7-1 ホット・リミット
けたたましいサイレンと視界を赤く染める非常灯に更に動悸が上がる気がした。
何処までも続く冷たい回廊、まるで悪夢でも見ているように思える。
「ーーッ! 一体何なんだよ……!」
気が付いた時には息を切らしながらも走っていた。
何故、走っているのかは分からない。
足を止めてはいけない、焦燥感だけが彼をただ突き動かしていた。
何故、俺がこんな目に……ーー思い当たる節無い。
それどころか、何も分からない。
どこに行けばいいのかさえも。
「ーーいたぞ! そこだ!」
怒号に近しい声が狭い回廊に響く。
数名の足音が彼の後ろに続いた。
あぁ、俺は奴らに追われているのかーー理由は分からない、だが、捕まるわけにはいかない。
もう、あんな事は二度とゴメンだ。
「ーー目標の生死は問わない。 逃がすな!」
ーー死?
俺が?
冗談じゃない、殺されてたまるものか。
分岐する回廊を右へ左へと駆け抜ける。
正解である道である確証は無いが、勘を頼っている訳でも無い。
何故だか分からないが、この道が正解であると確信していた。
鬼が出るか蛇が出るか、何であろうとこの感覚を信じる他にあろうか。
不意に空気が変わる。
回廊のように閉塞された息苦しさは感じず、むしろ解放されたような心地さえ覚えた。
開けた空間、つまり外にに出たのだ。
上には満点の星空が、鼻腔をくすぐる塩の匂い、風鳴りが心地良く体温を奪っていく。
次の瞬間、目が眩む程の光がシャワーのように降り注ぐ。
彼にはそれが解放の曙光のように思えた。
「ーー存外早かったな」
振り返り目を細めると光の奥から声が響く。
彼の足が止まり震える、決して夜風の肌寒さではない。
声の人物が嘲笑うのを感じた。
この光は解放の曙光などではない、壁のように彼の行く手を阻む光だ。
次第に光に慣れて横目で周りを見ると、成る程、逃げているつもりであったが手の平で踊らされていただけのようだ。
光の先には何かの収容所のような建物、その壁面には無数のライトが彼を照らしている。
光の奥一つ一つから貫くような視線を感じ、小さく後退るーー囲まれている。
カラン、と足下の小石が闇の底に落ちて行く。
半歩後ろには真っ暗闇に波打つ音、崖だ。
冷や汗が一筋、あと一歩進んでいたら崖の底へ真っ逆さまだったろう。
「だが、お前は逃さんよ」
声の人物が一歩進む。
その姿は獣人と言うべきか、異様な姿をしていた。
周りには骸骨のような兵士が彼を取り囲むように控えている。
舌打ち、前門の虎後門の狼と言う事か。
「選択肢をやろう、大いなる意志の贄となるか、海の藻屑となるか……。 ーーやれ、ホルシード兵」
獣人が顎で指示すると同時にホルシード兵と呼ばれた骸骨の兵士達が四方八方から飛びかかる。
ホルシード兵の右手に装着された刃が照り返す。
一瞬死を覚悟する、いや、動きが遅い、これならば。
彼は迫る刃を躱し、逆に拳をホルシード兵に叩き込む。
体制を崩したホルシード兵を掴み、他方から迫るホルシード兵に向かって投げ飛ばす。
2、3体程巻き込み崩れるホルシード兵。
「ーー俺は……戦い方を、憶えている?」
自分でも驚いていた。
死の恐怖に突き動かされた訳ではない。
避け、明確な意思を持って反撃した。
まるで相手の動きが手に取るようにわかるかのようだ。
間髪入れず刃が続く。
やはり遅い、避けることは容易い。
それは戦いのアドバンテージを得ているとも言えるだろうが、この場に置いては通用しない。
みすみす死を選ぶ訳にはいかない。
凶刃を避けるたびに身体は熱くなると言うのに心は氷のように冷たく鋭く尖る。
視界に映る拳が、脚が禍々しく変身していくのが見えた。
普通ならば怪物と化していく身体に驚き恐怖を感じるだろう。
しかし彼にはそれが当然の事のように思えた。
右の紅の拳から炎が吹き上げ、左の青の拳が氷を纏い構えた。
獣人が嗤う。
「目覚めたか」
飛びかかるホルシード兵の頭を青の拳で掴み力を込める。
暴れる兵士を煩いとばかりに力を解放した。
音も立てず氷柱と化す、彼の紅の拳が唸りを上げる。
いとも容易く砕かれる氷柱。
ギロリと見得を切るように襲い掛かる兵を睨み付ける。
何度目かの刃をいなし、怯んだ隙に蹴りを叩き込む。
ホルシード兵が炎に包まれ吹き飛ぶと不意に叩きつけるような風が脇を吹き抜ける。
下がり過ぎたようだ、もう避けるスペースさえない。
ジリッと詰め寄るホルシード兵。
「流石だ。 ーー《紅の青》」
「紅の……青だと?」
カツリと獣人が彼の前に進み出た。
その腕に光が灯る。
徐々にその光が強くなっていく。
エネルギーが収束していくのが見て取れる。
「ーーだが、こいつはどうだ?」
獣人が腕を振るう。
次の瞬間、放たれるエネルギー弾。
防ぐことは不可能、避けるのも叶わない。
待つのは確実な死。
光が彼を飲み込んだ。
爆発、遠のく意識。
「ーー死ぬ訳には……」
闇の中に堕ちていくように意思が途切れ行く。
最後に彼が見たのは誰かの顔。
それは幻覚だったか……いや、それもどうでも良い。
今はもう闇に眠るだけだ。
………
………………
………………………
東の空が桃色に染まる。
曙光に照らされた獣人、バオグライフは嗤う。
バオグライフの視線の先には『紅の青』が先程まで立っていた淵だ。
その淵の地面はバオグライフが放った爆炎によって黒く焼けただれている。
あの爆炎に飲まれて無事でいるはずがない。
「ーー消し飛んだか……いや、あるいは」
バオグライフが崖の淵からそこを見る。
眼下に広がるは波打つ岩場。
よしんば避けることができたとしてもこの高さだ、海の藻屑だろう。
だがしかし、万が一のことがあるだろう。
「ーーホルシード兵よ」
傍に控えていたホルシード兵が音も無く消える。
確実にトドメを刺すために。
眼下の大波は何時までも岩を削ってとっていた。




