序章2
朝からくたくたになって通勤してきた天璃を、最初に出迎えたのは、事務員の高瀬帆南だった。
給湯室でお湯を沸かしていたらしく、通りかかった天璃を見つけ、声を掛けて来たのだ。入社したてのその新鮮な笑顔は、自分に自信がない天璃にとって、眩しいものでしかなかった。
ぎこちない挨拶を返された高瀬は、それでも100ワットの光を思わす笑みを綻ばす。天璃の眼はこれだけで焦熱されてしまう。そんな危機感を心に秘め、その場から立ち去るように、ため息を吐きつつ、ロッカーに向かう。
我を忘れて見つめている帆南をつゆとも知らずにいた。
情けない顔をした天璃を見つけ、森岡元が今にも歌い出しそうな勢いで話しかけて来た。
「居たんですよ」
「何が」
主語を飛ばされ、天璃は困惑した顔で森岡を見る。
「女神ですよ女神」
どうも天璃は、この男が苦手だった。
思っていることをすぐに口にしてしまうあたりの無神経さが、好きになれない。二年後輩になるが、この森岡、入社して二日目で天璃に馴れ馴れしい態度で接するようになっていた。
呼び名はテンちゃんだし……、失礼極まりない。
何度か忠告を試みたのだが、
「そう硬いこと言わないで、仲良くやりましょうよ」
の一点張りで押しきられてしまった。今ではどっちが上なのか分からなくなってしまっている。今年入社してきた小鹿陽奈子などは、すっかり森岡の方が上だと、つい最近まで勘違いしていたぐらいだった。
「モデルの最上美希が、居たんですよ」
「誰それ?」
「知らないんですか? 最上美希。最近、CMとかによく出ていますよ。モデルみたいだけど。まぁテンちゃんに言っても、分らないか」
さらりとそう言いのけた森岡は、新たな話し相手を求め、先に研究室へ入って行く。気弱な天璃を、みんな口を揃えて、テンちゃんと呼ぶ。嫌ではないが、やはり後輩に言われるのは、いささか抵抗を感じる。それを咎めたところで何の効果を持たないので、放ってはあるが。それに人手が足りていない研究室、そんな細かいことを気にしている余裕などどこにもないのだ。
「あらテンちゃんおはよう。珍しいわねこんな時間に来るなんて」
入って来た天璃を見て、鈴木女史は時計を見上げながら言う。
森岡はもう新しいターゲットを見つけ、さっきの話をより具体化させて喋っている。
「ああ天璃先輩、おはようございます」
小鹿だけが一応敬意を表してこう呼ぶが、本人がいないところではやはりみんなと同様、テンちゃんがぎゃはははとなる。
馬鹿笑いをしている小鹿に対し、鈴木女史のメガネがキラリと光る。
鈴木愛子はこの研究室で一番の古株である。髪を後ろで一つにきっ詰め、きりりとした容姿。白衣のポケットには常に三種類のペンが刺さっており、さっそうと歩く。以前はこの会社のマドンナと呼ばれていたが、30歳を越した辺りから、それは伝説に変わりつつある。
それでも社内案内には、必ず鈴木女史の写真が使われている。白衣姿に研究している姿は、鈴木女史より勝る者はいない。頭が切れて仕事をするには、良い仲間なのだが、一歩離れてしまった彼女は、少々恐怖を感じさせられることがある。その性格ゆえ、男性とのお付き合いが長くもたないのじゃないかと、もっぱらの噂である。
「小鹿さん、お取込み中申し訳ないけど、このサンプルを常務のところへ届けてくださる。出来れば3分以内で」
やんわりとした口調だが、明らかに棘を感じさせる気迫がある。
鈴木女史に言われ背筋を正した小鹿が、慌ててドアを飛び出して行くのを、天璃は苦笑で見送る。
「廊下は走っちゃだめよ。学校で教わったでしょ。まったく、これだから新人は」
鈴木女史は腰に手を当てて、大げさにため息を吐いてみせた。
「いやいやおはよう。朝から賑やかだね」
トイレから戻った室長である徳田謹一郎が、温和な笑みで自分の席に着くと、鈴木女史がお茶を運んでいく。
「皆、そのままでいいから聞いてくれ」
小鹿が戻って来たのを合図に、徳田が声を張り上げた。
「今季のコンセプトが決まりました。各社ともに、ほぼキュートさを求めて来ると思われます。まぁうちは自社ブランド品は出していないので、成分とかが重要視されてくるとは思いますが、一応頭に入れておいてください」
銘々は一様に頷き、仕事に取り掛かる。
天璃が務める会社は、化粧品の製造を携わっている。製造とはいっても輸入された化粧品を日本人の肌に合わせて、改良するものと、今の話のようにコンセプトを提示され、それに似合う商品開発をし製造した商品を、販売元へ渡すという2パターン業務になる。
天璃は、後者で口紅の担当である。