青いクレヨンの慟哭
大橋由佳子は、至って普遍的な主婦である。
幼稚園、小学校、中学校、高校と順調に卒業し、ある企業に就職して知り合った男性と結婚して寿退社、今に至る。
俺は大橋由佳子の息子として普通に誕生し、幼小中と普通に進学し、現在中学三年生である。
現在の大橋家についてのプロフィールは概ねこんなものだろうか。
あまりにも平凡すぎる、そう思っていた時が俺にもあった。正確に言うと十年ぐらい前だったと思う。
それまでの俺は幼さ故に、自分の生家を平凡だと思わざるを得なかったのだ。
父がいないことを本格的に知ったのは、幼稚園を卒業するかしないかという時だったと記憶している。
「渉くんのパパはね、遠い所にお仕事に行っているのよ」
由佳子は幼い俺にそう語った。
俺は不在の父を想うこともそうそうなく、毎日を過ごしていた。
由佳子は優しい母だったし、祖父母がよく遊んでくれたから、寂しいと思うことはそうなかった。
『お父さんがいないくらいで何だというんだ。』
父親がいないという複雑な家庭にあっても、俺は無邪気な生活を送っていた。実に純粋な時間であった。
大橋家について疑問を持ち始めたのは、つい最近のことである。
それまでは、ただの“父親が不在の家庭”という認識だったのだ。こんな家庭などどこにでもある、と思っていた。
故に、俺はこの家の平凡でない点を探しまくっていた。由佳子に見つかるといけないと本能的に考えた結果、家庭内探索は由佳子のいない間に行った。
そしてついに、見つけてしまったのだ。
探し求めていた非日常の欠片にして、俺の人生と家庭をバラバラにしてしまった原因を。
***
「…なんだこれ」
その壁は、妙な造りだった。
他の壁と同様にクリーム色の壁紙が貼ってあるのだが、湿気を含んでいるように盛り上がっている。
壁にピッタリと密着しているならこのような盛り上がり方はしないと思うが、なぜかこの辺りの壁だけが不自然に盛り上がっているのだ。
俺は数回、グイグイと壁を押してみた。……押すと元に戻るあたり、虫か何かがいるわけではないらしい。
一旦リビングに戻って時計を確認すると、時計は午後三時を指しているのが分かる。
由佳子は帰りが遅くなると言っていた。朝、リビングの食卓にその旨を書いたメモが残されていたのだ。
―――今がチャンスだ。
今を逃せばもう好機はない。そう考え、俺は自分の部屋からカッターナイフを持参し、問題の壁を切り裂く作業に取りかかった。
「よっ…と」
まず、壁にかかっていた、額縁に入った大きめの絵を外した。
バリバリ、と小気味のいい音を立てて壁紙が剥がれていく。
『こんなことをして本当に大丈夫なんだろうか』とか、踏み込んではいけない領域に踏み込もうとしているのではないか、というような背徳感を感じたりしたものの、俺は作業を続けた。
すでに壁紙は言い逃れができないまでに剥がれている。ここまでやってしまったら、壁の向こうを見ても見なくても同じだ。
俺は一呼吸置き、剥離した壁紙を一気に引っ張った。
「………ドア? なんでこんな頑丈に…」
壁紙の向こうにあったのは、何てことのない、木製のドアだった。
ただ、その開放を禁じるかのように釘で打ち付けられた何枚もの板が、その非現実性を一層高めている。
確実に、ここへの侵入は拒まれているのだ。―――誰によって?
俺にはもう、この所業は他ならぬ母親―――由佳子がやったものと思えてならなかった。由佳子の握っている重大な秘密が、この中に存在しているのだ。
薄っぺらい壁一枚を隔てたこの扉の奥に。
隠す場所などいくらでもあったはずなのに、わざわざ家の中に隠した理由は何なのか?…人目を避けるためだ。この家には俺と由佳子の二人だけ、他人の目に触れる機会は圧倒的に少ない。
そうまでして隠したいものとは、一体何なのか?
―――見てやろうじゃないか。こんな板なんか外して、母の秘密を明かしてやろう。
怒られるかもしれない、という懸念は意識の彼方に吹っ飛んでいた。俺にはもう、板を剥がして扉を開けるという選択肢しかなかったのだ。
さっそく俺は板を取り除く作業を開始した。釘抜きを探したが見つからなかったので、手袋をはめて釘を引っこ抜くことにした。
期待はしていなかったが、釘はだいぶ古びていたらしく、少々格闘したが無事抜くことができた。
この調子で残りの釘も取り払い、板を外した。―――扉は依然としてそこにあり、不気味に佇んでいる。
(…本当に開けるか?)
開けよう。深呼吸し、ドアノブを握りしめる。
俺は震えていた。この扉の向こうに何が待ち構えているのか、恐怖にも似た思いが脳にどっしりと居座っていた。
腹をくくった俺は、ドアノブに力を込め思い切り開け放った。
姫君を助けにきたヒーローのような心境で、できる限りの勇ましい体勢をとりつつ。
そして扉の向こうを視界に収めた瞬間、俺の体は凍りついた。
―――青。白い壁一面を這いずり回った青の色彩が、その小さな部屋を支配して――――――
『おかうさんごめんなさい おとうさんごめんなさい おかあさんごめんなさい おとうさんごめんなさい ここからだしてください ごめんなさい ここからだしてください おとうさんおかあさんごめんなさい ここからだしてください おかあさん おかあさん だして ここからだしてください ごめんなさい おとうさん だして ごめんなさい おかあさん だしてください おかあさん おかあさんおかあさんおかあさんおかあさんおかあさんおかあさんおかあさんおかあさんだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだしてだして』
それは圧倒的な奔流だった。
俺はその濁流に飲まれまいと一目散に逃げ、自室に避難した。
震えが止まらなかった。壁一面に書かれた言葉の羅列―――かすれた青い文字の羅列だけで、俺の全身は北の海に落ちたような寒気に包まれ、耐えがたい恐怖に陥ったのだ。
あれは一体、誰が書いたんだ?
