6-6 とある自然公園にて
話は1時間半前に遡る。
どこを見渡しても暗闇だ。
今日は月すらも夜空色の雲に溶けている。
その合間を潜り抜ける人物ひとり。
帽子を目深に被り、少し季節外れな長袖にベストを羽織っていた。
その人物はフゥと息を吐くと帽子を脱ぐ。
その下から長い、サラサラとした髪が零れ落ちた。
ケイだ。
彼女が辺りを見回す。
不気味なほどに静かで、木々の間から遠く見える街灯との境界に薄い膜で結界が張られてるようだ。
彼女が今いるのは風見鶏公園、その西部エリアの自然公園区画だ。
ざわざわと音が聞こえビクリと振り返る。
風が吹き木々がざわめいただけのようだ。
「バレずに済んだようですね……」
セツナとすれ違ったのがほんの30分前。
バレるのではないかとヒヤヒヤしていたが、どうやらケイの変装は見破られなかったらしい。
セツナとナユタが話を聞きに来た時にまさか、と思ったが本当に見回って自警団的行為をしていたとは……。
だが、彼が犯人に辿り着くことはないだろう。
これも彼の為、それだけではない。
「ーーカガミさんには悪いことをしましたね……」
彼らに話した推測は正しい。
しかし、全てが、とは言ってない。
例えば、出現予想ポイント。
ワザと違う、反対方面の出現予想ポイントを話したのだ。
現に彼は今頃犯人が東部エリアに現れると思って見回っている。
それはこの目で見たので間違い無い。
彼らを騙すのは、本当に心が痛む。
だが、ケイにも譲れないものがある。
一連の事件の被害者には我が高校の生徒も含まれている。
ナユタ、レキ……親友たち、セツナやシュン、後輩たち……大切な人たちを巻き込む訳にはいかない。
生徒会長として、いや、この街を愛する1人としてこの狼藉を見逃すわけにはいかなかった。
警察には頼れない。
頼ったとしても妄想や笑い話として一蹴されるだけ。
現にケイもそうだった。
だから、自ら立ち上がるしかない。
持ち前の正義感が彼女に奮い立たて突き進めと叫ぶのだ。
「私の推理が正しければ、今日ここに現れるはず……!」
一陣の風が吹き抜け木が揺れた。
いや、風と言うよりも衝撃と言うべきか。
その衝撃は軽い彼女でさえ吹き飛ばす力こそ無いものの、ケイを身構えさせた。
衝撃が通り過ぎ、ケイは目をゆっくり開ける。
……誰かいる。
ほんの数秒前までは確かに自分以外誰もいなかった。
だが、まるでテレポートでもしてきたのようにそこに存在している。
あの時と同じだ。
風が雲を混ぜ、月が現れる。
月光がケイとその人物を差す。
「ーーコンバンハ。 また逢いましたね、麗しきお嬢さん……」
「こんばんは。 貴方に会いにきました」
「光栄の極みです」
出来るだけ平静を装い答えると男は恭しく笑い頭を下げる。
ケイはその笑みに底知れない何かを感じ恐ろしく感じた。
まるで蛇に睨まれた蛙のように身体が硬直する。
「怖がる必要はありませんよ。 貴女は私に全てを委ねればいい」
男が歩み寄る。
気付かれぬように静かに右手を後ろに回す。
額に汗が一筋、流れるのは決して夏の夜の蒸し暑さだけのせいではない。
時の流れがやけに遅く感じた。
だが、それは気のせいだと知る。
気が付けば男は目と鼻の先で彼女を見下ろしていた。
男は耽美に口を歪めた。
そうだ、緊張してる暇なんてない!ーーケイは息を深く吸い、そして息を吐く。
目をキッと見開き、心に決める。
男は不思議そうに眉をひそめたーーその刹那。
「てやぁ!」
ケイは後ろに回していた右腕を居合抜きのように突き出す。
バチリと電光が軌跡を残した。
スタンガンだ。
電圧は油断していた不審者の鳩尾を正確に突き襲う。
過激に思えるが所詮は男と女、力の差は歴然だ。
この不審者を捕まえるには致し方無い。
これで終わるはずだった。
だがしかし……。
「ーーこれは驚きましたね」
彼が静かに笑う。
ケイはその不自然な感触に目を開けた。
まるで手ごたえがない。
その理由を直ぐに知る。
いや、知ったところで理解不能だった。
ケイの右腕は不審者の鳩尾に吸い込まれるように貫いていたのだ。
「いやはや、やんちゃなお嬢さんですね」
ケイはゾッとして手を引き抜き2、3歩下がり唯一無二の武器を零す。
人知を超えた恐怖に支配された心地だ 。
男の胸はぽっかりと空き、こちら側から反対側が見えていた。
まるでそこだけ霧になったかのようだ。
「……あ、貴方は……」
「おや、これは失礼。 私とした事が名乗り忘れていたようですね」
男の胸の霧が渦を巻き再生、実体を帯びていく。
やがて、それが塞がった時には今起こった事でさえ夢に思えてしょうがなかった。
男が身を翻す。
口元から鋭い牙が覗く。
ケイは気圧されペタリと腰を抜かす。
気温が下がったようで勝手に身体が震える。
彼の目が耽美に、そしてまた獲物を見つけた獣の如き輝きを増した。
「ーー我が名はムルシュラゴ・アルナイル。 またの名をーー」
男、ムルシュラゴが何かを念じるとその秘めた恐怖を解き放つ。
ケイはただただその様子を見ているだけだった。
それは血よりも黒く、闇よりも紅く。
「ーーまたの名を鮮血のウェスペルジオ」
そこに立っていたのは大コウモリと形容すれば良いだろうか、人間とはかけ離れたムルシュラゴの、恐ろしくも高貴な出で立ちであった。
ウェスペルジオは動けないケイを見下ろし嗤う。
「メインディッシュの前に前菜を戴くとしましょう」
牙が月光を受け妖しく灯る。
このままでは男の歯牙にかかるのを待つだけだろう。
逃げなければ、いや、体に力が入らない。
助けを呼ばなければ、いや、声が出ない。
「い、いや……」
やっと出た声は言葉にすらならなかった。
後退るケイを嘲笑い、ウェスペルジオが一歩、また一歩近付く。
「ーーあ……」
不意に背中に硬い感触。
見上げる。
木だ。
木の葉が死神の囁きのように揺れた。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……ーー呪詛のように繰り返す。
何に対して謝っているのかケイ自身分からなかった。
それは自分を頼った友人に対してか。
それは心配ばかりかけている両親対してか。
それは守れなかった正義に対してか。
それは裏切った無力な自身対してか。
それとも好奇心で触れた箱に対してか。
「さぁ、私の糧となり生き続けなさい……!」
ウェスペルジオの手が伸び、そしてーー。




