前編
前後編の2話構成です。
後編は来週末に投稿します。
アレは反則だった。反則だって。
逢沢優希は、手に持ったスマホの画面を眺める。
眺めて、枕に顔を押しつけた。
暗い室内で、光る画面が周囲をほのかに照らしている。
優希は画面に浮かぶ名前の羅列のうちの一人に向かって文句を言う。
――芦科芽春。
つい数時間前に連絡帳に登録された名前だ。
ベッドの上で背中を丸め、再びスマホを顔の前に持ってくる。
名前を眺めていて、声が届くはずもない。
それでも、頭の中には芦科芽春の顔が浮かんでいた。
そう、一目惚れだったのだ。
* * *
お前、クリスマスに何して過ごすつもり?
水族館にでも行ってくるよ。
え、彼女いるのかよ!
いないよ。いるわけないじゃん。一人で行くんだよ。
クリスマスの水族館に一人で行くのか……。その勇気は尊敬する。
「はあ……」
つい一週間前に学校で交わした会話が、一つの後悔の気持ちと共に思い出される。
今日はクリスマス・イブ。
優希は友人に宣言していた通り、一人でイブの夜に水族館に来ていた。
当然、周りをみれば男女のペアばかり。居心地の悪さは、小さい頃に体育の授業で役立たずで、サッカーやバスケでパスを取ることができなかったときのようだ。
要は、すぐにでも隠れたい。
自分をいないものとして扱ってほしい。
すれちがうカップルたちの、不可思議な視線が優希の心にグサリ、グサリと刺さっていた。
「……やっぱり来なければ良かったかな」
友人に来ている証拠写真を送るという約束をしていなければ、直前に逃げ出すこともできただろう。
しかし、行くと決めていたあの頃の優希はそんな約束をしてしまっていたのだ。
だが、口からこぼれ出た言葉を心の中ですぐさま否定する。
優希はカップルの視線に姿を晒しに来たわけではない。
しっかりとした目的があってきたのだ。
ここ、白泉水族館ではクリスマス・イブに特別なナイトショーを行っている。
普段は見ることのできないイルカやシャチの姿が見られるのだ。
水族館好きの優希にとって見逃したくはないイベントだった。
特に白泉水族館の看板を張るシャチのルカのショーを楽しみなのだ。
去年は早いうちに実家に帰省してしまっていたから、イブに来ることができなかった。今年は帰省を遠慮させてもらったから、来ることができた。
彼女と来たかった、なんて絵空事は意地でも口にはしない。
余計に虚しくなるのは、経験済みだ。
優希はカップルだらけの大水槽前を離れ、地味な深海生物のブースに来た。
地味でグロテスクな生き物の多い深海生物をカップルで見る人は、予想通り少ない。
ところどころに知的そうな雰囲気を漂わせた男女が数組いるだけだ。
タコクモヒトデやダイオウグソクムシを見て欲しい。
人間にとって生理的嫌悪感を抱いても仕方ないような姿をしている。
将来、海洋生物の研究者を目指す優希は避けては通れない道だが、大学の友人たちのように好き好んでは見たくなかった。
優希が好むのはサケビクニンやヒメコンニャクウオのような丸っこいフォルムの生物だ。かわいいと思う。
だが、日本最大級と言われる白泉水族館も何回も足を運んでいれば見るところは無くなってくる。
優希は、ショーが始まるまでの三十分を深海生物を眺めて過ごした。
*
パッシャーン……
水飛沫を上げる冷たい音がリズミカルに響く。
時に連続的に、そしてダイナミックに。
水中、水上問わず躍動するシャチのルカは美しかった。そして、かっこいい。
さすがは、海の王者だ。
海辺から吹き付ける夜風が、頬を切るように流れていく。
着ていたコートを突き抜けて、直に肌に突き刺さる。
震えた。
会場を拍手が包み込み、ルカがショーの時とは違い、ゆったりと泳ぎ始める。
優希はカメラを構えて、その姿を収めた。
水槽に寄って行って、水中の姿をファインダーを通して見る。
ルカが小さな水音を残して、奥に消えてしまった。
名残惜しくカメラをしまうと、会場にはほとんど人は残っていなかった。
時計を見ると、閉園が近づいている。
館内に戻っても、イルカショー前のような人だかりは無く、ちらほらと残っているだけだった。
さっきまでとは違い、ゆったりとした空間が流れている。
優希はこの雰囲気が好きだった。
心地の良い揺らぎが、水面にきらめく光のように体を覆ってくれる。
それに、少し光の抑えられた水族館は考え事や心を鎮めに来るのにちょうどいい。
そんな水族館にも明るくなる場所がある。
光量として明るくなるのではなく、色として明るくなる場所が。
順路通りに回ると、そろそろ出口かと思う頃。
それまでダークブルーだった壁が真っ白に染まった。
オレンジ色の巨大な車輛の写真や、白黒写真に犬たちが写っていたりする。壁には白と黒の生き物が描かれている。
ペンギンのコーナーだ。
本物の水槽は奥に展示され、そこは再びダークブルーに戻っている。しかし、写真や文献の資料を展示しているここは、南極大陸を模した白色に染まっている。
