村のお祭りに来たい竜は、人がこわくて空から下りられない
アステリア王国の南に、リーネという小さな村がある。
広い畑と、ゆるやかな丘。
春には白い花が咲き、秋には小麦が金色になる。
王都のような大きな建物はない。
有名な店もない。
けれど、年に一度だけ、近くの町からも人が集まる日があった。
秋の収穫祭だ。
「リオ! そっちの旗、もう少し右!」
「右ってどっち!」
「そっちは左!」
「最初に言ってよ!」
十五歳の少年リオは、村の広場で大きな声を出していた。
祭りは明日。
大人も子どもも、朝から準備に追われている。
広場には長い机が並び、家々から料理が運ばれてくる予定だった。
焼いた肉。
野菜の煮こみ。
甘い焼き菓子。
今年取れたばかりの小麦で作る大きな丸パン。
リオが一番楽しみにしているのは、そのパンだった。
「今年は三つ食べる」
そう言うと、幼なじみのメラがあきれた顔をした。
「去年も同じこと言って、二つでお腹いっぱいになってたよ」
「今年は大きくなったから」
「一年でそんなに変わらないって」
二人が言い合っていると、村の老人が空を見上げた。
「また来てるな」
「何が?」
リオも上を見る。
青い空。
白い雲。
その間に、小さな黒い影があった。
「……竜?」
「ああ」
かなり高い場所を、一頭の竜がゆっくり回っている。
大きさまではわからない。
「最近よく見るぞ」
老人が言った。
「三日くらい前から、村の上を飛んでる」
「下りてこないの?」
「来ないな」
リオはしばらく空を見ていた。
竜は何度か村の上を回ったあと、山の方へ飛んでいった。
次の日。
収穫祭が始まった。
朝から村の広場は人でいっぱいだった。
楽器を鳴らす人。
料理を売る人。
走り回る子ども。
酒を飲んで、まだ昼なのに顔を赤くしている大人。
「リオ!」
「今行く!」
メラが手を振っている。
二人は屋台を回り、焼き肉を食べ、丸パンを一つ買った。
「うまい!」
「早く食べすぎ」
その時だった。
「あ!」
近くにいた子どもが空を指さした。
「竜!」
広場にいた人たちが顔を上げる。
昨日と同じ竜だった。
今日は少し低いところを飛んでいる。
「祭りを見に来たのかな」
「まさか」
「でも昨日もいたよ」
村人たちは楽しそうに話した。
アステリアでは竜を見ること自体は珍しくない。
それでも、村の上を何日も回る竜は少し変わっている。
竜は一度だけ低く下りてきた。
その瞬間。
広場の子どもたちがいっせいに手を振った。
「おーい!」
「こっち来いよ!」
「竜だー!」
すると竜は急に上へ逃げた。
「あれ?」
リオは首をかしげた。
竜はそのまま山の方へ消えていった。
「……人がこわいのかな」
メラが言った。
「竜なのに?」
「竜だって、こわいものくらいあるでしょ」
「そうなのかな」
「人間だって、人がこわい人いるじゃん」
「それはいるけど」
リオは、竜が消えた空を見た。
昼すぎ。
祭りの手伝いを少しぬけて、リオは山の方へ向かった。
「どこ行くの?」
当然のようにメラもついてきた。
「あの竜を探す」
「なんで?」
「気になるから」
「それだけ?」
「それだけ」
二人は村の外へ出た。
森の近くまで行くと、大きな木が何本もある。
しばらく歩いたところで、メラが立ち止まった。
「リオ」
「何?」
「あれ」
木の向こう。
一頭の竜がいた。
思っていたより小さい。
馬より少し大きいくらい。
赤い体に、黄色い翼。
まだ若い竜に見えた。
地面に座り、遠くの村を見ている。
「いた」
「静かに」
二人は少しずつ近づいた。
枝を踏んだ。
ぱきっ。
竜が飛び上がった。
「待って!」
リオが言う。
竜は翼を広げた。
けれど、すぐには飛ばなかった。
「何もしないから」
竜はじっと二人を見る。
「祭り、見に来てたんだろ?」
返事はない。
「パン食べる?」
リオは持っていた袋から、半分残していた丸パンを出した。
「それ、自分で食べるんじゃなかったの?」
メラが小声で言う。
「今はいい」
地面へ置き、少し下がる。
竜はしばらく動かなかった。
やがて、ゆっくり近づく。
パンのにおいをかぐ。
一口食べる。
もう一口。
全部食べた。
「食べた」
「そりゃ食べるでしょ」
「うまかった?」
「きゅう」
二人は顔を見合わせた。
「鳴いた」
「聞こえた」
竜は少しだけ首をかしげた。
「名前あるのかな」
「聞いてみれば?」
「お前、名前ある?」
「きゅう」
「わからない」
首を見ると、細い革ひもがあった。
そこに小さな札がついている。
「文字がある」
リオは目を細めた。
「……ナナ?」
「そう書いてあるね」
「お前、ナナっていうの?」
「きゅう」
今度は少し大きく鳴いた。
「そうみたい」
メラが笑う。
どうやら野生の竜ではない。
どこかで人と暮らしていたのだろう。
