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ドストエフスキー論

 ドストエフスキーの「心に染み入る言葉」・「他者性」について


 ミハイル・バフチンはドストエフスキー作品内の「心に染み入る言葉」というタイプの言語を次のように規定している。


 「確かに、ムイシュキンは、ドストエフスキーの構想通り、初めから『心に染み入る言葉』の持ち主、つまり他者の内的対話の中に積極的に、自信を持って入り込み、その他者が自分本来の言葉を自覚するを手伝ってやることのできる言葉の持ち主である」


 ここでは「白痴」の中のムイシュキンについてしか述べられていないが、以下の文章では「心に染み入る言葉」という定義を僕なりに自由に展開し、論じていく事にしたい。したがって、バフチンの意図とは外れた話にもなるだろうが、バフチンの言葉をきっかけとして考えていく。


                          ※


 「心に染み入る言葉」のバフチンの定義とは上記にあげたようなものだ。この事を言い換えると、他者の無意識的応答それ自体に対して語る言語…と考えられる。これは例えばアリョーシャが兄イワンに対して言う

 

 「父さんを殺したのはあなたじゃない」


 という一語だ。この言葉はイワンの中の内的葛藤『それ自体』に向かって述べられているのであり、イワンその人に対して述べられているのではない。アリョーシャはイワンの奥のもう一人のイワンに話しかけているのであり、表面的なイワンに話しているのではない。(これは以前にも指摘した覚えがある) だから、アリョーシャは『表面的なイワン』にその後、拒絶されたとしても平気でいられる。「本当の兄さん」は「表面的な兄さん」とは違うという事をアリョーシャはよく知っているから。


 ここで、自分が注意しておきたい事がある。『心に染み入る言葉』を発する権利がある人間とは誰か、という事である。自分のイメージでは、それを発せられるのは『聖職者』である。例えば、それは悪霊のチホン、カラマーゾフのアリョーシャ、また、聖職者ではないが聖人気質のムイシュキン、などである。ここに付け加えるなら、罪と罰のポルフィーリィを上げてもいいかもしれない。ポルフィーリィは聖職者、聖人ではないが、人生の普通のコースを外れた、独身で将来のない人物として描かれていた。


 こうした事を上げて僕が何を言いたいかというと、人生において真実の言語を発する権利を持つ者は、世俗の論理にまみれていない人間だ、という事だ。世界というのは世俗の論理、世俗の人々で溢れている。ドストエフスキーその人も世俗の論理、世俗の意識を持っていた。しかし、世俗の論理、世俗の体系の中を泳いでいる人ににはその奥にある真実を語る事ができない。世俗の内部の、その奥の「真実」を語る権利があるのは、世俗の論理から外れた「聖職者」である。(ここで、「聖職者」という言葉を自分は非常に広い概念として象徴的に捉えている)


 話を拡大する。アメリカに、エリック・ホッファーという優れた哲学者がいた。ホッファーという人はアメリカ内部を放浪者としてうろつきつつ、日雇い労働をしつつ動きまわり、その過程で図書館で本を読んで自分の哲学を作り上げた哲学者だ。ホッファーの自伝を読むと、彼の生活というのがよくわかるし、彼の、誰とでもうまくやっていける、という感じの人柄の良さも感じられる。

 

 それで、ホッファーが好きな本の中にドストエフスキーの「白痴」がある。ホッファーは「白痴」を毎年読む事にしていたそうだが、僕にはどうしてホッファーの好きな本が「カラマーゾフ」や「罪と罰」ではないのかという事に密かに疑問を感じていた。それである時ふと気づいたのだが、自分の思ったのは、エリック・ホッファーという人はどこかしらムイシュキンに似ている、という事だ。


 ホッファーはアメリカを旅した人で、人柄も良く、聡明である。彼は哲学者であるから、彼が出会う世俗の人々の奥に隠された真実もその時々に見ぬく事ができてしまう。しかしそれ故に、彼はーー世俗の人間とはほんの少しばかりズレている。それを感じたのは、ホッファーが、彼を愛してくれる美しい女性と出会った時のエピソードだ。