壁に写真や文章の書かれたパネルが掲示されている中央。
ちょっとした壁に囲まれたところにペンギンたちが立っている。もちろん本物ではなく置物だ。
子供や写真撮影のために設置されたのだろう。
バックがきれいな白になるように壁が配されている。
――そこに彼女はいたのだ。
そこに雲があるかのような存在感だった。
一面の紺碧が広がる大空に、たったひとつ混ざってしまった真っ白なふわふわの雲。ふっくらとした丸い雲が、ゆったりとしたスピードで流れていく。
優希は涼やかな風の吹く樹の上で、その空を眺めていた。
だが、目の前には青い空の代わりに真っ白な壁があり、パステルピンクのコートを着た境界の曖昧な女の子がいるだけだった。
そう、女の子だけだった。
普段の優希なら考えもしなかっただろう。魔が差したとでも言うべきか。
自分と同じようにイブの夜に独りで水族館に来ていることに惹かれてしまったのかもしれない。
「あの、写真撮りましょうか?」
三匹いるコウテイペンギンのうち最も大きなお父さんペンギンの前にしゃがみこんでいた彼女はビクッと体を震わせた。
チェックのプリーツスカートが揺れる。
優希に振り向いた彼女は、最後に疑問符がつくような声をあげた。
大きな黒縁眼鏡の奥のまんまるの瞳が優希を下から見上げている。
クリーム色のニット帽がここでも境界を曖昧にしていた。はっきりとしているのは瞳と、ボブカットにされた黒髪だった。
その顔を眺めていると、冬なのに少しの暖かさを感じた。
夏程ではなく、ちょうど雪解けの頃のような心地よい温もり。
「その……ペンギンたちと一緒に写真撮りますか?」
だが、現実はそんなに長く温もりには浸らせてくれない。
声を掛けてしまってから、優希は猛烈に自分を非難していた。
ああ、なんで声とか掛けちゃってるんだよ。俺、別にイケメンじゃないし、むしろ不細工だし。いや、中の中以上はたぶんあると信じているけど。てか、ペンギンの前でしゃがんでいるからって写真撮りたいわけじゃないだろ。うわあ、かわいいし。俺、本当に声かけちゃったの? 冗談でしょ。え、もしかしてコレってナンパ? ねえ、ナンパ?
普段の自分からは考えられない行動に優希の脳内はパニックになっている。
そんなことはお構いなしに口だけは無意識で動いていく。
「ペンギンの前でしゃがんでいたから……その、気になって」
後ろ頭をかきながら言うと、彼女はくふふと笑った。
「それで声かけちゃったんですね」
立ち上がっても優希の肩程も無かった彼女は、とてもかわいらしかった。
これで身長が高かったら、雰囲気とのギャップに心の中でダメ出ししていたかもしれない。
「そうですね……。撮ってください」
彼女はポケットの中からカメラにしたピンクのカバーのスマホを差し出してきた。
おっかなびっくりその手からスマホを受けとり、優希は写真が撮れる位置に下がった。
「お願いしますね」
お母さんペンギンとお父さんペンギンの間にいる子ペンギン。
その後ろにしゃがみこんで控えめにピースする。
スマホの画面を通して見えた彼女は、幼い子供のようだった。
「じゃあ、撮りますね」
はい、チーズ。
お馴染みの掛け声とともに、やたらと大きいシャッター音が場に響いた。
「もう一枚お願いしますっ」
そう言って彼女は、お父さんペンギンに抱き着いた。
独特な写り方をするんだな。
抱き着いている顔が恥ずかしそうだったので、優希は手早く要望に応えた。
「ありがとうございますっ!」
撮った写真を確認して、彼女はとても喜んでくれた。
出掛けた先ではよく写真を撮って欲しいと声を掛けられる。
だから、優希は写真を撮ることには少しばかり自信があった。
その写真で喜んでもらって、鼻が高い。
「ペンギン、そんなに好きなんですか?」
優希は、ペンギンに抱き着く彼女を思い浮かべて、出てきた疑問を聞いてみた。
「うん。大好きなんだ!」
写真を見ていた顔を上げて、満面の笑みで答えてくれた。
「あっ。……好きなんです。昔から」
満面の笑みで答えてから、控えめに敬語に言葉を直した。
その一連の出来事に思わず頬が緩む。
優希の頬が緩んでいるのに気が付いたのか、彼女は照れくさそうに笑みを漏らした。
「そういえば、お一人なんですか?」
彼女がポロッと口にした疑問で背筋が凍った。
「まあ。イブなのに。……変ですよね?」
自嘲のように苦笑交じりにして答える。
「そんなことないですよ?」
「え……」
「わたしも一人で来ていますから。イブなのに」
悪戯っ子のように彼女は笑う。笑顔の種類の豊富な人だ。
「わたし、水族館にみんなで来ると一人だけ舞い上がっちゃって浮いちゃうんです。なので、なるべく一人で来るようにしていて。その方が自分のペースで見られて満足できるじゃないですか。水族館に来たからには満足して帰りたいじゃないですか」
「なんとなく分かりますよ」
