序
左サイドから苦しまぎれのクロスが上がる。
ペナルティエリア内にオレンジ色のユニフォームを着る相手選手は一人、フォワードの久我だけだ。
二年生ながらキャプテンマークを巻く暁平は自分の体の前に久我を入らせることなく、余裕を持って頭でクロスを跳ね返す。空中戦ではやはり上背に勝る暁平に分があった。
「くそっ、くそっ、くそっ!」
暁平の背中越しに、久我が悪態をついているのが聞こえてくる。
無理もなかった。前半をあと5分残すのみとなっても、久我はまだペナルティエリア内で一度もボールに触れることさえできていない。センターバックを務める暁平の的確なポジショニングによって久我は沈黙し続けていた。ここまでは空中戦のみならず地上戦においても暁平の完勝といっていい。
もったいないな、と暁平は頭の片隅で思う。
姫ヶ瀬FCジュニアユースの選手たちは誰も久我健一朗という優れた点取り屋の使い方をわかっていないのだ。彼がどれほど頼もしい選手なのかは、暁平自身が肌で覚えている。半年と少し前まで二人はずっと同じチームでプレーしていたのだから。
ここぞという場面でこそ久我は期待に応えてくれるフォワードだった。そして、そんな彼を誰よりも巧く使いこなしていたのが小学生の頃、二人と同じく鬼島少年少女蹴球団にいた片倉凜奈だろう。
サッカーの神様にわずかな間だけ愛されていたような天才少女、凜奈の両足から繰り出される緩急自在のラストパスが久我の得点感覚をみるみる研ぎ澄ませていった。いわば彼女はストライカー久我の育ての親みたいなものだ。
あの頃の光景が今の暁平にはひどく懐かしい。
暁平がクリアしたこぼれ球は鬼島中学のマイボールとなっていた。一列前の選手からバックパスで再び暁平にボールが預けられる。
目の前のゲームに集中しなければならない。一瞬浸ってしまっていたセンチメンタルな気分を置き去りにするかのように、トラップからツータッチで右足を振り抜いた。
糸を引いたみたいに正確なロングフィードがサイドに張っていた前線の選手へとピンポイントで渡る。鬼島中学のカウンターが始まった。
スコアはまだ0―0、ここを勝負の仕掛けどころとみた鬼島中学のスカイブルーのユニフォームが三人、四人、五人と雪崩を打つように相手陣内へと攻め上がっていく。
この試合は公式戦ではなく、姫ヶ瀬FCのオーナー企業による私的なカップ戦だ。それでも暁平には負けてもいいなどという気持ちはさらさらない。
勝利こそが周囲の雑音を沈黙させられる、そう暁平は信じていた。