第二章 どうすればいいの?6
胃に加え、頭までが痛くなってきた天璃は立っているのも辛く、なだれ込むように自分の席に着いたのだった。
その様子をいち早く気が付くはずの森岡は、何やら難しい顔で資料を睨んでいた。
この不機嫌な顔をしている森岡、実は口ではああいっていても小鹿に、少々揺れていたのだ。予想外の展開についていけず、小鹿を目の前に、絡み方が分からなくなってしまったというのが正直なところ。普段お調子者だけに、メンテナンスが滅法弱く、普段どおりが出来ずにいた。しかし分り難い男。しかめっ面しているその下で、真逆な心が息をひそめているとは、誰ひとり気が付かまい。
鈴木女史は仕事の鬼と化し、気が狂ったようにパソコンのキーを打ち続けている。
のんびりとお茶を啜っていた徳田家が、ようやく天璃の異変に気が付き、
「天璃、どっか具合が悪いのか?」
その言葉で、ぐったり席でうな垂れている天璃に気が付いたくらいだった。
「いや、大したことじゃ」
言いかける天璃の携帯が鳴り、ふっと気が遠くなるのを覚える。
「ちょっと、大丈夫?」
危うく携帯電話を落としそうになる天璃に、鈴木女史は咄嗟的に腰を浮かせ尋ねる。
ディスプレイの名前を見て、天璃はよろめいてしまったのだ。
「あんまり、無理しない方がいいんじゃないの。ね、室長、今日は帰らせていいですよね」
珍しく森岡が、積極的にそんなことを言い出し、それを受けて、小鹿も口を挟んだ。
「そうですよ。帰った方がいいですって」
「それより携帯、出なくていいの?」
鳴りっぱなしの携帯に目を落とし、苦笑いで鈴木女史の言葉に答えた天璃に、渋い顔をしていた徳田もダメとは言えなくなり、そのまま帰宅することになった。
一向に鳴り止まない携帯電話に、顔を顰め観念するように出た天璃は、思わず受話器を耳から遠ざけてしまう。
音が割れ、びりびりと耳障りなノイズに紛れ、いつも以上に甲高い最上の声が混じる。
「天璃、おはよう。今からどっか行かない?」
「あのー」
「窓の方見て」
廊下に出た天璃は促されるまま、窓の方に目をやると、歩道橋の上で、大きく手を振る最上が見えた。
「そんなところで、何をしているんですか?」
「なかなか口紅が出来上がってこないから、専務さんにせっつこうかなと思って来たんだけど、天気もいいし、仕事、なくなっちゃったから、天璃、一緒に遊ぼうよ」
「一緒に遊ぶって、普通に考えて不可能な誘いだと思いませんか」
「そっかな。結構みんなやっていると思うけど」
「とにかく、今日は無理です。口紅は出来次第、こちらから連絡をしますから」
「テンちゃん、まだそんなところに居たの?」
不意に声を掛けられ、天璃は肩をビクンと動かす。
「じゃ、そういうことで、よろしくお願いします」
強引に話を打ち切った天璃は、ぎこちない笑みを、サンプルケースを持った鈴木女史に向けた。
「もしかして、社長?」
出来ればその話題は触れたくはない天璃だが、鈴木女史としても放っておける問題ではない。
「テンちゃん、本当に私のことは気にしなくていいからね。仕事なんだから、そこはシビアにいきましょ」
「その話は……」
人目を気にするように辺りを見回す天璃に、鈴木女史は少しイラつくように、念押しをする。
「いい、くだらない理由で出世を棒に振ったら、私が許さないから」
「声、大きいよ。それに昨日も言ったように、鈴木さんとは関係がないんだ。俺には俺の考えがあって」
「だからその考えっていうのを、聞かせなさいよ」
本格的に頭が痛くなってきた天璃は、米神に指を当て顔を顰める。
「あっ忘れていた。これ、急ぎだったんだ。いいこと、今日はゆっくり体を休めて、自分のことをもっとよく考えるのよ。じゃ、お大事に」
そう言い残し、鈴木女史はさっそうと歩いて行ってしまう。
天璃は苦笑でそれを見送った後、さっきまで最上がいた歩道橋へと目線を送る。姿が見えないのを確認し、やれやれと頭を振る。
どうしたことなんだろう?