「分かってくれますか! 特に今日はイブの夜の特別なショーだったじゃないですか。展示もクリスマス用に装飾されていて。満足して帰りたいんです」
さっきまでのほんわかしていた口調と違って、勢いの乗った喋りになっている。
好きな物の事を話していると、熱くなっていくタイプのようだ。
本当に水族館が好きなんだな。
「僕もそうですね。周りに水族館が大好きっていう人がいなくて。それでも、今日のショーは見たいと思って、結局一人で来てます」
「えっ! えっと……」
彼女の口がつっかえる。
多分、名前だろうな。
「逢沢優希です」
「逢沢さんもなんですね」
はずしていたら相当に痛い奴だと思われただろう。
いや、はずしていたけど機転を利かせて乗ってきてくれた可能性もあるんじゃないか?
優希の脳が負のループにはまりそうになっていたとき。
「あのっ、連絡先交換しませんか?」
眼鏡の奥の瞳。
「水族館が本当に大好きって人と会うのって珍しいじゃないですか。だから、話が合う人も少なくて。だから、教えてもらってもいいですか?」
柔らかな声が耳をくすぐった。
「いいですよ」
優希はスマホを取り出して、トークアプリを立ち上げて彼女の画面に表示されていたQRコードを読み込んだ。
『Meharu』
丸く切り取られたペンギンの写真の横に、アルファベットのアカウント名が出ていた。
「芦科芽春です。川辺に生える芦と科学の科に、草木の芽の芽に、春です」
特に本名の漢字を書く必要性は無かったが、メモアプリに書き留めておく。
「珍しい名前ですね」
「よく言われます」
そんな言葉を交わしながら、優希は画面操作をして芦科さんを友達登録する。
「逢沢さんはシャチが好きなんですか?」
「はい。昔から」
ちなみに優希のアカウント名も下の名前をローマ字にしただけだ。
「それなら、今日のショーは見逃せませんよね」
「ええ」
と、ここで閉館三十分前のアナウンスが流れる。
優希は芦科さんと共に水族館を出て、最寄りの駅に向かった。
「また、連絡ください。話してて楽しかったです。もっと水族館の話、しましょ?」
「喜んで。時間ができたら連絡します」
地下鉄のホームで二人は向かい合っていた。
水族館の最寄駅からは一緒だったが、乗り換えで別々の線に乗らなければならなかった。
ホームにベルが鳴り響いた。
「今日は少しの時間でしたけどありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
ガラスの壁が二人の間に入り込み、声を遮断する。
芦科さんが車内から手を振っている。
優希も手を振り返した。
鈍い音が鳴り、列車が動き始めた。連結数の少ない地下鉄はすぐに目の前を過ぎ去り、ホームに優希を置き去りにした。
「さて、帰るか」
優希は階段を上がって、自分が乗る路線のホームに移動する。
一人暮らしをしている部屋にたどりつくまで、心の雄叫びを体全体に回さないように必死だった。
*
イブ以来。スマホを開くたびにその名前気になってしまうようになった。
冬休みに入ったので、一人暮らしのアパートで優希は年末を迎えていた。
今年は実家に帰省しないと、すでに家に電話してある。
親不孝だと思ったが、たまには親元ではない年末を過ごしたかった。
おかげで例年の慌ただしさは無い。
あったとすれば、水族館の写真を送った友達の反応だ。騒がしかったので一言しか返していない。
話したらもっとうるさくなるのが目に見えていたからだ。
それにしても、どんなバカップルがいたかなんて質問に答える気はない。あいつもよくそんな無意味な事に興味が湧くな。
晩御飯を食べ終え、お風呂にも入った優希はのんびりと本を読んでいた。
時間を確認すると、もうすぐ九時になる頃だった。
優希は本を閉じ、テレビをつける。
他の局が年末特番のバラエティー番組やアニメ、映画などを放送しているのをすべて無視してNHKにする。
天気予報が終わり始まったのは、北極の海に生息する絶滅に瀕した生き物のドキュメンタリーだ。シャチ、イッカク、ホッキョクグマなど多くの動物が登場する。
放送の告知を見てからずっと楽しみにしていた。
優希は将来、彼らの研究に打ち込みたいと思っていた。絶滅の危機から救いたい。
番組が始まると、優希の意識は画面に集中していった。
*
二時間のドキュメンタリーが終わった。
ずっと集中して見ていたせいで、優希は頭がぼーっとしていた。
「寝るか……」
あとは布団の中で本を読んでから寝よう。
そう思って立とうとすると、スマホに通知が来ているのに気が付いた。
表示された名前を見て、胸が跳ねる。
芦科さんからだ。しかも二件。
スマホを開き、通知の内容を確認する。一通目は電話で、二通目は文面だった。
『極東テレビの動物特集見ましたか?』
簡潔な一文だった。
けれど、その一文に、優希は思わずしまったと思ってしまった。
連絡してきていたのは一時間ほど前だった。
もう寝てしまっているだろうか?
