸が落ちているのが見えた。
「なるほど」
トレヴァースはそう言うと、表情を変えることなく穴の中へ飛び込んだ。それと同時に、空中に身を投げた彼の脚部から何かの駆動音が鳴る。次の瞬間、彼の体は重力を無視するようにその場に留まり、何かに引っ張られるかのように上へと向かってとてつもない速さで飛び上がっていった。
青年のなりをしたこの存在は、人類とは全く異なる存在であった。
トレヴァースは顔色一つ変えずに自在に宙を飛行する。進む道は灯りの無い真っ暗なものだったが、彼の目は周囲の地形を鮮明に捉えることができているようだった。
彼はただ真っすぐに地上を目指し、風を切って進む。
たった一つ課せられた、人類の復讐を代行することだけを考えて。
次話の投稿は1月30日の午前2時頃の予定です。
更新の情報などはTwitterで呟いたりします。
脳内企画@demiplannner