監禁か何かされて極限状態に陥ったことは容易に想像できる。問題は、そのような状態に追い込まれるまでに至った現場が、俺の家の中にあるということだ。
誰が、何をやって、どういう理由で閉じ込められた? そいつは誰に、閉じ込められた?
とにかく法に触れるような事が起こったのは事実なのだ。…警察に電話しなければ。
震える手で携帯電話をとり、無我夢中で百十番のボタンを押す。
「もしもし……警察ですか? い、家の中で…変なものを見つけて……ハイ……ハイ、部屋です…壁一面に……ここから出してって…そうです、ハイ…部屋の中には入ってません……
ハイ、すぐに来て下さい……お願いします…」
***
大橋由佳子は至って普遍的な主婦であった。
会社員である大橋幸広と出会って結婚し、一人の男の子をもうけた。―――男の子は勇也と名づけられた。
そこからは、彼女にとって苦難の日々だった。
なにぶん初めての子供である、子育てのことなどはさっぱりだし、両親は田舎に残している。
彼女なりに、育児に心血を注いだ。甘やかしてはいけないと思い、できるだけ厳しめに育てることにした。
ある時、勇也は夕飯に出された野菜炒めを残した。
由佳子が「ちゃんと残さず食べなさい」と言っても、勇也は「お腹いっぱい」と譲らない。
育児の疲れもあってストレスが溜まっていた由佳子は、勇也の態度を「野菜が嫌いだから食べないつもりなんだ」と解釈してしまった。
彼女の怒りは爆発した。
『食べたくないんなら、そこにずっといなさい!』
普段は日用品や読まない本などを仕舞っていた部屋に勇也を閉じ込めた。
その時一緒にいた幸広は心配したが、たまにはきつめにお仕置きするのもいいだろう、明日になれば出してやるだろう、と軽く考えていた。
若い夫婦にとってはそんなものだったのだ。
しかし、由佳子は翌日になっても勇也を部屋から出しはしなかった。その翌日も、そのまた翌日も。
ひょっとすれば、由佳子は勇也に対して憎しみを抱いていたのかもしれない。
とにかく、三日もそのような状態が続けば、幸広の心配は頂点に達した。
『おい、いい加減出してやらないか!』
『……』
『勇也はもう三日も何も食べてないんだぞ! お腹を空かして…このままだと栄養失調で…』
『だって食べたくないって言ったんだもの。お腹なんか空かないわよ』
『何言ってるんだ!? もういい、俺が開ける!』
そこには、俺が見た通りの光景が広がっていた。
偶然にもその部屋に転がっていたクレヨンを勇也が見つけ、壁に書いていたのだろう。
母への謝罪、父への助けの願いを込めて。
その幼い体は、三日もの栄養不足状態には耐えきれず、まさに虫の息の状態で転がっていた。
病院に運ばれるも、甲斐なくその命は消えた。
夫婦に残されたのは、これからのことだ。
警察や両親には、三日前から姿をくらましていた旨を伝え、行方不明を原因とする事故であることを装った。
引っ越しをすると怪しまれるため、とりあえず部屋は壁紙を貼って隠した。
そうこうしているうちに、由佳子の妊娠が発覚した。
幸広は堕胎を勧めたが、由佳子はそれを拒み、結果第二子である俺―――大橋渉が産まれた。
俺が考察するに、由佳子はこう思っていた。
『またやり直せばいい。今度は、きっとうまく育ててみせる』
幸広が交通事故で死亡したのは、この一年後だったという。
警察の捜査で由佳子の所業が発覚し、由佳子は俺が見守る中パトカーに乗せられた。
面会の時に見た由佳子の顔は、いつも通りの母の顔だった。
「あなたが見つけたのね」
「…ああ」
「やっぱり引っ越しておくべきだったわね」
「……あれ、本当に母さんがやったの」
「…そうよ。あなたのお兄ちゃんになるはずだった子を殺したのは、私」
「……………なんでだよ…」
「もう遅いのよ。あなたに見つけられる前に、あれはなんとかしておくべきだった。でも、怖くてできなかったの。
あの子は……勇也は私を怨んでいるもの」
「…当たり前だろ! なんで、なんで死ぬまで放っておいたんだよ!」
「……母親として未熟だったのよ。私は……あなたを生み育てる資格なんてなかったのかもしれない」
***
現在、俺は祖父母のもとで過ごしている。
母が留置所に送られた今でも、あの時のことを思い出すのだ。
そもそも、俺があんなものを見つけなければ、俺と母は今までの日常を送れていたのではないだろうか、と。
同時に、俺があれを見つけたことで、勇也くんの魂は解放されたのかもしれない、と。
どちらがよりいい選択だったのかと考えても、今となっては何もかもが遅い。
だが、俺の軽はずみな思いと行動で、実の母を留置所に送る結果を迎えたのは事実である。
母は―――由佳子は裁かれるべき人間だ。それだけのことをやってしまった。しかし、俺のやったことは果たして正しいことだと言えるのか。
今でも俺は、真っ青に染まった部屋と勇也くんの慟哭を、夢に見る。