もう十一時だ。夜も遅いので、優希は折り返しの電話はせずに、文で返すことにした。
『ごめんなさい。見ていません』
正直に返す。
下手に嘘をついて見ていないことがばれてしまう方が怖い。
送信。
すぐに返信なんてくるはずがないと思い、優希が机の上にスマホを置こうとするとスマホが震えた。
画面を見ると、芦科さんだ。
しかも、電話ですぐに返ってきた。
ドキッ。この擬音がピッタリなほどに胸が弾んでいる。
寝ようと思っていたところにかかってきた電話なんて本来なら無視してしまうのに、この電話はそんな気持ちにはならなかった。
すぐに出るのも気持ち悪いので、一拍置いてから電話に出る。
「もしもし」
『こんばんは。芦科です』
耳元に久し振りに聞く声が響いた。
優希の耳は芦科さんの声を忘れていなかったらしい。心地よい響きが脳にも伝わった。
「こんばんは。逢沢です」
定型文の挨拶をお互いに繰り返した。
『逢沢さん、もったいなかったですよ。見ないなんて。ペンギンたくさん出たんですから!』
本当にたくさんでていて、かわいかったようだ。
楽しさが声から溢れ出ていた。
「すいません。NHKの北極圏の生き物のドキュメンタリー見ていたので、見れませんでした」
『えっ! そんな番組やっていたんですか!?』
「はい、九時から。結構おもしろかったですよ」
『んぅ。そっち見ればよかったです』
さっきまでのテンションの高さはどこへ行ったのやら。芦科さんは、悔しそうな声に一転していた。
感情が表にでやすいのだろうか。
「芦科さんが見ていた番組もおもしろそうですよ。楽しかったならいいじゃないですか。僕が見ていたのなんて、ペンギン一羽も出ていませんから」
『でも、そっちの方が見たかったです。勉強になったと思いますし』
「勉強熱心なんですね」
『好きなことに対してだけですよ。そんな立派なものじゃないです』
「好きなものだけでも勉強することに変わりはないじゃないですか。好きこそものの上手なれって言いますし」
『では、後学のために逢沢さんが見た番組の内容教えてください』
「いいですよ」
『ちょっと待ってください。メモ取ります』
これにはさすがに優希も笑ってしまった。
熱心じゃない。超熱心だった。
そうして、優希はドキュメンタリーの内容を覚えている範囲で話した。
そのあとは、芦科さんにも見た番組の内容を教えてもらった。
芦科さんが見た番組も、十分にしっかりとした内容だった。これはお互いに違う番組を見ていて良かったのかもしれない。
だが、時計を見ればもう日付が変わってしまっていた。
芦科さんも話に一区切りがついていたので時間を確認したらしい。
『すいません。こんな時間まで。大丈夫でしたか?』
「大丈夫ですよ。勉強にもなりましたから。芦科さんこそ良かったんですか?」
『ありがとうございます。わたしも大丈夫ですよ。明日予定があったわけではないので』
「そうですか。なら、良かったです。じゃあ――」
『あの、また水族館に行く予定とかってありますか?』
このままズルズル話すのは悪いと思い、優希が電話を切ろうと思ったところで芦科さんが言葉をかぶせた。
「いえ、特にありませんけど……」
俺は部屋にあるカレンダーを見る。
とうぶんどこかに行く予定はなさそうだった。
『あの、じゃあ――
――年が明けたら、どこかの休日で一緒に水族館に行きませんか?』