第五章 旅立ってもいいですか?1
天璃が鈴木女史に誘われたのは、秋風が吹き始めた9月の終わりだった。
いつになく深刻な顔をして、酒を煽る鈴木女史に、天璃は何と言って声を掛ければいいのか分かりかねていた。
酎ハイを二杯空けたところで、鈴木女史は意を決したように口を開いた。
「突然で悪いけど、私、会社辞めます」
一瞬、何を言われているのか分からなかった天璃は、えっと訊き返す。
「テンちゃんには悪いけど、私、もう決めたから」
「ちょっと待ってくれよ。急にどうしたんだよ」
「実は急でもないんだ」
「いやいやいや、今、鈴木女史に辞められては困る」
「本当に申し訳がない。この通りです」
頭を下げられ、天璃は困惑するばかりで、次の言葉が見つからずにいた。
顔を上げた鈴木女史の目に、うっすらと涙が浮かべ、髪を掻き上げる仕草に天璃はドキッとさせられる。
「ずっと迷っていたんだけど、テンちゃん見てたら吹っ切れたんだ」
そう言われ、天璃はますます眉を垂れさげ、首を傾げる。
「あんたは凄いよ、テンちゃん。あんなスキャンダル沙汰にされても、平常心を崩さずにいられるなんて。私なんか全然ダメ。大学卒業してすぐだったんだ。彼、医者の卵で、忙しくて全然私に構ってくれなくって、寂しくって寂しくって、もう会うと喧嘩ばかりしちゃって、そういうのに疲れて別れたんだけど、何となく忘れられないでいたんだよね。もう10年も前の話よ。もういい加減忘れなさいって感じよね。それが去年、偶然彼と再会しちゃったのよ。お互い老けちゃって笑っちゃったけど、彼、バツイチで、今度研究のためにアメリカに行く話とかしてくれて、ああ私、この人、まだ好きなんだなってしみじみと思っちゃったんだよね」
酒は入っているが、これくらいで酔う人ではないというのは、天璃がよく知っている。
「彼について行くってこと?」
「うん。医師として男として、一からやり直したいから一緒について来てくれないかって言われて、散々迷ったんだけどね」
「そういう事なら、引き留めるわけにはいかないか」
ため息交じりで言う天璃を、鈴木女史が寂しいそうに見つめる。
「テンちゃんって、本当に鈍いよね」
そう言うと鈴木女史は席を立ち上がる。
つられて席を立った天璃が、どういう意味だよと笑顔で訊き返す。
「分からないならもういい」
「鈴木女史、だから何?」
先にどんどん行ってしまう鈴木女史の肩を掴んで、振り返させた天璃は、その表情を見て、焦る。
なぜ、鈴木女史の瞳が濡れているのか分からなかった。
「あんた、何年私と一緒に働いていると思っているの? いい加減、私の気持ちに気が付きなさいよ」
まさかまさかの話である。
鈴木女史が、恋愛話に過剰反応してしまう原因が自分にあったとは、つゆとも知らなかった天璃、きょとんとした表情のまま、鈴木女史の背中を見送っていた。
始まってもいない恋だが、大打撃を受けて帰宅した天璃を待ち構えていたのは、重雄の緊急搬送の知らせだった。
混乱と焦りの中、天璃は帰って来たばかりの瑠璃の手を掴み、新幹線に飛び乗っていた。