 ホッファーはある機会でその女性と出会う。女性は女子大生で、ホッファーの事を愛しているし、ホッファーも女性を愛している。しかし、二人は結婚したり、結びつく事はなく、ホッファーの方で、女性の側からの拘束を嫌って逃げ出してしまう。ホッファーはその後も独身のはずだ。

 

 僕はホッファーの恋愛についてどうこう言うつもりではない。ただ、僕はホッファーの姿になんとなく、ホッファー自身が一番好きだった「白痴」の主人公、ムイシュキンの姿を見てしまうのだ。ムイシュキンもまた、地に足をつける事ができず、「生活」という泥土の中に身を委ねられない人物だった。ムイシュキンはナスターシャとアグラーヤの間でどっちつかずの態度を取り、現実的な人間存在として相手を愛する事ができない。彼は、博愛精神でナスターシャを愛するのだが、それは現実とはかけ離れたものだからたとえ結婚してもうまくいかなかっただろう。一方、現実的な恋をするアグラーヤに対しては拒絶してしまう。


 ムイシュキンにしろ、ホッファーにしろ、彼らは世俗の論理に身が染まらないからこそ、世俗の論理の奥にある人間存在について的確な言葉を吐く事ができる。ホッファーは「哲学者」であり、ムイシュキンは「聖人」である。これをもっと拡大してみると、「哲学者」と呼ばれる存在は、世界の中に身を浸していないからこそ、世界とは何かという問いに答えを出せる人々だと定義できるだろう。哲学者は独身が多い、というのは歴史的事実だ。


 「心に染み入る言葉」について戻ると、そのような言葉によって相手の深層に触れる事ができるのは、人間が表層の中に位置づけられていないからこそだと言える。チホンやムイシュキンらは、聖人として、人間の奥にある言語に触れられる。しかし、それは彼らが、世俗としての存在を疎外された故…と考える事もできる。


     

                           ※


 話を戻す。もう一度、アリョーシャの言葉に戻ろう。アリョーシャは、自分が父を(間接的に)殺したのではないか、と葛藤しているイワンに対して


 「あなたが殺したんじゃありません」


 と言った。この言葉はアリョーシャのイワンに対する「心に染み入る言葉」だ。これとほぼおなじ言葉はその後に、悪魔的存在スメルジャコフによってイワンに繰り返される。スメルジャコフもまたイワンに対して


 「あなたが殺したんじゃありません」


 と言った。ここに僕は恐ろしいほどのドストエフスキーの技工を見たいと想う。


 「あなたが殺したんじゃありません」という単一の言葉はアリョーシャとスメルジャコフという違った主体によって、イワンという同一人物に向けられている。この同じ言葉は、アリョーシャとスメルジャコフでは、『全く違う意味』の言語として用いられている。

 アリョーシャの場合、『兄さんは本当に殺していないのだ、仮に兄さんが心のもっとも深い部分で父さんが死ぬ事を密かに望んでいたとしても、「それでも」兄さんは自分と葛藤しており、父さんを本気で殺したいと願ったわけではなかった」というほどの意味で使われている。

 一方、スメルジャコフの場合はこれとは真逆だ。スメルジャコフの言葉は「確かに、あなたは直接には手を下しませんでしたが、あなたは私に殺しの命令をくだされました。あなたはフョードルを直接殺しはしませんでしたが、あなたは私に指示をしました。ですから、殺したのはあなたですよ」というほど意味になる。


 ここでは全く同一の言葉が違う主体によって語られる事により、全く違う意味が付与されているという事態が起こっている。もちろんこの構造は単に技巧的なものとして作られたわけではない。この構造はドストエフスキーが、イワンという人物を解読し、その内面を露わにさせる為に必要とした技工である。この時、アリョーシャはイワンの善良な側面を強調し、スメルジャコフは悪魔的な部分を強調する。どちらの言葉もイワンの中にあったものだ。


 ここで二人はそれぞれ、「心に染み入る言葉」を使っている、と言う事ができる。アリョーシャもスメルジャコフもイワンの言葉など聞いていない。彼らは共に、イワンの奥にある言葉を聞き取っているのであり、その「聞き取り方」にアリョーシャとスメルジャコフの、天使と悪魔との差異が現れてくる。そして天使と悪魔、両方ともがイワンの内面にあったのであり、それはたった一つの言葉「あなたが殺したんじゃありません」という台詞をどんな風に解釈するのかという違いによって、恐ろしく明白に晒されている。


