第二章 どうすればいいの?8
「あい~ひょっとしたばいら天璃君じゃなか」
ぎくりとした天璃が振り返ると、少しふくよかになった比呂美が、満面の笑みで立っていた。
矢張り避けて通れなかった場面に装具してしまった天璃は、心なしか顔をひきつらせ、やぁと軽く手を上げてみせる。
「いつ、こっちに戻っち来よるん」
「昨日」
「どっか悪かん?」
顔を曇らせて訊く比呂美を見て、ちょっとと答える。
そうなのだ。比呂美は散々、恋をしまくり天璃の家の近所に結婚し引っ越してきていた。よりによって、総合病院の事務員として働き出したというのは、昨年の春に帰って来た時に、聞かされていた。重雄にそれとなく、隣町の病院で受診するように勧めたのだが、あっさり却下されてしまっていた。
「りっちゃん、呼ばれているよ」
呼びに来た瑠璃が比呂美を見て、天璃の腕を強く引っ張る。
「天璃君」
引きずられるように歩く天璃は、眉を垂れさげた顔で振り返り、頭を下げる。
多感だった比呂美にしては、随分質素な相手を選んだな。というのが去年、比呂美とその夫である柴田を見た時に、最初に感じた印象だった。それになぜだかあまり幸せそうに見えない比呂美に、相変わらず困り顔で、社交辞令的な会話をしたものの、後ろ髪を引かれる思いで振り返ると、同じように比呂美も振り返っていた。
あの一別以来の再会だった。
ついでに受診させられた天璃は、胃カメラを飲むことになり、暗い気持ちになってしまい、会計額を比呂美に言われても、上の空で財布からお金を落としそうになり、大丈夫と顔を覗き込まれ、カッと顔を赤くする。
「よかよか? 変わっちおらんわね天璃君。安心したばいわ」
高校時代から変わっていない笑顔に、天璃は眩しさを感じずにはいられなかった。
「そうかな」
「なして、うち、天璃君っち別れちゃったんちゃろう?」
「急にどげんしたと? へんなこつ言わんけんでちゃ」
声をひっくり返して言う天璃を見て、比呂美はくすくすと笑った。
再検査を告げられ、がっくりと座っている重雄の手を取り、出て行く天璃を見届けた瑠璃が、ツカツカと比呂美の元へ近づいて行き、きつい目つきで睨む。
「言っちきましゅばってん、りっちゃんに色眼鏡使うん、やめてもらうけんね。こん雌豚」
「大変申し訳ありませんが、順番でお呼びしておりますので、そちらでお待ちください」
あっさり切り返された瑠璃は、鼻を一度ならし踵を返した。
そんな女同志の火花を散らしたことも知らずに野郎二人は、車の中で深いため息を何度も吐いていた。
二日後、天璃は緊急手術を受けていた。
瑠璃の執拗に迫られ、天璃の胃はついに決壊してしまっていた。
吐血を繰り返す天璃の横で、瑠璃は青ざめる。
「りっちゃんの死んやう。死ななかで。死ななかで。りっちゃん。瑠璃ば一人にせんでちゃ」
泣き叫ぶ瑠璃の肩を抱いた美璃は、困惑な顔で重雄を見る。
「瑠璃、そげん泣かいなくてもよかよかだ。こぎゃんんでおれは死ななかちゃ。父しゃん悪か。救急車、呼んでくれるかいな」
「オレの乗しぇて来る」
「よかから。親父ばってん調子良くなかんやろ。こうゆう時な、おっちなしく救急ば頼るんのいっちゃんなんや」
怒鳴った拍子に吐き気を模様した天璃は、トイレへ駆けこむ。
「りっちゃん」
大騒ぎで運ばれた天璃は胃に空いてしまった穴をクリップ止めされ、一週間入院を余儀なくさせられる。
瑠璃は受験勉強どころじゃなくなっていた。
入院すると言う事は、あの比呂美という女がいつもそばにいるってことになる。頭がおかしくなりそうだった。
「重病患者じゃあるまいし」
個室を用意しろという瑠璃に、天璃は苦笑する。
「そげなこつ言うて、りっちゃん、あん比呂美っちゆうおなごしっち、寄り戻そーっちしとるんやろう」
「あん人は事務員しゃんで看護師じゃなかから病室には来なかねら、くだらんけん心配せんん」
「そげなこつ言うても同じ病院におんしゃあんだから。お昼休みげなあっけんやろ。あんおなごし、きっっちんこんこここへやっちきんしゃーんだ。そーに決まっちいる」
そんな二人のやり取りを聞いていた同室の患者の一人が、にこにこしながら話し掛ける。
「いななたたち、新婚しゃんかい?」
「いいえ」「はい」
二人の声が重なる。
「瑠璃」
天璃に怖い顔をされ、瑠璃は下をペロッと出す。
「妹なんです。心配性で」
「そいにしても仲のよかね」
天璃は笑うしかなかった。
これから一週間、瑠璃はここへ泊る勢いでやって来るのは間違いない。
翌日、天璃は個室に移り、当然のように瑠璃が参考書を広げ、朝から晩まで張りついている。その間、比呂美が一度二度見舞いにやって来たが、瑠璃の威嚇によって追い払われていた。