「なんで村に下りてこないんだ?」
リオが聞いても、もちろん答えない。
けれど人が近づくと体が固くなる。
少し大きな声を出すだけでも、すぐ翼を広げる。
「やっぱり、人がこわいんだ」
メラが言った。
「昔、何かあったのかな」
「わからない」
二人は少し離れた場所に座った。
無理にさわらない。
近づきすぎない。
ただ、同じ方向から村を見た。
遠くから音楽が聞こえる。
「祭り、行きたい?」
リオが聞いた。
ナナは村を見る。
「行きたいんだろ」
「きゅう」
「でも人がいっぱいだもんな」
ナナはその場に丸くなった。
リオは考えた。
そして急に立ち上がった。
「メラ」
「何?」
「ちょっと村に戻ろう」
「ナナは?」
「ここで待っててもらう」
「待っててくれるかな」
「たぶん」
リオはナナを見る。
「すぐ戻るから!」
当然、返事はない。
二人は村へ走った。
広場では、まだ祭りが続いている。
「父さん!」
リオは父を見つけた。
「どうした。そんなに走って」
「お願いがある」
「何だ」
リオは事情を話した。
村の上を飛んでいた竜。
名前はナナ。
祭りを見ている。
でも人がこわくて下りてこられない。
父は腕を組んだ。
「それで?」
「祭りを少しだけ、村の外でもやれない?」
「村の外?」
「みんなで行くんじゃないよ」
リオは説明した。
「少しだけ料理と音楽を持っていくんだ」
父は目を丸くした。
「竜一頭のために?」
「だめ?」
近くで話を聞いていたパン屋のおばさんが笑った。
「面白いじゃない」
「え?」
「丸パンならまだあるよ」
肉屋の男も言った。
「焼いた肉も持っていける」
楽器を持っていた老人が手を上げる。
「一曲くらいなら山まで行ってもいいぞ」
「待て待て」
リオの父があわてる。
「大人数で行ったら意味がないだろ」
「あ」
みんな止まった。
「竜は人がこわいんだろ?」
「そうだった」
結局。
リオ。
メラ。
リオの父。
パン屋のおばさん。
楽器を持った老人。
五人だけで行くことになった。
山へ戻ると、ナナはまだいた。
「いた!」
リオが走りそうになり、メラに服をつかまれた。
「走らない」
「あ、そうだった」
五人は少し離れたところで止まった。
地面に布を広げる。
丸パン。
焼いた肉。
りんご。
甘い菓子。
「なんだこれ」
父が言う。
「小さい祭り」
リオは答えた。
「ナナ用の」
老人が小さな笛を吹き始める。
村で流れていたのと同じ曲。
大きすぎない音。
ゆっくりした曲。
ナナが顔を上げた。
こちらを見る。
「来てもいいよ」
リオは言った。
ナナは動かない。
「来なくてもいいけど」
メラが続けた。
「見てるだけでもいいよ」
しばらくして。
ナナが一歩だけ近づいた。
止まる。
また一歩。
また止まる。
最後には、布から少し離れたところまで来た。
パン屋のおばさんが丸パンを置く。
「これ、今日の祭りのパンだよ」
ナナは近づいて食べた。
「おいしい?」
「きゅう」
みんなが笑った。
ナナはびくっとした。
「あ、ごめん」
すぐ静かになる。
少しして、ナナも落ち着いた。
夕方まで、小さな祭りは続いた。
ナナは人にさわらせなかった。
それでいい。
近くに座ることはできた。
音楽を聞いた。
パンを食べた。
リオたちが話す声を聞いていた。
夕日が山の向こうへ下りるころ。
ナナが急に立ち上がった。
「帰るの?」
「きゅう」
翼を広げる。
そして空へ飛び上がった。
「またな!」
リオが手を振る。
今度はナナも逃げるようには飛ばなかった。
村の上を大きく一周する。
それから山の向こうへ消えていった。
次の朝。
村の広場を片づけていると、大きな声がした。
「竜だ!」
リオは空を見る。
ナナだった。
昨日より低く飛んでいる。
村の上を一周。
二周。
そして。
広場のはしへ、ゆっくり下りた。
村人たちは驚いた。
でも、だれも走って近づかなかった。
昨日の話を聞いていたからだ。
「おはよう」
リオが少し離れた場所から言った。
「きゅう」
「今日は下りられたな」
ナナは広場を見回した。
もう祭りは終わっている。
机も片づけ始めている。
「来年は、最初から来る?」
「きゅう」
「約束な」
もちろん、本当にわかっているかは知らない。
でも、それからナナは時々リーネ村へ来るようになった。
人の少ない朝。
静かな夕方。
少しずつ。
少しずつ。
村人も無理に近づかなかった。
いつか人の中へ入れるようになるかもしれない。
ずっと少し離れた場所が好きなままかもしれない。
それでもいい。
竜と人が共に暮らすというのは、いつも近くにいることではない。
相手が安心できる場所を、ちゃんと残しておくことでもある。
そして次の年。
リーネ村の収穫祭の日。
一頭の赤い竜が、朝から広場のはしで丸パンを待っていた。