 ここから更に突き進むと、イワンが後に戦う事になる、イワン自身の幻影ーー「悪魔」のイメージとなる。イワンが戦うはめになる悪魔は紳士のみなりをしていて、冷静な口調で話す。それはイワンの中の内なる言語が外化したもので、イワン自身に反抗し、別の存在のようにイワンに語り出す。この時にはもはや「心に染み入る言葉」はどこにも見出されない。イワンは悪魔が彼の心に侵入しようとしてくることに、反抗しようとするのだが、反抗しようとする動作事態が逆に相手の存在を、実在のものとして認める事になる、という厄介な構造を生んでしまう。


 イワンが恐れていたのは、自分の中で隠し通していた言語が明るみに出される事だ。それは、「他者」を通じてなされなければならない。ドストエフスキーに特徴的な事の一つは、小説内において、「純然なる他者」など一人もいない、という事だ。誰しもが相手の顔に、自分自身の相貌を読み取る。しかしそれにも関わらず、ドストエフスキーの小説には、他の小説家と違って圧倒的な「他者性」がある。登場人物はそれぞれ、自分とは真逆の、全く異質な人物を目撃し、それと抗争する事になる。これは、例えば、イワンのような人物にとっては、最大の「他者」とはまさに、彼自身が自分に隠し通そうとしていた、彼自身の姿そのものの事なのだ。つまり、ドストエフスキーの登場人物にとっての「他者」、「他者性」とは、彼自身の内部に秘められ、自分の中にあるにも関わらず、自分にはどうしても発見できない言語そのものの事だ。これは彼以外の人物によって、生きた存在として具現化され、象徴化されなければならない。そして登場人物本人は、隠れた言語である他者と抗争し、あるいは融和することによって自己を成長・完成させてゆく事になるのだ。


 ここまで引っ張ってきて、ようやく僕にも「他者」というものが何であるのか理解できてきた。それは彼が隠し通そうとしていた言語であり、生きた実体として彼の目の前に立ち現れる事だ。普通は他者というのは、ただんに自分とは違う人物の事だろうが、仮に自分と全く同じ趣向の持ち主であるならばそれは「同一者」と呼ばれるにふさわしく、また、単に自分とは逆の立場の持ち主ならばそれは「敵」と呼ぶにふさわしい。ドストエフスキーの登場人物、特に重要なキャラクターに関してはそう言う事はできない。イワンにとって悪魔が敵なのは、悪魔が彼と逆の立場だからではない。そうではなく、それはまさにイワン自身だからこそ、彼はそれに戦いを挑まなければならない。そしてイワンはこの戦いの滑稽さも、悪魔が実は自分の分身に過ぎない事も知っている。知っていて、それを演じるという事に現代の滑稽さがある。この時、彼にとっての他者は己自身に過ぎない。それでも彼には他者が必要なのである。全てが馬鹿らしく、全てが自己の意識内で完結したラスコーリニコフ、イワンのようなキャラクターにもやはり他者は必要なのだ。彼らは自分自身が何であるかを確かめる為に、他者達がひしめく世間に出て行く。その時、世間、世界とは彼らの自己意識の反映であり、この時、この人物は世界と格闘する事によって自己への認識を深め、それによりまた、世界へと帰ってくのである。


 このようにして考えてくると、「心に染み入る言葉」…例えば、チホンのスタヴローギンへの言葉などもまだまだ発展して考える必要がありそうだ。ドストエフスキーの極度に発達した技巧は、「カラマーゾフ」のイワンの悪魔との対話、またここでは扱わなかったが、裁判での殺人事件の解釈の方法などにおいて現れた。ドストエフスキーの技巧は、「心に染み入る言葉」から更に突き進み、自分の隠れていた心そのものが幻覚として現れるという情景となった。そうでなければ、表し得ないほどイワンの内面は複雑だったわけだが、この複雑さは、他者の極限としての同一者ーーつまり、幻覚としての悪魔という個人として現れる他なかった。このような表現法はドストエフスキーから影響を受けただろう数多の作家も、真似する事はとても不可能だと思う。ドストエフスキーの構造の深さはまだまだ探す余地がありそうだが、この論考はここで終わる事とする。


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