空からバケツをひっくり返されたように、次から次へと振ら掛かってくる災難とも思える情事に、天璃はつくづく考え込んでしまっていた。
胃まで本格的に痛みだしてきた。
外に出た天璃はその明るさに、目を瞬かせた次の瞬間、自分の目を疑う。
鮮やかな花柄のワンピースを着た女性が、にこにこと天璃に向かって手を振っていた。反射的に、帆度胸に目を向けてしまう天璃に、その女性は人目も憚らず飛びついて来る。
「りっちゃん。会いたかったよ」
「瑠璃、何をしてんだ? お前、学校は?」
「会社に電話したら早退したって言われて、お迎えに上がりました」
重雄のせっつかれ、美璃を迎えにやって来たというのは口実なのは、見え見えだった。 一分でも一秒でも早く、天璃に会いたくて、東京駅から会社へ直接やって来たのだ。それが功を成したことを快くした瑠璃は、引き放す天璃の腕に飛びつく。
「止さないか。人が見たら誤解するじゃないか」
「瑠璃、誤解されてもいいもん」
「いいから」
瑠璃は強引に腕を解かれ、口を尖らせ天璃を睨む。
「そんなフグみたいな顔をしてもダメなものはダメ。それより何をしに来たんだ」
「父しゃんに、母しゃんを連れて帰って来いって命じられました」
敬礼の真似をする瑠璃を見て、天璃は胃に激痛が走り、吐き気までしてきた。
途中、あんみつを食べて帰りたいと言う瑠璃を置いて、天璃は一人で帰宅すると、どっと疲れが出て、そのままベッドに倒れ込み眠りについてしまう。
天璃は塀に囲まれた場所に、一人で立っていた。
前を見ると、左右に別れた曲がり角が見え、天璃は急いでそちらの方へと進む。前を見ても後ろを見ても壁に塞がれ、天璃は焦りと不安に苛まれながら、夢中で出口を探す。額に嫌な汗をかき、息も上がってきた。苦しくなった天璃は居た堪れなくなり、叫び声をあげ、そこで目が覚める。
汗で、躰がべたべたしていた。
シャワーを浴び、天璃はふと瑠璃が帰って来ていないことに気が付く。
母親の姿もない。
不審に思い、天璃は薄暗くなっていた部屋の明かりをつけると、ギョッとなる。
帰って来ていないと思った瑠璃が、ソファーにうな垂れるように座っていた。
「お前、帰っていたのか?」
「りっちゃん、私に何か隠し事をしていない?」
「ないよ。それより、母しゃんは?」
「買い物。りっちゃんが、疲れているみたいだから、スタミナ料理作るって。そんなことはどうでもいい。りっちゃん、正直に答えなさい。この綺麗な人は誰?」
携帯の画面を見せられ、天璃は唖然となる。
鈴木女史と歩いている姿だった。
「会社の同僚で、落ち込んでいたから愚痴を聞いてやっていただけだ。て言うか、何でそんなこと瑠璃に言い訳をしなければならんの?」
「りっちゃん、酷い。私というものがありながら、浮気よ浮気」
「だから、瑠璃と俺は兄妹で」
「あわわわわわわ」
瑠璃は都合が悪くなると、両耳を手で塞ぎながらこんな奇声を発する。
冷静になった天璃は、瑠璃から携帯を取り上げた。
「だいたいこの携帯って、俺のでしょ? こういうことをするなら来春からの同居、考え直してもらうからな」
「りっちゃんのバカ」
瑠璃は泣きながら自分の部屋へと駆けこんで行ってしまい、天璃は発信者の名前を見て、全身の力が抜けていった。
最上がどうしてその写真を持っているのか、理由は分からなかった。




